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2009.03.06
「部落問題の今」をめぐる若手研究者の国際ワークショップとシンポジウム
 

報告書

「部落問題の今」をめぐる若手研究者の国際ワークショップとシンポジウム

2008年7月31日-8月2日
主催: 社団法人部落解放・人権研究所
助成: EXPO'70 独立行政法人 日本万国博覧会記念機構

リーダーシップの役割:朝鮮の白丁の場合

(原文:英語)

金仲燮


 日本の部落民と朝鮮の白丁の間には驚くほど類似点がある。いずれの集団もそれぞれ古い日本および朝鮮において汚名を着せられたマイノリティであった。彼らは社会的、経済的、政治的空間で差別されてきた。さらに、いずれの集団もそれぞれの国おいて、そうした社会的差別をなくすために組織を作った。日本では部落民のための水平社が1922年に創設され、その翌年、朝鮮では白丁のための衡平社が創設された。

 20世紀初頭の日本および朝鮮におけるそれら組織の創設および活動形態を比較することは興味深い。両者は創設当初、お互いに励ましあい友好をあたためた。また、相互に代表団を送り、活動を支えあった。

 しかしながら、第二次世界大戦後は、それぞれまったく異なる道をたどった。日本では部落民は絶え間ない差別に苦しみ続けた。不公平な扱いに抗議し、部落解放のための活動を発展させた。対照的に、1950年代に入って、衡平社のメンバーの子孫は差別の痕跡が残っているにもかかわらず、再び結集して組織の再編に成功しなかった。すべての人々を厳格な階層に区分する伝統的な身分制度が機能する中、彼らの出身は日常生活においてもはや特定されることはなかった。現代韓国においては、白丁に対する社会的差別を示す証拠はほとんどない。

 現代韓国において白丁に対する社会的差別が消滅したようにみえる理由をいくつかあげることができる。まず、その理由を身分制度の崩壊にみいだすことができる。身分制度は、特に20世紀、歴史的事件が次々起きた中、混乱していった。それら出来事には、日本の植民地支配最後の1940年代初期における民衆の大規模な離散があり、1950年代初めの朝鮮戦争がある。そして、1960年代と1970年代には、急速な工業化と都市化が進み、地方の共同体における伝統的な習慣が崩れ、農村から都市への大量人口移動が起きた。その結果、人々の出身身分を確認することはほぼ不可能となった。要するに、身分制度はもはや現代韓国社会には存在しない。それゆえ、白丁集団に属する人々は、日常生活において出身を特定されることはなくなった。

 こうした歴史的経緯ではあるが、白丁差別撤廃のために衡平社が行った活動による大きな貢献を過小評価することはできない。本報告の主な目的は、衡平社運動の成功の要因を明らかにし、とりわけ中間層が運動の推進に果たした役割を検証することで、歴史から学ぶことにある[1]

白丁の人権を求めて

 衡平社は1923年に創設され、「大同社」への名称変更とともに利益団体に変わっていった1935年まで続いた。組織の主要な目的と目標は白丁への社会的差別をなくし、彼らを朝鮮社会の一員として公正に扱うことであった。

 組織設立と当時の白丁を取り巻く社会的・経済的状況の間に密接な関係があった。まず、組織設立の目的は白丁に対する数世紀にわたる様々な形態の抑圧と社会的差別を断ち切ることであった。なぜそれほど長きにわたり彼らが不公平な情況におかれてきたのか、それに対する明確な理由はなかったが、彼らが古い朝鮮社会で普通の人びとより劣るとみなされ、生まれてから死ぬまで、さらには死後も、普通の人びとから蔑視され差別され続けたことは議論の余地がない事実である。

 たとえば、生まれてきた子どもに名前をつけるときは、「忠」「孝」など高貴な意味をもつ漢字を使うことは厳しく禁じられた。生まれた瞬間から品位を貶められた。また、一般の人びとの居住地域で住むことや、同じような帽子や衣服を着用すること、さらには瓦屋根の家を建てることを厳しく禁止された。加えて、たとえ年下であろうとも、一般の人びとに対しては謙譲の態度で接し、目上の人に対する言葉使いを強いられた。屈辱と隔離は結婚式、葬儀、埋葬場所にまで及んだ。他人との会話や交流において、白丁は普通の人びとより劣っているため、自分から社会的身分を明らかにしなくてはならなかった。そして自分たちを侮蔑する社会の習慣に逆らうことは許されなかった。逆らえば、村の掟を破ったとして、村人たちから罰をうけた。

 白丁の起源と背景を説明するような証拠はなにも残されていない。ただ確かなことは、彼らは世代から世代へと受け継がれてきた特定的な職業に就いたことだ。たとえば、と畜業、皮革の加工、皮なめし、編み細工などだ。そのため、彼らはこれら産業をある種独占してきた。表1にあるように、特定の職業の世襲は1920年代まで続いた。

表1 白丁の職業別人口 (1926年当時)

職業 人口 割合(%)
と畜
皮革
精肉店
柳細工
農民
肉体労働
飲食店
製靴
籠細工
商人
雑役
無職
3,697
1,175
8,867
3,439
10,125
1,153
2,074
811
399
338
1,517
3,082
10.1
3.2
24.2
9.2
27.6
3.1
5.7
2.2
1.1
0.9
4.1
8.4
合計 36,678 100.0

<出所:朝鮮総督府刑務局、朝鮮の治安状況 1927年>

 彼らの職業は、仏教徒の高麗社会および儒教の朝鮮社会において卑しい被差別者として特徴づけることに寄与した。彼らの苦悶は20世紀初頭まで続いた。19世紀終りに、朝鮮政府が身分制度に関係する社会的差別の撤廃を宣言したが、身分の低い人びとに対する日常レベルでの侮蔑的で差別的な慣習は簡単にはなくならなかった。この状況が1920年代における衡平社運動の勃興の下地となったことは間違いない。

 1923年晋州で設立された衡平社はその組織と活動を朝鮮半島の南部で拡大させた。設立から数ヵ月内で支社は80に増え、南部の主要な町や市に支部ができた。とりわけ、慶尚、忠清道、全羅道に集中した。地理的拡大とともに、支社の数は着実に増え、1930年代初めまで続いた。(図2参照)。その後、組織の活動は衰退の道をたどった。

表2: 衡平社支社の数 1923年~1935年

指数(1923年を100として)
1923
1924
1925
1926
1927
1928
1929
1930
1931
1932
1933
1934
1935
80
83
99
130
150
153
162
165
166
161
146
113
98
100
104
123
162
188
191
203
206
208
201
183
141
123

(出所:1923年の数字は朝鮮総督府「朝鮮の大衆」1926年183ページ、それ以外はすべて朝鮮総督府警務局「最近に於ける朝鮮の治安状況」1933、1935年)

 運動の成功は地方の支分社の数だけではなく、さまざまなプログラムや下部組織の数でも証明された。高等教育を受けた一部の支社の若いリーダーたちが結束して下部組織を作った。数は少なかったが、彼らは急進的な思想で衡平運動に大きな影響を与えた。下部組織の中でも特筆すべきは、小さいが戦闘的集団である正衛団、衡平青年連盟、そして衡平学生連盟であった。彼らは特に衡平運動が急速な成長を遂げた1924年から1928年の間、目だって活発であった。

 1925年に結成された正衛団は衡平社の社員および活動を外部の攻撃から守ることを目的とした。いくつかの地方支社の高等教育を受けた若い幹部たちが集まり下部組織を結成した。少数ながら、彼らは急進的な思想で衡平社に多大な影響を与えた。そして全国本社の幹部になっていった。当初の目標をどこまで維持し成功させたかは不確かだが、戦闘的な方法を用いた彼らの運動スタンスは、外部からの弾圧より仲間を守り、結社の目的について仲間と確認して意思を固めることに役立った。

 対照的に、1924年に始まった衡平青年連盟は、全国の地方分社、とりわけ南部の若い社員の統一した社会網となった。青年連盟は衡平社内の最大の下部組織となり、いくつかの道で地域組織の結成へと発展した。衡平社員向けの非正規の学校など、彼らの実効性のあるさまざまな取り組みは、衡平社の一般社員にとって魅力的で心強いものであった。

 もう一つの大きな下部組織である衡平学生連盟は1925年に始まった。この下部組織の主要な構成員は学校に就学中の社員の子どもたちであった。全国本社および地方分社の社員からの暖かい支援をえて、学生連盟は社員の啓発とその子どもたちの教育に取り組んだ。公立学校に白丁を寄せつけない大きな障壁を考えれば、学生連盟の設立と活動は衡平運動の重要な成果の一つと評することができる。

 これらの下部組織は全国に広がる組織作りを成功させ、全国本社のみならず地方の社員からも支持を得た。また、そのような下部組織は衡平社全体の活動を多様にし、本社の幹部になる若い社員を見い出すことにつながった。こうしたことは衡平運動のリーダーシップをダイナミックにさせた。その過程で、衡平社は初期の目的や目標を行動に移していった。とりわけ、社員と活動を外部からの弾圧や攻撃から守り、社員間の連帯を促し、社員を啓発させることに大きな注意が向けられた。

 運動の成功により、衡平社は日本植民地支配のもと最も長く生き延びた社会運動団体の一つとなった。そして、社員数や地理的活動範囲の点からみて、この時期、最も影響力のある組織とみなされた。その結果、社会運動活動家たちは衡平社を1920年代の中心的な社会運動団体の一つとして認めた。

 疑いなく、衡平社の活動は白丁社会の変換に貢献した。彼らの活動は本質的に2つのタイプに特徴づけられる。一つは共同体主義的な利益と目的を探す活動である。これは啓発活動に見ることができる。定型および非定型の学校を通して、一般社員やその子どもたちの教育を目指した。啓発のために、彼らは機関紙を発行し、地方の分社に知識層の幹部を派遣してさまざまなタイプの学習会を開催した。その他の活動例として、彼らが受け継いできた産業分野での経済的権益をとり戻す試みが挙げられる。これらの活動を見れば、衡平運動はある種の共同体主義的な運動に分類することもできる。

 彼らの活動のその他の特徴として、自分たちの人権の保障につながるものがあった。初期の目的のため、彼らは彼らに対立するあらゆる差別的で不公平な習慣や因習に強く抵抗した。そして全住民の台帳に記録された社会的出自を削除するよう求めた。また、侮蔑的な呼称である白丁を使うのを止めさせようとした。彼らの抵抗運動は攻撃的な非白丁の村人たちとの深刻な対立を招いた。彼らの活動は疑いなく、因習的な隷属から白丁を解放し、他の人びとと同様に平等な扱いを受け、究極的には彼らの人権を守ることに貢献した。したがって、衡平運動は韓国社会における人権の取り組みの礎石として称えられてきた。

衡平社運動成功の理由

 衡平社運動の成功は様々な側面から説明できる。間違いなく、それは白丁社会の内外を取り巻く社会的変化に大きく関係している。4つの側面よりその理由を明らかにしたい。第一に、平等主義の思想の普及が衡平社の創設を導く社会的背景となった。19世紀終わりから20世紀初めにかけ、抑圧と差別は続いていたものの、階層的な身分制の瓦解の影響は白丁社会にも直接及んだ。その結果、彼らは自らを因習的な束縛から徐々に解放していった。たとえば、一部の白丁たちはこれまでの隔離された居住区から一般の人びとの居住区へ移り住み、進歩的な近隣住民との交際が始まった。また、朝鮮固有の宗教である東学が広がり、西欧宗教のキリスト教が持ち込まれた状況のもと、自由で平等主義的な思想と接触した。とりわけ、19世紀末は、東学の普及とその朝鮮王朝に対する反乱が起こり、不成功に終わったものの、間違いなく強固な身分制を改えるきっかけを作った。加えて、白丁の中に、衡平社創設以前にソウルや晋州などの地域でキリスト教会に通い始めた人びとがいた。

 1919年3月1日の独立運動の勃発は全土に自由な思想を広げるもう一つの事件であった。全国規模の大規模な抗議行動の直後、多くの社会集団が様々な目的で活動を開始した。そうした集団は、たいてい、全国および地方レベルにおいて進歩的な改革主義者に活動をけん引されていた。彼らの中には高等教育を受けた富裕家族出身者もいた。中には社会活動に全力を投じ、「プロの社会運動家」と呼ばれる人たちもいた。これら社会集団は社会全体を改革するための影響力を生みだし続けた。社会運動集団はひとかたまりで社会運動セクターを構成しているとみなされた。こうして、進歩的で平等主義的な思想の広まりは社会運動セクターの形成とともに、衡平運動発展の基礎と背景になった。

 第二は、経済成長が衡平運動の発展に貢献したことだ。運動の受益主体である白丁は、萌芽期とはいえ工業化の洗礼を避けることはできなかった。工業化は19世紀終わりから20世紀はじめにかけ、都市部の拡大と職業構造の改造をもたらした。工業化に伴う資本主義社会の到来で、一部の白丁は皮革製品の商人や精肉店の店主として富を蓄積することに力を注いだ。対照的に、白丁の大半は社会の変わり目の犠牲になり、非白丁の資本家の進出によって祖先より受け継いできたと畜や皮革業を失っていった。

 商業分野で経済的利益を得た富裕な白丁は、社会的地位を向上させるために、公立や私立の学校で子どもたちに教育を受けさせたいと願った。しかし彼らの前に立ちはだかる不公平な慣習の壁の前で、結局その大望を実現することはできなかった。近代社会に向かう過渡期のこの混合した側面は、社会的差別を撤廃し人権保障を確立させるために独自の組織を作る方向に彼らを刺激した。彼らの経済力は当然ながら衡平運動を動かして維持する資金に向けられた。

 第三に、社員の強い結束が衡平活動の急速な成長に貢献した。組織は白丁社会の構成員だけではなく全国にいる進歩的な社会活動家からも注目された。目標と目的の宣言は白丁社会の構成員から暖かい支援とともに受け入れられた。彼らの支持は衡平社の活動を強化する実質的な資源となった。そして、衡平社は社員の共通の関心事を反映させた活動を組織し、代々受け継いできた業界を独占するという経済的特権を取り戻そうとした。したがって、衡平運動は主に白丁の強い連帯から生まれた共同体の利益のためという強い意向で進められた。

 彼らの強い連帯と共通の意思は、世代から世代へと数世紀にわたり維持されてきた緊密な関係から発している。彼らは社会の他から切り離された一角で住まいをもってきた。彼らは特定の職業分野に封じ込まれてきた。彼らは同じ白丁社会の相手と結婚し、それにより、白丁社会の全員が一つの血縁をもった一族に属することになった。結婚、職業そして居住地区を通したそのような強い共同体ネットワークは、運動を動かす強い財産であったことは間違いない。その上、彼らは彼らの産業にかかわる社会問題をコントロールできる独自の組織を伝統的な社会でもっていた。行動をとることができるこうした人的資源は衡平運動の急速で全国的な発展に貢献したと推測される。

 それにもかかわらず、彼らの活動に一般の社員をどのように動員したかについてはまだいくつかの疑問が残る。したがって、私は、衡平運動発展の四つ目の要因としてリーダーシップをあげたい。運動の過程でリーダーシップは変化していったものの、衡平運動の立ち上げと発展にリーダーたちが重要な役割を演じたということに間違いはない。そのリーダーシップから教訓を得ることは私たちにとって有用である。

衡平運動のリーダーシップ

 これまで述べてきたように、衡平運動が大きな成功をおさめて発展した要素として主に4つ挙げられる。リーダーシップは4つの中でも特に重要だ。リーダーシップはその他の要素を活性化する重要な役割を果たした。たとえば、国全体に広がった平等思想は陰に陽に衡平運動をけん引した。しかし、リーダーが平等思想を理解して白丁たちに広めない限り、その思想は衡平運動を動かすことに使われなかった。このため、思想の伝播にかかわったリーダーは高い教育と知的背景をもっていたはずだ。財政的支援なしに、彼らは正規および非正規のいずれの学校においても教育を受けることはできなかった。

 また、リーダーシップが運動の行方を左右した経済資源を動員する上で重要な役割を果たしたことが分かる。工業化と都市化が進む中で一部富裕な白丁が出現したが、彼らが運動の発展に貢献するきっかけはなかった。それを作ったのはリーダーたちであり、富裕な白丁をオルグして活動のために寄付をするよう促した。

 第三の要素である社員の連帯もリーダーシップの問題と強く関わってくるのは明らかである。白丁社会の普通の構成員たちを運動発展のための力強い人的資源に変えることはリーダーシップの役割である。彼らは一般の白丁たちに衡平社の活動に参加するよう働きかけた。彼らはまた、平均的な構成員たちからの要求にこたえるプログラムを立てて提供した。一般の白丁をとりまく状況をよく把握していたからこそ、リーダーたちはそうしたことをできた。一般の白丁の支持なしに運動の発展はありえない。これは基本的な理解である。

 こうして、リーダーシップは衡平運動発展の中核にあった。しかし、運動の全国レベルのリーダーシップは様々な側面で変動したことが分かる。運動の発展段階および状況にしたがって、リーダーシップの本質的な内容は変化していった。

 初期の段階における衡平運動は、非白丁の社会活動家が白丁社会の影響力のある人たちの協力をえながら基礎づくりをした。新設の組織の指導者が異なる身分背景をもつ人びとから成るというのは興味深い。しかし、衡平社以前の彼らの活動を知れば、非白丁である彼らが運動に入ったことはよく理解できる。彼らの一部は3・1運動を指導し、その結果投獄されていた。また別の人たちは知的背景をもって地方の新聞社で働き、労働運動から農民運動にわたる社会活動に参加し、多様な色彩の社会改革諸集団を取りまとめた[2]

 これら活動家は衡平運動を指導し、非白丁社会の注意をひきつける上で重要な役割を果たした。彼らは衡平社とその他の運動団体を全国レベルのみならず地方レベルでもつないだ。時には衡平社の社員と反対者たちの間の対立をおさめる役割も果たした。そして彼らの重要な貢献の一つは、関係諸集団の浅い利益を越えて、人びとの啓発や人権など普遍的価値を追求しながら運動を動かしたことだ。

 非白丁のリーダーとは違い、白丁のリーダーの構成はむしろ複雑であった。少なくとも初期の段階においては大半が富裕家族の出身であった。たとえば、晋州での創立大会に集まったリーダーたちは、大半が白丁社会で影響力をもつ人たちであった。彼らは代々受け継いできた皮革の商売や精肉小売業などで成功していた。経済的成功により、彼らは村を離れ子どもたちに教育を受けさせることができた。それら富裕な白丁リーダーたちは間違いなく衡平社活動の財政を支える重要な資源となった[3]。彼らは個人的な利益だけではなく、同じ白丁社会の仲間たちの社会的地位を高める道を探ることにも注意を払ったと思われる。なぜなら、個人的に向上しても依然として様々なレベルで偏見と差別を受けていたからだ。したがって、彼らの運動におけるスタンスはむしろ控えめで、彼らの社会的地位を高める活動に限定された。

 対照的に、異なるタイプの高い教育を受けた白丁リーダーたちがいた。知的背景を考えれば、彼らのスタンスは目標や方策について他のリーダーたちとほとんど変わることはない。彼らは当時朝鮮に広がり始めていた社会主義者的思想に傾倒していた。したがって、運動全体の目標は他の人びとと同じであったが、祖先から受け継いできた産業界[4]で経済的特権を取り戻すための闘争に傾いた。その意味で、彼らのスタンスは中道の富裕白丁よりさらに進歩的であったと言える。彼らは先祖代々の産業で受け継がれてきた特権を奪われたことに気づき、苦情と人権意識をもっていたように思える。相対的に、このタイプのリーダーの数はずっと小さかったが、彼らの影響力は同じ白丁社会で、とりわけ後期において絶大であった。彼らは白丁社会の一般の人びとを指導して、衡平社と他の社会集団をつなぐ重要な役割を果たした。それは、工業化と都市化が白丁社会を「持つ者」と「持たざる者」に分けたことを表している。進歩的リーダーたちは富裕リーダーたちよりも熱心に持たない白丁たちに注意を払ったと思われる。

 リーダーたちの間の異なるスタンスは自然に緊張をもたらし、さらには、組織内でさまざまな問題について意見のくい違いを生みだした。リーダーシップにおけるそのような多様性は、やがて組織のメンバー間に摩擦を生じさせる。それが衡平社でも起きた。衡平社の初期段階におけるリーダーシップの派閥を図3にまとめる。

表3 初期の二つの派閥間の相違点

派閥 晋州の派閥 ソウルの派閥
拠点 慶尚 堤川
全羅
京畿
江原
リーダー 非白丁
富裕白丁
知識人白丁
方向性 中道 進歩
重要課題
<共通>

人権運動の推進
子どもたちの入学
非定型の学校の開校

<相違>
出版会社の設立
機関紙の発行
皮革会社の設立
と畜従事者の賃金の安定化
商品の集団販売の促進

 この派閥争いは衡平社が直面する状況を映していた。それは活動に関して多様な意見や方法があったことを示している。また、派閥争いにはいくつかの肯定的な側面もあり、まさに衡平運動そのものであったことが分る。例えば、リーダーたちが異なる背景をもっていた事実は、運動が白丁の浅い集団の利益だけを追求することを防止した。彼らはそれらを超えて、人権や社会正義などの普遍的価値の実現に奮闘した。衡平運動を人権活動として特徴づけることのできる一つの主要な要素といえる。

 また、一般社員がそれぞれの主張を掲げる派閥のリーダーたちに、初志一貫のためにお互いに歩み寄るよう促したことも忘れてはならない。すなわち、リーダーたちは下からの要求を無視できなかったし、一般社員は彼らの意見と希望をリーダーたちに示し続けたことになる。社員らの支援により、リーダーたちは初期の目標と目的を実現させるべく運動の計画作りを行った。リーダーたちと一般社員のそのような協力が運動の発展につながった。

 もちろん、全国本部の指導部には絶えず変動があった。リーダーたちは地域および全国レベルの一般社員から採用された。運動は新しい指導グループが出現することで前進できる。特に、1920年代半ば、下部集団である正衛団、青年連盟、学生連盟などから大量に採用された。彼らの大半は私立あるいは公立学校で教育を受けていた。すなわち、彼らは中間層の知識人である。彼らが全国レベルの指導部に加わることで、活動は全国レベルでも地方レベルでも加速され、全国レベルでの運動の指導にさらに原動力がもたらされた。彼らは運動の日本植民地支配に対する政治的立場を明確にし、その他の社会集団と良好な関係を維持する上で重要な役割を果たした。リーダーの中には、国の独立運動に仲間を導くために、ナショナリスト集団を立ち上げようとした人たちがいた。あるいは、食肉処理や精肉店の労働組合を始めようとした人たちがいた。明らかに社会主義の影響を受けてのことだ。運動内のこれら多様な流れは、1920年代後半の運動の活性化とつながった。彼らの活動に対する日本植民地政府の弾圧がなかったならば、衡平運動は独立運動の実質的なけん引役として、あるいは朝鮮の労働組合運動の先駆者として歴史に残ったであろう。残念ながら日本植民地当局は、1930年代初めに運動を力づくで妨害した。大半が社会主義に傾倒していた青年リーダーたちは、衡平社の活動から離れることを余儀なくされた。なぜなら、植民地政府は日清戦争開戦前に朝鮮の社会運動グループの取締りを強化したからだ。

 日本の介入がどうであれ、若い世代のリーダーたちの出現が全国本社において摩擦を引き起こしたという事実に注意を払わなければならない。若いリーダーたちはシニアのリーダーたちとさまざまな局面で緊張状態にあった。若いリーダーたちは、自分たちのアイデンティティと産業を守ろうとするシニアのリーダーたちより、外の社会運動と協力することに気持ちが傾いた。指導部のこうした違いは、1920年代および1930年代初めの衡平運動の原動力を表わしていた。要するに、リーダーシップの性質や変化は運動そのものの変化と密接に関係していた。

結論と衡平運動の遺産

 衡平運動は韓国の人権活動の大きな節目となったと評価されてきた。それは、差別され排除されてきた白丁の人権を共同体主義の価値観のもとに実現させようとした運動だ。彼らの目標と目的は現代においても人類の普遍的追求として称賛できる。戦略面で衡平運動から学ぶ点として私が挙げたいのは、社会的差別の問題に関心のある人びとはその活動を指導して動かすという役割を担うべきであり、さらには、高等教育を受けた中間層が多数いるリーダーたちは、その運動を取り巻くすべての構成要素をつなぐ活動の中心に位置すべきであるということだ。

 冒頭に述べたとおり、現代韓国には白丁の軌跡がほとんど残されていない。だがそれは、韓国社会から白丁に対する差別意識がすべて消滅したことを意味するのではない。驚くことに、一部の人びとは心の中に白丁に対する偏見を持ちつづけている。にもかかわらず、日常生活において白丁に対する社会的差別を見出すことはほとんどない。現実には、彼らの存在あるいは出自を明らかにすることは不可能である。白丁出身者は誰も自分の出身を他者によって明らかにされることは望んでいないように思える。

 しかし、衡平運動の遺産はある。衡平社が設立された晋州には、一部の市民が記念協会を設立し、衡平運動の精神である差別撤廃と人権擁護を実現する運動を行った。障害者、移住労働者とその家族、高齢者、子どもなど、権利を奪われているマイノリティグループが多数ある。衡平運動記念会の取り組みの一つに、すべての人が尊厳と平等な扱いを享有する"人権都市"の確立や、すべての人が日常生活において人権を保障されるための自治体"人権条例"の導入がある。高等教育を受けた中間層出身者が多くを占めるリーダーたちが、この取り組みで重要な役割を果たすようにしなくてはいけない。


[1] 衡平社の詳述については金仲燮「衡平運動:朝鮮の被差別民・白丁 その歴史とたたかい」(大阪、解放出版社、2003年)を参照のこと。

[2] 衡平社創設者の中心的存在であった姜相鎬(カン・サンホ)がそのよい例である。地主の家の出身である姜相鎬は高い教育を受けた。3・1独立運動では指導的な活動を行い、1年間獄中に入れられた。それ以降は、民族主義を標榜する東亜日報(新聞)や労働運動、農民運動など様々な社会運動団体に関与した。

[3] 李学賛(イ・ハクチャン)は協会の設立と運営を助けた代表的な富裕白丁である。彼は白丁社会に強い影響力をもち、晋州の中央部にある市場に精肉店をもっていた。

[4] たとえば、晋州近辺の白丁の家の生れであるもう一人の衡平社創設者の張志弼(チャン・チピル)は、日本の明治大学に学び、日本植民地政府の朝鮮総督府に応募したがうまくいかなかった。彼はまた、衡平社以前に白丁の労働組合を組織しようとしたが失敗に終わっている。