はじめに
報告で私に与えられた課題の一つは、日本の近代がマイノリティを生み出してきたメカニズムについてであり、以下に、私がこれまで主要な研究テーマとしてきた被差別部落を中心に据えながら話を進めていきたい。
いわゆる解放令は封建的な身分制度による賤民身分を廃止するものであった。それゆえ、制度的には1871年に、穢多、非人等の賤民身分はなくなったはずである。それにも関わらず、現在なお部落問題が存続している、それはなぜかということを正面に据えてみようというのが、本報告のテーマである。
部落差別は封建遺制か、それとも近代社会が生み出した(ないしは再生産してきた)ものか、という問いが存在する。明治維新から140年が経過し、その間に社会は大きく変化をとげており、そのなかで部落問題だけが、封建時代の残滓として相も変わらずに存続し続けているという説明はやや無理があろう。部落差別のありようや位置づけも近代社会の変化のなかで変容を遂げてきたと考えるのが自然ではないか。本報告では、その変容の過程を追いながら、近代社会において、部落差別の存在を支えてきたものは何かを考えてみたい。
その問題に向き合う際にまず確認しておかなければならないことは、今日存在する被差別部落の多くは、近世における穢多身分を中心とする賤民身分に位置づけられていた人々の集落と一致するということである。もちろん近代になって新たにつくられた部落もあり、現在その境界が揺らいできている地域も少なくないが、近世の賤民身分が核となっているということは確認できよう。
そしてそれに、近代社会になって様々な新たな徴が与えられ、その徴によって差別が維持されてきたと私は考える。部落差別は、少なくとも近代においては、被差別部落の外から、つまり社会の眼差しによってつくられてきたのである。あらかじめ例示的に述べておくと、1880年代に経済的貧困が顕在化するなかで、その貧困から派生するところの不潔、病気の温床、さらには人種が違う、という徴である。また米騒動、水平社の成立を経て、暴民、残虐、恐い(主に水平社の糾弾をさす)、といった徴も付与されていった。
今日なお、部落問題はさまざまな局面に現れているが、そのようななかで一番執拗に残っているのが結婚差別であることはうたがいない。なぜ結婚において、それほどまでに執拗に部落差別が存続し続けているのか。結論を先取りするならば、差別する側が、被差別部落という集団に対して生まれながらの線引きを行ってきたことによるものと考えられる。そのための生まれながらの徴が与えられると、その徴を免れた者は、生涯にわたって安泰を維持できることとなる。
封建時代の「身分」は、生まれながらの線引きの役割を果たしてきたが、1871年に出された「解放令」は、それを取り払うものであった。差別を維持したい人々は、身分に変わる生まれながらの徴を探し求め、それに代替するものとして社会の側が与えてきたのが、「人種が違う」というものであり、その言説の誤りが学問的に明らかにされた後は「血筋が違う」、「一族の血がけがれる」、「家柄が違う」といった、「生まれ」による徴であった。
しかし結婚は、生まれながらの徴を揺るがす唯一の手段である。たとえば、穢多身分とそうでない者が結婚をすれば、その間に生まれた子どもはどうなるのか。むろんアイデンティティの持ち方や他者がどうみなすかということこそが重要なのだが、機会的にいえば、両者の通婚によってその境界は揺らぎ、乗り越えられていく。アメリカにおいて、1968年まで異人種間の結婚を州法で禁じるところがあったというのも、まさにそれがゆえに、ホワイトネスの優越性を維持せんがためであった。
結婚において今日にいたるまでなお被差別部落が排除されるのは、「生まれながらの」線引き・境界を維持しようとする者にとって、このように結婚こそが重要な機能を果たしているからにほかならなかった。
本報告では、このような生得的な徴で排除する差別のありようを、人種主義としてとらえる(人種主義については、最近の研究では、ミシェル・ヴィヴィオルカ(森千香子訳)『レイシズムの変貌 グローバル化がまねいた社会の人種化、文化の断片化』2007年、明石書店)(原書 Michel WIEVIORKA:“LE RACISME, UNE INTRODUCTION” LA DOCOUVERTE,1998)などを参照)。
ここで、部落問題をテーマにした島崎藤村の小説『破戒』(1906年)の一節をとりあげてみたい。これはフィクションであるが、先行研究で明らかにされているように、モデルになった人物がおり、藤村がこれを書いた明治後期の部落問題をとりまく社会の状況を、如実に写し出した作品となっている。『破戒』に写し出されている藤村の部落問題認識については、これまですでに水平社の時代から議論があったように、さまざまな問題も内包されている。しかしここではその点の評価は留保し、当該時期の部落問題のありようの一端を、作品をつうじて見て取りたい。
主人公瀬川丑松は、長野県の被差別部落の出身であり、父の戒めを受けて、被差別部落出身であることを隠して師範学校に進み、尋常小学校の教員となる。様々な展開を経て、丑松は被差別部落出身ではないかといううわさが、彼が勤める学校の教員仲間の間でも立ちはじめる。それに対して、師範学校時代からの丑松の親友である土屋銀之助は、まさか丑松が被差別部落出身であろうはずがないと思って丑松をかばって発言する台詞がある。以下はその場面である。
「穢多には一種特別な臭気があるというじゃないか。 嗅いでみたら解るだろう。」と尋常一年の教師は混返すようにして笑った。
「馬鹿なことを言給え。」と銀之助も笑って、「僕だっていくらも新平民を見た。あの皮膚の色からして、普通の人間とは違っていらあね。そりゃあ、もう、新平民か新平民でないかは容貌で解る。それに君、社会から度外にされているもんだから、性質が非常に僻んでいるサ。まあ、新平民の中から男らしい毅然した青年なぞの産まれようがない。どうしてあんな手合が学問という方面に頭を擡げられるものか。それから推したって、瀬川君ことは解りそうなものじゃないか。」
ここにはからずも、当該時期の社会に通有している部落問題認識が見て取れる。すなわち、生物学的差異をも含む「人種」の違いが前提とされているのである。そして部落民のなかから「男らしい毅然した青年が産まれようがない」、ましてや学問という方面に頭を擡げられるはずがない、と考えれていたからこそ、戒めを破って被差別部落出身であることを告白した丑松は、教師を辞めなければならなかったのである。
むろん、「人種が違う」、一目瞭然部落民であるか否か判る、というのはまったくの誤りであり、差別的な認識以外のなにものでもない。しかし、このような徴が社会にすでに一定程度浸透していたことが重要である。
では、今、このような認識はすべて消失したのか。たとえば、静岡県の『平成16年度 人権問題に関する県民意識調査報告書』を紐解き、被差別部落の起源についての解答結果を見ると、「人種(民族)の違う人たちが集まってできた」という選択肢を選んだ者が17.3%いる。静岡は極端にそのパーセンテージが高いが、全国でも、今なお平均して10%内外の人がそれを選ぶ。すなわち被差別部落民を文字通り「人種(民族)が違う」と認識する人がそれだけいるのである。
さらには、被差別部落の人々との結婚を忌避しようとするものが、その際に発する言辞は、「一族の血がけがれる」「血筋がちがう」「家柄がちがう」といったものである。それらもまた「生まれながら」の徴にほからならず、後述するように、「人種が違う」という認識が誤りであることが学術的に明らかになったのちも、それが今なおそうした表現に成り代わって機能しているのである。我々は、この事実を直視するところから、部落問題研究を出発させねばならない。
以下、近代社会のなかにおける部落問題のありようを概観し、そこから問題に迫りたい。
1 「異種」としての眼差し
明治政府は、欧米列強に対峙していくための「開明性」誇示の必要と「一君万民」の理念にもとづいて、1871年の「解放令」により賤民身分を廃止した。これによって制度的に賤民身分はなくなったが、かつては身分制度のもとで絶対的に自らより下位にあった人々が、自分たちと同じ地位に浮上してきたことに危機感を覚える民衆は、近世から穢多身分に付与されていた「けがれ」を引きあいに出して、日常生活の場から彼らを排除した。そうして彼らは、新たに、部落外の人々と区別するための「新平民」などの呼称を与えられていった。
民衆は、封建的身分制度に代わる差別のための絶対的な標識を探し求めていた。しかし、「文明開化」の風潮のなかで、開化派知識人たちを中心に、欧米から入ってきた天賦人権思想などにもとづいて平等を重んじる空気も社会に存在しており、この時期には部落差別が「旧習」と称され、「開化」すなわちそれが含意する平等に取って代わられるべきものと考えられていたのである。そのような状況のもとで、いまだこの段階では、前近代以来の「けがれ」を持ち出す以外には、被差別部落に対する新たな差別の標識はできあがっていなかった。しかし、当該時期にあっても権力者は、被差別部落と部落外の人々との間に紛争が起こると、ほぼ決まって部落外の言い分を追認したため、「解放令」のたてまえも有名無実と化した。
1881年にはじまる松方デフレを契機に、状況は変化していく。すなわち、経済的困窮の進行の結果として生じた被差別部落の現象面と、さらにはコレラの流行などを契機として、被差別部落に「不潔」「病気の温床」という標識が与えられていったことである。それらは都市下層社会に向けられた視線と重なり合うものであったが、加えて被差別部落に対しては「異種」という標識が付与された。
被差別部落異民族起源論は、中世からすでに見られるが、日本における近代人類学の草創期に、そこに集った人類学者たちがそれを唱えたことによって、人類学による「学知」の裏付けを与えられ、異種認識はしだいに社会に浸透していく。
1884年創立の「人類学会」に集った学者たちの関心は、石器時代論争に集約されるなかで、アイヌや沖縄の人々の「日本人」との類似性と相違性を発見する作業へと向かう。このときに「自己」と「他者」の線引きの遡上に載せられたのは、領土確定の際にその境界線上にあったアイヌや琉球の人々ばかりではなく、「日本人」の内部に抱え込んできたはずの被差別部落の人々たちも含まれていた。
人類学者の被差別部落調査としては、管見のかぎりでは、1886~7年ごろのものが最初と思われる。藤井乾助は、『東京人類学雑誌』に「穢多は他国人なる可し」というタイトルの論文を発表して、「この三韓より帰化したる人民こそ今日穢多と云ふ人種の祖先なるべし」との推定を下した(『東京人類学雑誌』第10号、1886年2月)。
これらに見られるように、推測に推測を重ねての薄弱な根拠しかもたないにもかかわらず、なにゆえに「日本人」と被差別部落の人々との間に境界を見出すことが求められたのか。それは、国民国家を形成していくにあたり、「国民」から排除し続ける、ないしは2級の「国民」として処遇していくには、それなりの理由付けが必要であったからであろう。むろん、アイヌや沖縄の人々にも、「日本国民」への「同化」が推し進められつつあったが、彼らと同様に同じ「日本人」ではないとすることによって、「日本国民」からの排除を許容しうる正当化根拠を得るのであった。それはとりもなおさず、部落外の民衆が、「普通日本人」であることを確認する、すなわち「日本人」としてのアイデンティティを再認識していくことでもあった。
さらにそれから10余年後には、骨の計測という手法が採用され、より科学的な装いをもって、線引きがいっそう確かなものにされていく。
人類学研究者として著名な鳥居龍蔵も、1898年、兵庫県飾磨郡の被差別部落に出向いて部落住民8名の調査を行い、「精密なる身体検査を行ひ悉く之を撮影」した。そこでは、当時さかんに行われた「人種」分類のための調査と同様、頭骨や顴骨などの計測が行われた。それを報じた『日出新聞』によると、顴骨の突起に加えて蒙古眼でないこと、頭の幅の狭隘であること、天神髯であること、の4つを根拠に、「マレー諸島、ポリネシヤン島の土人「マレヨポリネシヤン」種族に比するに尤も酷似し絶へて蒙古人種の形式あらず」と結論づけたという。この結果は、その前年に徳島県名東郡の被差別部落でやはり鳥居自身が行った調査と「稍々類似」していたと報じられており、同様の調査が、この時期、複数の被差別部落で行われていたのであろう(「穢多の人類学調査」・『日出新聞』1898年2月)。ちなみに鳥居は、日本人はモンゴロイド系とマレー系からなり、後者が被差別部落に属するのが被差別部落の人々であると考えていたのであり、被差別部落の人々をも日本人の境界の内側に取り込もうというのが彼の主観的意図であった。しかし、少なくとも『日出新聞』の報道ではその前提は抜け落ちていたし、かつモンゴロイド系より文明化の度合いが低いと見なされていたマレー系にすべて被差別部落の人々を押し込めたことは問題を孕んでいる。
さらにこのような認識が新聞というメディアによって報道され、人類学という学問の装いをととのえ、さらにそれが広く大衆に広められていったのである。
こうして社会の側は、被差別部落を排除し、それ以外の人々が安泰を得るための、封建的身分制度の代替として十分な機能をもった「人種」という標識を獲得していく。1898年には明治民法が公布され、「家」制度がしだいに民衆レベルにも定着していった。そうして「異種」であり、けがれた存在と見なされる被差別部落の人々は、結婚をつうじてますます「家系」から排除されていった。冒頭に述べた『破戒』は、そうした状況のなかで書かれた作品であった。
2 人種主義の定着・浸透
そのような異種認識がさらに民衆レベルに浸透していくきっかけになったのは、日露戦後の地方改良運動のもとで政府が着手した部落改善政策をつうじてであり、政府は被差別部落人種起源説を自ら唱えることで、人種主義を公認した。その多くは朝鮮人起源説をとるものであり、同時に政府によって用いられた「特種部落」「特殊部落」という呼称も定着していった。異種すなわち「特種」であることの内実は、犯罪の温床や、怠惰、残忍、衛生観念の欠如などといった性情の違いを強調するものから、ときには生殖器官などの生理上の違いの指摘にまで及んだ。
その先駆となった、三重県が1907年に発行した冊子『特種部落改善の梗概』は、被差別部落の集団をさして「種族」と称し、「祖先」という項目欄には、朝鮮人起源説等を記した。これは、県当局が公然と人種起源説を明記したものとして注目すべきであり、報告書の表題にある「特種」とは、まさにそうした「人種」を起源とするがゆえに生じるとされる性情や生活習慣・生理を内実とするものであった。
1905年に着手した三重県を先駆けとして日露戦争後から全国各地で開始された部落改善政策は、主として次の4点を眼目としていた。
第1には、被差別部落がそれ以前からコレラなどの急性伝染病やトラホームの温床と見られており、衛生状態の劣悪さや風紀の乱れが問題視されていたため、生活習慣の改善をめざすものであった。第2に、被差別部落は経済的に低位にあるために税の滞納が多く、滞税矯正という地方改良運動のねらいを徹底するためにも、その点の改善が求められた。第3に、就学率の向上が求められるなかで、経済的貧困と差別のために被差別部落に顕著であった不就学・長期欠席が問題とされた。そして第4に、被差別部落は犯罪の温床と見なされ、それゆえにその防止が求められた。部落改善政策は、1905年に三重県において知事有松英義のもとで開始されたのが最初であるが、内務省警保局長から知事に転出した有松が部落改善の必要を意識したのも、犯罪防止の目的からであった。
地方改良運動一般にそうであったと同様に、当該時期に展開されたような精神主義的部落改善政策では、一時的に効果をあげたかに見えるところはあってもそれが抜本的改善とはなりえず、経済・生活レベルなどの諸側面において、依然部落外との格差が存在していたのは当然であった。それゆえに、町村間の競争を煽る地方改良運動のなかで、被差別部落はその障害物としての新たな位置づけを与えられることになり、ここにそのような被差別部落を「特種(殊)」なものとして排除する新たな要因が付加されていったのである。部落改善政策は、その名のとおり、被差別部落の「改善」を期待したものにちがいなかったが、一方で部落民衆が「特種(殊)」な民族であるゆえに所詮改善はそれほど期待しえないとの認識をも生じさせることとなり、まさに被差別部落は、排除を前提としつつも、その上での統合と排除の微妙な境位に置かれていた。
このような部落認識は「血統」を核としつつ風俗・衛生・習慣などの実態が周縁に位置して形成されているものであり、実態の劣悪さがほぼ決まって「人種」的的特殊性によって説明された。ただし、そもそも日本では、「人種改良」自体に遺伝だけではなく、「修養」という環境的要因を見出す傾向が強く、それゆえにこそ、部落改善政策が行われ、部落民衆の「修養」が喚起されたのであろう。とはいえ、やはり部落の内包する問題を「人種」的特殊性に起因する問題ととらえる以上、ひとたび行き詰まりが生じれば「改良」への展望はいきおい絶望的とならざるをえず、被差別部落は、町村が競って「改良」の成果を示す上での桎梏となり、地方改良運動をつうじて政府が行おうとした国民の再統合が、被差別部落の排除をいっそう確たるものとしていったのであった。
「人種が違う」という言説は、政策の不備を覆い隠し、被差別部落の内包している問題を、彼ら自身の問題に転嫁してしまうのに有効であった。すでに「開化」の理念のなかに含まれていた平等というたてまえも、もはや後退してしまっている段階にあって、政府の側も、被差別部落の人々の平等化を推進することよりも、線引きを確たるものとすることの方が、上述のような理由においてメリットが大きく、その途が選択されていったといえよう。地方改良運動が掲げた課題を達成できる「国民」という意味においての「同化」が強要された結果、かえって差異を際立たせることとなったのである。
むすびにかえて―第一次世界大戦後から現代へ―
1910年代になると被差別部落民衆もしだいに「特殊部落」という呼称や、それと不可分の「異種」認識に対して抗議の声をあげはじめ、それを受けて、部落外からも社会の側の認識を問題にする動きが起こってくる。また、台湾・朝鮮という植民地を含む大日本帝国の一体化を実現する必要から、かねてから帝国の内部に存在してきた被差別部落の人々との「融和」すら行えずして帝国の一体化の達成はありえないとの認識が生じ、社会の側の反省が求められるとともに、被差別部落の人々に対して生物学的差異をいうような露骨な主張は後退していく。それに加えて歴史学者の喜田貞吉は、そうした状況に触発されながら歴史学を通して部落人種起源論の誤りを明らかにしたことも、それに拍車をかけた。
しかし、人種主義は、生物学的差異から文化的差異へとしだいに力点を移しながら、また一方で冒頭で述べたように、「生まれ」による違いは「血筋」「家柄」などに形を変えて維持され、排除の線引きとして機能し続けていく。とりわけ戦時下においては、「帝国の一体化」は、「国民一体」というスローガンとなって戦争遂行上いっそう重要なものとなり、日本民族論も、この時期に被差別部落や植民地の人々を包摂可能な多民族論に組み替えられ、単一民族論よりもそれが主流をなしていった。
しかしながら、人種とナショナリズムの相補性についてのバリバール(Etienne Balibar)の指摘を待つまでもなく、日本においてもナショナリズムの基軸にある天皇制が部落差別と関係性を有していることはこれまでから指摘されてきた。天皇制は「万世一系」という血統の論理に依拠しており、それは被差別部落の排除につながる。「貴族あれば賤族あり」という、いまや一見陳腐にも聞こえる松本治一郎の至言は、まさにそのことを言い当てている。そして我々は、戦後60年を経た今なお、それすら克服できずにおり、いっそう深くナショナルなものに絡め取られる危機に直面している。
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