はじめに
大阪市内の識字学級(校)は、部落解放運動の取り組みという視点からではなく、行政の「事業」という視点で見れば、時期によってその位置づけは変わってきた。識字学級は同和対策事業として行われた時期もあるが、その後1999年に同和対策事業から一般施策事業となり日本語読み書き教室等とあわせて「識字推進事業」として再編された。そして、2003年から2006年度末までは青少年会館(以下、青館)事業として実施されてきた。その後2006年度末の青館条例廃止・市職員引き上げに伴い、新たな課題に直面している。
青館条例が廃止されるまで、各教室には市職員が識字学級の担当者(以下、識字学級担当者)として2名配置されていた。そして学習者・学習パートナー(ボランティア講師)・識字学級担当者、そして部落解放同盟支部関係者がそれぞれちがった立場から識字学級(校)を支えてきた。
しかし2006年度末の条例廃止・市職員の引き上げとともに現場で教室の運営に関わっていた識字学級担当者はいなくなり、現在は大阪市役所(大阪市教育委員会事務局)にいる4名の担当者のみとなった。その結果、従来以上に自主運営を求められるようになっている。
現在、識字学級(校)には、部落差別や貧困、戦争、病気や障害などにより教育の機会が十分に保障されてこなかった人たち、在日朝鮮人、また中国をはじめとする外国からの帰国者、仕事や国際結婚などにより大阪で生活をしている人たち、更生施設からの参加者など幅広い層の人たちが学びにきている。
私はこの識字学級に2000年から学習パートナーとして参加している。参加したころの私は、部落解放運動や識字運動について、少し聞いたことがあるぐらいで何も知らなかった。しかし、識字学級に関わり、たくさんの人と出会い、奪われた文字や奪われた力を取り戻す取り組み、またそれを可能にした部落解放運動としての識字の大切さを学んだ。
本稿では、筆者が学習パートナーとして関わる日之出よみかき教室の青館条例廃止前後の取り組みを私なりにふりかえりながら、大阪市内の識字学級(校)が置かれている現状について考えてみたい。
日之出よみかき教室について
日之出よみかき教室は、部落解放運動の要求のなか、1970年に誕生した。教室はもともと日之出解放会館(現・東淀川人権文化センター)で開かれていたが、2002年度からは青館で行うようになった。現在、木曜の午後79時と土曜の午後24時に開催している。
運営は学習者と学習パートナーからなる「日之出よみかき教室実行委員会」が中心となり、条例廃止前はこのなかに青館職員である市の識字学級担当者が加わっていた。
現在参加している学習者は、日之出地区の人たちだけでなく、周辺地区からくる人たちや外国籍の人たちに拡がっており、年齢層や抱える課題もさまざまである。学習パートナーも学校教員や退職教員、団体職員や一般企業に勤める人、行政職員などこちらもさまざまだ。学習内容はそれぞれ抱える課題が異なるため、内容も進度も、学習者に応じてさまざまである。しかし、教室では年に一度、生い立ちつづりを中心とした文集をまとめて出している。この文集は、日々の学習の合間に、それぞれの被差別体験や生い立ちについて話をしながら、それを文章化したものである。
青館条例廃止反対運動のとりくみ
さて、条例廃止前のことであるが、日之出青館では2006年5月に「青少年会館利用者懇談会」が開かれた。それは今後、青館などの施設を取り巻く状況の変化が予測され、そのことへの危機感からだった。その後「日之出青少年会館利用者の会」がつくられたが、その頃はまだ今のような厳しい状況をまったく予想することはできなかった。しかし、3カ月後の8月に「大阪市地対財特法期限後の事業等の調査・監理委員会」から青館における館事業の終結や一般施設化に関する提案が出され、それから日を追うごとに市職員の引き上げなど青館を取り巻く状況の厳しさが少しずつ見えはじめた。教室では、私たちのその状況認識をもとに要望書を市長と教育委員会に提出した。文書だけでは私たちの要求や真意が伝わらないと考え、市教育委員会職員に青館に来てもらい、実状を示しながら私たちの要望を伝えた。そこで参加者は教室に対するそれぞれの思いや感じていることを訴えた。昔だったら人前で話すことができなかったという学習者の人たちもしっかりと自分のことばで思いを語り、訴えた。
私はその人たちの声をききながら、条例廃止に向かいつつある大きな流れに対し、何もできないでいる現在の運動の状況が悔しくてならなかった。また、部落解放同盟日之出支部と大阪市との協議の場や、大阪市による説明会にも参加した。もちろん、テーブルの向こう側に並ぶ市職員が悪いのではない。しかし、これまで識字学級担当者をはじめとする市職員と一緒になって創ってきた活動を「同和対策事業によって立てられた施設、行われてきた事業だから」という理由で一方的に廃止されていくことに対して、これまで感じたことのないほどの怒りがこみ上げ、ことばにならなかった。2003年度から支部の活動方針に識字の取り組みについての記載がなくなってしまった。
ところで、古い時期はわからないが、現在では日之出をはじめ、識字学級(校)と部落解放同盟各支部との直接的な関わりが薄れているところが少なくないように感じる。
それでも、条例廃止運動のさなか、日之出支部と話し合う機会はあった。内容は大阪市に対し、識字学級の現状維持を支部の要求項目としてあげるか、あげないかということだった。日之出支部の考えとしては、教室の現状をみたとき地区内の参加者の高齢化、参加者層も変化してきているとの観点から、部落差別に関わる課題の解決のための「場」だけではなくなったという認識のもと教室の現状維持を特別対策で求めることはできないということであった。もちろん、私たちには日之出だけが現状維持を求めることは難しいとわかっていたし、支部としてもそう言わざるを得ないこともわかっていたが、参加者層は変化しつつも識字運動を部落解放運動の一環と考えて活動に取り組んできた私たちにとって、この話は辛いことだった。
教室の方針や理念についてあらためて考える機会
条例廃止反対運動のさなか行われた学習者・学習パートナーによる話し合いは、「教室の何を残したいのか、何を大切にしたいのか、自分にとっての識字とは何か」について話し合う機会にもなった。また、日之出の近隣には飛鳥・南方と教室が隣接しているので、いずれ統合されるのではないかという不安もあり、教室が日之出という地域の中にあるということの積極的意味についても話し合った。そして、もう一度、教室の活動を参加者でつくり支えていくことの大切さを確認した。
大阪市内の識字学級(校)では、条例が廃止された昨年度から、学習パートナーから選ばれたコーディネーターと呼ばれる世話人が教室運営を行う「コーディネーター制」へと変更された。しかし日之出の場合、実行委員会形式を維持しつつ、コーディネーターが中心となり、学習パートナー間で役割分担している。教室の場所はこれまでと変わらず、青館を利用することができている(地域によっては人権文化センターを利用している教室もある)。消耗品などの運営予算は、条例廃止前に比べればかなり削減されたが、運営に必要な場所と予算は今のところかろうじて確保されている。
条例廃止後、土曜日の教室では学習者、学習パートナーの人数が減った。それは条例廃止が原因というより、出産や転勤、病気など個人的な理由によるものだった。ただ、現状をみると減った学習パートナーを補えていなかったり、新しく参加した学習パートナーへのサポート体制が弱く、辞めてしまったりということもあった。学習パートナーの体制が安定していないので、学習者の数が減ったり、新規の学習希望者がきても受け入れられなかったりと、悪循環が引き起こされた。
ところで昨年、学習パートナー不足のとき、学習者Aさんが、学習者Bさんの計算の学習を手伝うという場面があった。Aさんは本来、日本語の学習を希望して教室に参加していたはずなのにBさんの学習の手伝いをする状況になった。日本語の学習をおいての取り組みだったので、学習パートナーとして申し訳ない気持ちになったのだが、相互に学びあい、教えあう関わり、そういう取り組みが、少しあってもいいのではないかと感じた。また、最近では、長期間休んでいた学習パートナーに教室の状況を伝え、再度参加してもらえるよう促したり、新規学習者希望者も増えてきたりと、少しずつだが人数も安定してきている。しかし依然として、学びたいと教室見学に来る人に対して、それを受け入れるだけの学習パートナーの数は確保できていない。
条例廃止・市職員引き上げによって、これまで識字学級担当者が担っていた作業の多くを、学習パートナーが行うことになった。事務的な作業よりも、事務局機能を担ってくれていた市の識字学級担当者がいなくなったことは、影響が大きかった。
参加者層の異なる木曜・土曜の2教室をつなぐパイプとして、また、参加者の不安やしんどさ、不満などをうまく受け止め励ましてくれていた存在でもあった識字学級担当者がいなくなったことで、当初、参加者間での意思疎通や連絡などで問題がいくつか起こった。
もちろん、識字学級担当者がいれば解決したかと言えば、必ずしもそうではないかもしれない。しかし、彼ら/彼女らがいなくなり、参加者にさまざまなところで負担が増え、何か問題が起こったときに教室の問題として気づき、対処する余裕が少しずつなくなっていたのではないだろうか。予算が削減されたことよりも事務局的な機能を担っていた、また、参加者と異なる立場で教室を支えてくれていた識字学級担当者の役割や存在の大きさを感じた一年だった。
日之出の場合、特に識字学級担当者も教室の運営に関わり、一緒に教室をつくる「仲間」という意識が強かったのでなおさらだった。この「仲間」という意識は、困難な状況のなか、現在、市内の20教室を支えている4人の担当者たちへも変わらない。
青館から市の識字学級担当者がいなくなったことの影響はただ単に、各教室の運営に影響を及ぼしているだけではない。これまでは他教室との連携や参加者のニーズを何らかの社会資源につなぐ必要がある場合には、識字学級担当者がもつネットワークを通じてなされていたが、それがなくなった昨年度以来、学習パートナーが休日や多忙な仕事の合間をぬってそれらの支援を行わなければならなくなっている。例えば、数ヶ所の教室に通いながら高校進学を希望していたCさん(外国籍の学習者)のために学習パートナーが走り回るということもあった。各教室での学習の連携や進路説明会、ビザ取得の手続きなどのためだ。こうした面においても市の識字学級担当者の引き上げは教室の運営に大きな負担を強いている。「新しい識字をつくる、教室をつくっていく」として昨年度から教室の自主運営がはじまったが、条例廃止から2年目、思っている以上に教室を維持し広げていくことの難しさを感じている。
負の中から生まれたポジティブな側面 -地域のつながり-
条例廃止を知らされた2006年8月以降、私たちは子どもたちの保護者、青館職員の一部の人たちと来年度どうなるのかもわからない不安な先の見えない状況のなか、この状況に納得ができず、諦められず、市役所前でビラ配りをしたり何度も話し合ったりした。
そして条例廃止反対運動から条例廃止後の一年半、ひきつづき現在も青館を利用する子どもたちやその保護者、青館の元職員・元指導員が、それぞれの立場で励ましあい活動を支えあってきた。反対運動当時は一筋の光も見えず、毎日どのようにすすめばいいのか悩む日々だったが、一年半たった今、そういう人たちと小さくとも強いつながりができはじめていると感じている。これまで「教室」と「地域」のつながりは薄れており、「つながり」を築くということが課題であったのだが、なかなかできていなかった。皮肉なことに、その「つながり」がこのようなかたちで少しずつだができはじめたように思う。また少し離れたところでそれぞれの活動を応援し力づけてくれた研究者の存在、つながりも大きな支えとなった。小さくともこの「つながり」を大切にしていきたいと思っている。
また、日之出の青館には、今でも児童いきいき放課後事業の分室という形で、子どもたちが通っている。この子どもたちとも、おやつづくりやイベントなどを通じて関わりを持てればと思っている。お互いの活動を支えあい、活性化することももちろんだが、将来、彼ら/彼女らがおとなになり、課題を抱えたとき、再び学びたいと感じたとき、識字学級に気軽に来ることができる、そのような教室でありたいと思っている。
条例廃止以降、支部のメンバーと何度か話し合う機会があった。そこで感じたことは、かつて女性部が積極的に識字学級にかかわりを持っていたころのようなつながりは難しくとも、支部のメンバーには「地域」と識字教室がつながる場としてオガリ(朗読劇)の発表の場を設定してくれたり、教室の取り組みを大切に思ってくれたりする人たちがいるということ。今はまず、支部にいるその人たちとのつながりを大切にしていきたい。
厳しい状況のなかでもその状況を嘆くだけではなく、そのなかから新しい識字運動を模索する可能性も少しずつだが見えはじめたような気がする。
これからの課題
今の私たちの教室には、たとえば教室の充実、参加者の停滞、誰とどのようにつながるのか、識字を必要としている人と教室をつなぐことの難しさなど、課題は山ほどある。場所にしても今後同じように青館が利用できるとは限らない。
しかし、理念ばかりといわれるかもしれないが、こんなときだからこそ大事にしているものを足元で固めていく必要があるのではないか。
参加者それぞれの理念や思いは異なるけれども、私たちの教室では、参加者自身が受けた抑圧や差別に対する「怒り」をカタチにできる教室でありたい、自分の中に押し込めてしまいたい、「怒り」や「悲しみ」「苦しみ」、その人が抱えるしんどい部分に自身や周りの人が丁寧に向きあい、それを「ことば」として表現できる、そんな教室でありたい。そのような教室づくりを可能としてきた「部落解放運動としての識字」の原点を大切にしながら日々の教室をすすめていきたい、と私はそのように考えている。
条例廃止前の反対運動のさなか、私が感じていたこと、それは市内の同じような状況下にある識字学級(校)に関わる人たちが厳しい状況をどのように感じ、どのような取り組みをしているのかということ、また、このような逆風のなかだからこそ、そうした人びとと「連帯」できないのかということだった。
条例廃止から一年半がたった今、私はやっと市内にある教室を少しずつ訪問させてもらっている。教室を訪問して感じること、それは教室の多くは各地区の支部と直接的な関わりが薄れてきてはいるけれども、「部落解放運動としての識字」、「運動としての識字」という理念は今もなお健在であるということだ。教室の多くが、この視点をもち続けながら運営されている。そして何よりそうした教室を訪問して感じるのが、その教室のあたたかさだ。学習パートナーもだが、学習者の人が何よりあたたかい。「またおいでや」と声をかけてくれたり、あたたかいまなざしで迎えてくれたりする。私だけでなく、誰であっても受け入れるこの大きなあたたかさは、緊張しながら初めて教室に訪れる人を包みこんでくれるのだろう。
「解放運動としての識字運動」という視点を軸に置き、抑圧されてきた人たちが反差別の立場で解放される「場」、仕事や社会とつながる「場」。あるいは、人とのつながりが絶たれている人たちが人間関係を紡ぎなおす「場」、生きなおす「場」として、識字学級(校)にはさまざまな人たちが集っている。その「場」を目にしたとき、本当はもっとこのような場が必要であるし、この「場」につながるべき人はたくさんいるのだろうと感じた。
大阪市には「大阪市識字施策推進指針」というすばらしい指針がある。「識字は、人間が人間として自らを解放していく営みである」と指針にはある。このような、識字の「場」を必要とする人はたくさんいる。このような「場」を維持し、発展させるために必要なものは何か、またそれらを可能とするために必要な支援はなにか、これまでの成果と現状をふまえながら再度確認・検討していくことが必要なのではないだろうか。
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