1 船坂小学校について
西宮市の人口は尼崎市を抜いて兵庫県で3番目に大きな都市となったが、市域は北の方まで広がっており、船坂小学校は有馬温泉に近い山の中にある自然に恵まれた学校である。船坂小学校を紹介する時には、「一番古い学校」「校区が一番広い学校」「一番高い所にある学校」と、3つの一番という表現をよく用いる。校舎は2階建ての木造で、運動場もそれほど広くない小さな学校であるが、歴史が古く、地域住民のほとんどが船坂小学校出身であることから、学校に愛着を持たれている方が多い。児童数は60人弱で、1学年10人に満たず、兵庫県の基準である14人以下であることから複式学級が行われている。学校のすぐ近くに児童養護施設があり、年によって異なるが、平均して施設の子どもが在籍児童数の約半数を占めている。
2 子どもたちの自尊感情の醸成とネットワークの構築
(1) 子どもたちの状況
私が船坂小学校に赴任した時、「子どもたちが非常に投げやりである」という印象を受けた。人なつっこくて教員によく話しかけてきてかわいい子どもが多いのだが、何かあると、言葉は悪いが「キレてしまう」「手や足が出てしまう」子どもが多く、ちょうどコップに水が一杯入っていて、1滴の水であふれてしまうような感じで、子どもたちの気持ちがすごく張り詰めていると感じた。この原因について何人かと話し合ったが、結局、施設から通っている子どもたちの生活背景に行きついてしまうのであった。
子どもたちが施設に入所する事情はさまざまであり、その多くは経済的な理由、例えば借金を抱えた保護者がサラ金から逃げている場合などだが、稀に保護者が結核で入院したために入所するケースなどもある。最近増えているのが、ネグレクトを含む虐待が原因で入所する子どもである。全国では虐待により年間に120数人の子どもが亡くなっており、3日に1人の割合で亡くなるというひどい状況にある。
子どもたちのなげやりな態度を何とかしたいということが発端になって、学校の中で何ができるのかを考えていた時に、ちょうど兵庫県の人権教育基本方針の策定年にあたっていて、在日外国人の多い学校や船坂小学校のように施設から通っている児童の多い学校など、人権の課題のある14校に人権教育を支援するための教員加配があったこともあり、学校として組織的な取組みを始めた。
(2) 自尊感情を育むために
今でこそ自尊感情という言葉は広く使われているが、我々は子どもたちの実態から、何とか子どもたちに自尊感情を育みたいと考え、当初は本当に手さぐり状態で取り組み始めた。ちょうどその頃、パットパルマ−さんの「自分を好きになる本」(径書房)に出会い、それを教材にして、子どもたちが自分自身を好きになれるように取り組もうと考えた。しかしながら、「いいところ探し」などの取組みで、子どもたちは自分が気づかなかった所を友だちから言われて良い気分になるという意味では効果があったのだが、私達はもっと粘り強い自尊感情の醸成を行う必要性を痛感し、そのような自尊感情をしっかりと育むことを中心にした授業や学校での活動に取り組んだ。
ところがある時、同和教育の研究発表会で山口中学校が施設について発表される機会があり、船坂小学校出身の子どもが、他の小学校出身者から「あんた船坂から来てるんやろ」と尋ねられて「私、船坂やけど施設ちがうで」と答え、それを聞いた施設の子どもが今まで仲間だと思っていたのに非常にショックを受けたという話を聞き、それまで小学校で仲間作りの取組みを行ってきたのは何だったのかという思いにかられ、翌日の職員朝礼で報告し、もう一度学校の取組みを見直すことにした。
現実には、大人が「そんな悪いことをしていると施設に入れるぞ」という発言をしている。一方、施設には、学校が終わって施設に戻ったら外出できないという規則が20年以上も前から続いていた。施設の子どもの中に「私、船坂小の子が嫌い」と言う子どもがいたので、理由を尋ねると、一緒に放課後遊べないからだという。結局、この子どもたちが置かれている現実を変えていかなければ、どんなに仲間作りの取組みや同和教育をしても解決しないと考えた。
そこで、懇談会、PTA総会あるいは学校長を通じて保護者に働きかけてもらったり、施設長にも来てもらったりして、この外出禁止の規則の撤廃を図った。しかし、長年続いてきたものを変えることは容易ではなく、保護者の中にも施設の子どもが家に遊びに来ることを受入れにくい方もいた。2年ほどかかって、放課後遊びに行く場合は施設から電話するという慎重なやり方でスタートし、今では自由に遊びに行けるようになった。
取り組む中で、この規則のように子どもたちを縛ったり自尊感情を阻んでいるものが見えてきた。いくら学校で「いいところ探し」などで自尊感情を高めても、この部分を変えていかなければ駄目なのである。
また、進路につながることであるが、施設の子どもたちの中には、小学校高学年で「どうせいくら勉強しても高校なんか行けないし、高校へ行ったとしても希望の所に就職できない」と言う子どもがいた。実際、当時の施設の子どもの高校進学率を計算すると27%であり、他の者は中学卒業後働くというのが現実であった。いくら子どもたちを励ましても、この現実を変えない限り、先輩の姿を見ている子どもたちが将来に不安を抱かないはずがないと強く思った。
進路について学校で何ができるのかと考えた時に、施設の子どもたちは30人近くが狭い部屋で勉強しているが、とても勉強に集中できる環境にないという現実がある。そこで放課後、勉強したい子どもに学校の教室を開けるなど、できるところから取組みを始めた。私たちは、子どもたちに「自分で自分のことを決めていく力」を育成することが、子どもの進路実現に向けて小学校ができる取組みだと考えている。
(3) ネットワークの構築
しかし、小学校だけでできることは限られているため、中学校とは小中連絡会による連携、それ以外に施設の子どもについて話し合う場を定期的に持っている。また、施設に入所するのは子どもセンター(児童相談所)を通じて行われ、入れ替わりも多いことから、学校が子どもセンターに関わって、入所してくる子どもたちについてきちんと情報を得られるシステムづくりや、子どもたちの進路について話をする必要がある。そのため、小学校、中学校、施設、子どもセンターが話し合うことを始めた。今では市教委も加わって、5者懇談会を実施している。児童養護施設に関しては、厚生労働省の所管であるが、子どもたちの教育に関しては文部科学省の所管となる。縦割り行政の垣根を越えて連携し、ネットワークをつくることを大切にしている。このように連携することで、それぞれの抱える課題も明らかになり、それを解決するためにどのように協力できるかという話し合いも可能になる。施設の子どもたちは、自分の悩みなどを相談する相手となる大人が限られているため、ネットワークを広げて施設に第3者機関が関わることが重要であり、子どもたちの未来にとっても必要なことだと考えている。
最初に施設の子どもたちがなげやりだと述べたが、そのように感じたのは、子どもたちが進路に対する不安を抱えていることを、私自身が十分見えていなかった面があったからである。ある時、4年生の児童が「私、最近眠れない」と訴えてきた。その子が3年生の時には怖い夢を見て眠れないことがあったので、そのせいだろうと答えたのだが、実際にはその子は小学校を卒業して中学へ行ってその先の進路のことが心配で眠れなかったのである。その子の生活背景は、両親の不仲が原因で父親と会社のソファで寝る毎日というものであった。本人は記憶してないが、母親に命を奪われそうになることもあったという事を、後に周りの大人から聞いていた。施設に来てからしばらくは父親から連絡があったが、その連絡も途絶え、中学卒業後の進路について不安な日々を過ごしていたのである。まさか小学4年生で自分の将来について不安に感じているとは思いもよらなかったので、私は非常にショックを受けた。普段は明るく過ごしている他の子どもたちも、施設に帰って一人で寝る時には同様の不安を感じていることは想像に難くない。
さて、小学校の取組みがキャリア教育にどうつながるのかと考えたが、小学校でできる進路指導は、先ほど述べたように「自分で自分のことを決めていける力」をつけさせる事と、不安を取り除いていく大人の力、支援の方法が大切だと言える。だから大人側の役割として、ネットワークをつくって子どもたちの不安を少しでも取り除いていくこと、もう一つは、子どもたちの自尊感情を阻むものを取り除く努力をすることが重要である。そして、やはり大切なのは授業での取組みである。
3 施設から通う子どもたちへの授業実践
兵庫県教職員組合の教育文化研究所が出している冊子「子どもと教育」に投稿した「子どもが語り出すとき」に基づいて報告をさせていただく。
(1) 3人の子どもたち
ずいぶん前のことであるが、1年生を教えたいと思って希望を出し、1年生の担任となった。その時の児童数は7人という小規模クラスであったが、施設から通っていたのは、Yさん、Kさん、Mさんの3人で、それぞれに主張があり、しょっちゅう喧嘩をしていた。
Yさんは幼少の頃、父親から性的虐待を受けていて、その後母親と2人暮らしをしていたが、母親が夜の仕事に出かけるため、寂しさに耐えられず、夜中の町を徘徊することが続き、近所の方の通報で保護された。Yさんは給食を食べる時に、好き嫌いに関係なく、いつも目から涙が出ていた。ちょうどその頃、学校にカウンセラーの方がおられたので、涙を流す原因が虐待に関係するのか聞いたのだが、カウンセラーの回答は脳の中の一部に傷があるというようなピンとこないもので、私が聞きたかった心のケアをどう進めればいいかについては回答を得られなかった。このYさんはかまって欲しいという気持ちが強く、「あそこが痛い」と言っては保健室にたびたび行っていた。こちらもYさんの話を聞くのだが、他の子どもに対応していて「ちょっと待ってね」と言うようなことがあればすぐキレてしまう。Yさんは「どこかが痛い」とか「しんどい」と言えば、大人が絶対かまってくれるということを知っていたのである。学校は子どもの健康が第一であるから「おなかが痛い」とか「足が痛い」と言えば、保健室の先生が必ず面倒をみる。ある時、Yさんは「足が痛い」と言いながら足を引きずっていたので、「大丈夫か」と声掛けして、保健室で手当てではないが一通り見てもらって湿布を貼ってもらったところ、帰る時は反対の足を引きずっていた。足が痛いという演技を一生懸命しているのだが、その姿を見ても私は腹が立たず、本当にこの子はかまってほしいんだなという思いがこみあげてきた。
Kさんは父親と死別し、母親が再婚したのだが、その再婚相手も体調が悪く、母親が保険の外交員や仲居などの仕事をしながら住まいを転々とし、その度にKさんは転校を繰り返し、最終的に船坂小に落ち着いていた。保護者となかなか連絡が取れない時期があって、連絡の取れる時はいいのだが、ない時は1年ぐらい途絶えてしまう。そのような状況の中で、Kさんの情緒は不安定で喧嘩も絶えなかった。Kさんには兄弟が多く、ある時、2つ上の姉が教室に遊びに来て、「先生、昨日いい夢見た、天国にいるみたいにいい夢だった」と言うので、どんな夢か聞いてみると「母親と一緒に食事している」という夢であった。両親がいる家庭では当たり前の風景が、この子どもたちにとっては天国にいるように思えたのである。
Mさんは、もの心つく前から車の中で生活していた。兄がいて、兄に図工を教えたことがあるが、生活経験が不足しているため、赤や青という色が分からない状態であった。入所前は、借金から逃れるため父親が家の近くに車を置いて、ずっとその中で生活していたという。母親の顔も覚えていないようであった。Mさんは授業中じっとすることが出来ず、ずっと動き回って友だちにちょっかいを出して喧嘩したり、時には暴力的になって物をガラスに向かって投げたりもした。私は危険なことをした時は子どもを本当にしかるのだが、その時は近隣に聞こえるような大声で「腕が折れた」とか「上田先生がやった」とか泣き叫ぶのである。落ち着くまで待って話をするのだが、その時の本人は、意識がここにないという感じで、目は宙を泳ぎ、語りかけても耳に入っていないと感じられた。多分、Mさんはこれまでの大人との対応の中で、そうせざるを得なかったのであろう。
さて、Mさんに対応していると、こっちでKさんとYさんが喧嘩しているとか、それに巻き込まれて他の子も喧嘩しているとか、こっちを止めに入ったら別のところでトラブルというような状態が続き、ちょうどその時「小1プロブレム」という言葉が流行っていたが、まさに「学級崩壊」という文字が私の頭をよぎる状況であった。6月ぐらいまでは同僚に「疲れました」と弱音を吐き、教室に行く足取りも重くて、「このままだったらどうしよう」という先の見えない不安があった。何とかしないといけないという気持ちもありながら、不安定な状態で過ごしていた。今、振り返って何がいけなかったのかと考えてみると、私自身、子どもが見えていなかったのである。
(2) 心に響く授業
ある時、私が飼っていた猫が病気で死ぬということがあった。その猫は前年に妻の学校で生活科の教材として飼っていた猫で、授業でもらい手を探すポスター作成などの取組みを行った猫であった。私は心から悲しい気持ちで、猫の死について子どもたちに語りかけたところ、YさんもKさんもMさんも真剣に聞いてくれたのである。そのことで、自分の授業に気持ちが入っていなかったのではないか、子どもたちの心に響くことをやっていなかったのではないかと思うようになった。
それからは、子どもたちの気持ちを汲めるような授業に取り組もうと心掛けた。最初は手当たり次第であったが、例えばYさんが「先生、叫びたい」と言い出した時に、「なんで叫びたいの」と聞いても、1年生ということもあって自分でもよくわからない状態で、きっとストレスが溜まっているのであろうと思って、子どもを連れて学校の裏山に叫びに行ったこともあった。あるいは子どもが「なんか外に出たい気分」と言えば、生活科の自然観察ということで野イチゴを摘みに出掛けるなど、子どもが何をしたいのかということから出発する授業を行った。ただし単なる遊びとせずに、子どもたちが何かを得るものにするという意図を持つよう注意した。とにかく教科書どおりにレールを引くような授業ではなく、子どもたちが活躍できる場面があるような授業を行ったのである。その結果、子どもたちの様子もずいぶん変わっていった。
(3) 「どうぶつの赤ちゃん」の授業
1年の国語の教科書の中に「どうぶつの赤ちゃん」という教材があった。それまで、船坂小学校では家族を扱った教材は避けていた。施設の子どもたちへの配慮というか、逃げていたというか、動物であれ何であれ、お母さんやお父さんという言葉が授業で出てきた時に、施設の子どもが傷つくだろうということで避けていたのである。しかしこの時、これでいいのかという思いが頭を巡った。いくら避けていても、日常会話には出てくる言葉であり、逃げずにきちんとやっていくことが大切ではないかと考え、職員会議にも提案し、施設の先生とも連絡を取り合いながら、授業でこの教材を取上げることにした。
この教材は、簡単に言うと、肉食動物のライオンと草食動物のシマウマを対比し、赤ちゃんが生まれた時の様子の違いについて説明しているものである。ライオンの赤ちゃんは生まれてしばらくは目が見えないし耳は閉じたままなのに対し、シマウマの赤ちゃんは生まれてすぐに立ち上がるし敵が来たら逃げられるよう走れるという、赤ちゃんの対比が分かれば良いという教材である。
施設の子どもがどういう反応をするのか、ということを探りながら授業を進めたのであるが、意外にも、この授業に一番乗ってきたのが施設から来ている3人であった。一番活躍したのもこの3人であり、周りの子どもたちも3人に引っ張られるという状態であった。
彼らが頑張る理由を考えようと、授業を録音して授業記録を作成したり、子どもたちの発言をメモに取ったりもしたが、3人の発言をずっと追ってみて、自分の生活背景を背負った発言であることが分かってきた。それは、本人は多分意識していないであろうが、授業中の発言の出所はここであろうなと想像できるものだったのである。また、3人の発言には、施設以外の子どもとつながろうとしているものが多くあり、授業をうまく構築できれば、授業を通してもっと仲間づくりができるのではと考えた。
例えばMさんがこの授業で疑問に思ったことは、ライオンの赤ちゃんが、目が見えなくて耳が閉じたままということは、お母さんライオンとはぐれてしまわないかということであった。教科書にも載っていないこの疑問を解決するために、子どもたちは図書館や施設の図鑑や本を何冊も見たり、施設の先生から情報を仕入れたりして調べていった。Mさんの場合、赤ちゃんライオンが母親とはぐれてしまわないかという点が疑問なのだが、これは車の中で生活していて母親の顔を覚えていないというMさんの生活背景とつながっていたのだと思う。
Mさんの心配は、3人以外の子どもも加わっていろいろ調べていく中で、少しずつ安心に変わっていった。ライオンの赤ちゃんは20時間ぐらい寝ていてウロウロしないから大丈夫であるということ。ライオンは親せき同士で集団生活しているから、お母さんライオンが狩りに行っても他のライオンがみてくれるということ。また、ライオンの赤ちゃんは、最初はオスライオンのグループから離されて育てられ、少し大きくなってから一緒に生活できるようになり、その時にオスライオンに認められればいいのであるが、赤ちゃんライオンには斑点のような模様がある事に目をつけた子どもが調べてみると、オスライオンはその斑点模様を見ると守ってあげたい気持ちになるということ。赤ちゃんライオンの匂いが本能的に守ってあげたい気持ちにさせることなど。子どもたちはいろいろな事を調べてきたのである。
さらに、ライオンの爪は7cmぐらいあって狩りも上手であること、1頭ではなく集団で役割を決めて戦うから強いということ、時速60kmぐらいで走れるし、お母さんライオンは500kgぐらいの重さのものでも運べるから敵が来ても赤ちゃんを守れるということ、体長が2mで重さが200kgもあること、夜でも少しの光で目が見えることなど、まわりの子どもたちもMさんの疑問に答えようとがんばって調べてくれたのである。
最終的には、本当の事を聞こうということで王子動物園に返信封筒を付けて手紙を出したのだが、動物園からは返事がなく、これは残念な結果となった。しかし、この授業でMさんは大活躍したし、Kさんは「自分もなかなかやるな」と言ったり、Yさんは授業時間が終わるのを惜しむほどであった。本当に5,6月のあの姿はどこにいったのかと思えるほど、子どもは確実に変わっていった。
(4) 子どもが語り出すとき
そのような中、授業中ではないが、Mさんが私のひざの上に乗って、「先生、ぼく、昔のこと思い出した。」と言い出した。それまでは私が昔のことを聞いても「そんな事知らない」と相手にしなかったのであるが、恐らくこの授業に取り組む中で気持ちが変わってきたのであろう。Mさんが「車の中にいたけれど、お母さんがホットケーキを焼いてくれて、それがすごくおいしかったことを思い出した。車から見える家が自分の家だったと思う。じゅうたんが敷いてあったのを覚えている。」と話し出した。それまで何も語らなかった子どもが、自分のことを語り始めたのである。それを聞いたYさんもKさんも触発されたように、競って施設に来る前の自分のことを話し出した。
高学年や中学生であれば、自分のことを見つめ、自分史を書いて自分のことを語るという手法が考えられるが、小学1年生ということもあり、そこまではできなかった。しかし一つの教材を通じて自分の生活背景を語っていくことが、子どもたちにとって自分を語るということにつながっていったのだと思う。今までの授業であれば、子どもたちは「どうでもいい」という反応であったのが、自分のこだわりを持って話をすることで、友だちから反論されても投げやりにならずに「私はこう思う」と意見を述べるなど、自分の気持ちを最後まで言える強さが身についてきたのである。
教員は、授業の中で「この教材を使ってこういうことを考えさせよう」と思うことがよくあるのだが、そうではなくて、もっと根源的な部分で「この教材を扱うことは子どもたちにどんな意味があるのだろう」という所に立ち返って考えていかないと、子どもたちはこのように変わっていかないと思う。今回の教材は、赤ちゃんや親が出てくる教材であったのだが、今まで触れなった部分に触れることが、子どもたちの気持ちを動かすことにつながった。子どもたちが語り合うことにつながる授業づくりが、教員の大きな役割であり、キャリア教育につながるのではと考えている。
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