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2009.03.06
「部落問題の今」をめぐる若手研究者の国際ワークショップとシンポジウム
 

報告書

「部落問題の今」をめぐる若手研究者の国際ワークショップとシンポジウム

2008年7月31日-8月2日
主催: 社団法人部落解放・人権研究所
助成: EXPO'70 独立行政法人 日本万国博覧会記念機構

部落問題解決におけるミドル・クラスの役割

――A地区の場合――

李嘉永


はじめに

 部落解放運動は、部落民を主体とした大衆運動であるとされている。部落差別を受けるリスクを背負い、貧困などの社会的困難を抱えながら、それでも自らの手で解放をかちとろうというのが部落解放運動の真髄である。

 しかしながら、困難を抱えた人ばかりが運動を担ってきたのではない。運動をすすめるにあたり、一定の経済的安定層や高学歴層といったミドルクラスもまた、重要な役割を果たしてきたのである。

 とはいえ、マイノリティ内のミドルクラス(中産階級、中間層)がマイノリティ解放のための運動に果たす役割は、実にアンビバレントなものがある。マイノリティの地位向上のために先導的な役割を果たす場合もあれば、社会秩序を乱すものとしてかかる運動に対して消極的な態度、さらには弾圧的な行動を取る場合もある。部落解放運動においても、同様のことが言えるであろう。

 そこで、A支部創立30周年記念誌を紐解きながら、A地区における戦後の部落解放運動の経緯を少し振り返りつつ、ミドルクラスの役割について考えてみたい。

1. A地区における部落解放運動の萌芽とミドルクラス

 国からのわずかばかりの同和対策事業の実施をうながすために、1953年2月に大阪市同和事業促進協議会(以下市同促という)が結成された。これに参加したのは各部落のミドルクラスであった。しかしそれは部落差別と闘うということではなく、地区住民のためになにか役立ちたいといった慈善的なものであった。A地区もその例外ではなかったが、A少年会(現子ども会)の結成をうながし、やがてAの地に部落解放運動をよびよせる先駆的役割をはたすことなった。

 A地区における部落解放運動が「A少年会」として誕生するのは、1954年であるが、その数年前から同和行政が実施されており、その関係でミドルクラスが大阪市同和事業促進協議会(以下同促協)に加盟して、一定の活動を始めていた。その影響もあって、1954年、子ども達の児童労働や、不就学や長期欠席、低学力問題、さらには非行問題をなんとかしようと、部落の青年達(当時は高校生)が地区内の子ども達を集め、学習会やレクリエーション活動に取り組むようになる。これが「A少年会」である。この子ども会の取り組みを振り返る際に、特に本報告の趣旨に照らすと、北井浩一さんの存在は特に重要である。彼は地区内商店主(米と酒屋)の子息であり、父親がA同促協の副会長であった関係で、地区の子ども達の窮状をなんとか救おうと、大賀正行さんたちと子ども会を立ち上げ、学習支援に取り組むのである。しかし当時のA地区はいわゆる「寝た子を起すな」式の考えが強く、ミドルクラスは自民党の市議会議員の支持者であった。大学生となり第1回部落解放全国青年集会(1937年)に参加した大賀正行さん、北井浩一さんらは部落解放運動に目覚めていくが、しだいにこのミドルクラスとの考えと対立していくようになる。

 こうしたなか1957年に、A地区と同じ町名になることに反対する「町名地番変更差別事件」が発生する。それまで青年たちの取り組みに対して必ずしも協力的ではなかったミドルクラスを含む地区住民は、地域総体として差別を受けているのだという事実に直面し、それまでの「そっとして置けば差別されないですむ」という考え方に疑念をいだくようになり、部落解放運動への共鳴していく。しかし、ミドルクラスは同促協活動に参加しても部落解同盟には、抵抗感をもっていた。そのため、この差別事件により部落解放運動の必要をさとりA支部の結成への機運が生まれたものの、結局は動揺しミドルクラスが脱落したので、平均年齢20歳の青年7人による部落解放同盟大阪府連A支部が1959年7月に結成されることとなったのである。

 1959年6月には、いわゆる「プラカード事件」が発覚した。極貧状態にあるため、学用品や給食費をまかなえない家庭に育った子ども達は、宿題の提出や給食費の納入をすることができなかった。それに対し、教員は、罰として「宿題を忘れた子」「給食代を忘れた子」等と記したプラカードを子ども達にかけさせ、教室で起立を命じたり、運動場を走らせたりしたのである。これに対して、A支部としては、貧困状態にあるのは単に住民の怠惰や努力不足によるのではなく、部落差別の結果、安定した仕事につくことができず、経済的に困窮するためであると主張した。そこで、当初学校に対して教科書の配布等を要求したが、学校としても教育上困るので、ともに連携して教育委員会に要望することとなったのである。ここに、地域と学校との連携が生まれたことは教育闘争勝利への大きな力となった。

 その後も、新幹線乗り入れに伴う立退き反対闘争、阪急電車乗り入れ問題や区画整理反対闘争などに取り組むなかで、地区内におけるA支部への信頼を高めてゆき、その中で、かつて部落解放運動に冷淡であった地区内のミドルクラスの支持を次第に勝ち得ていくのである。またこの闘いはA地区外の人々との共闘連帯となってひろがり、部落解放運動の信頼を大きくしていったのである。

 このように、A地区における部落解放運動の芽生えと進展において、ミドルクラスの役割は、当初の冷淡な役割から、少数ではあるが運動の先導者、そして一定の支持者としての役割が見出せる。

2. 同和対策事業と中間層

 A地区における部落解放運動とミドルクラスとの関係が決定的に変貌したのは、大阪府連が1967年「同和地区企業連合会」を結成したことによる。それまでの教育、仕事、住宅など部落内貧困層の要求に加えて、税金、融資、営業指導などミドルクラスの要求をとりあげ新しい運動を開始したのである。

 1965年、同和対策審議会は、その答申の中で、一連の行政的支援のメニューを提言しているが、その大きな柱として、環境改善、社会福祉、産業・職業、教育、人権保障を挙げている。

 このような提言を受けて、1969年、同和対策特別措置法が成立し、同和対策事業が実施されることとなった。この特別措置法が施行された時期は、まさに部落解放運動の高揚期であったのだが、この特別対策は、A地区におけるミドルクラスの役割に対しても、大きな影響をもったのである。

 30年誌には、支部設立当初からの支部役員体制が記載されているが、特措法制定の前年である1968年に、注目すべき変化が見られる。というのも、顧問及び参与の仕組みが設けられ、そこにA地区の事業家たちが名を連ねたのである。これまでの地区内の取り組みが、地区内のミドルクラスの主な人々を動かし、ついに支部体制に巻き込むことに成功したのである。

 大阪市から部落内の土地や財産を法人化せよとの働きかけがあり、財団法人A会が生まれた。現東淀川人権文化センターと支部事務所の底地とA温泉とその底地は財団法人A会の財産であり、A地区全住民の財産として残されている。大阪市の働きかけと中田善政さんらミドルクラスの功績であった。

 また、同和対策事業には、部落の産業振興が盛り込まれているが、その事業のうけざらとして、A地区の企業者組合が1968年6月に結成されている。中小零細企業が多く、経営状況の厳しかった事業者たちは、同和対策事業の支援を受けながら、産業基盤を強固なものにし、A地区の余剰労働人口を吸収することをもって不安定な就労実態の改善にも貢献した。また、支部活動に対しても、様々な形で支援されたのである。

 また、これらの同和対策事業の支援を受けて、地区内にも多くの新中間層が生まれた。教育に関わる支援や、就労支援の仕組みを積極的に活用することで、経済的に不安定であった地区住民の生活が、徐々に安定化してゆき、公務員や教員、常雇用労働者を多く生み出した。そして彼らの多くは、安定化の結果生じた余暇に、教育父母の会や保育守る会、女性部、オルグ団、公務員部会といった支部各組織の活動や、各種集会、地区内の様々なイベント(運動会、盆踊り、餅つき大会など)といった、各種支部活動に参画された。その結果、A地区の部落解放運動は益々の発展をみたのである。

 このように、70年代から90年代にかけて、同和対策事業の実施とあいまって、Aにおけるミドルクラスたちは、支部活動の各般にわたる主体としてたち現れてくるのである。

3. A地区における安定層の流出とニーズの多様化

 ところが、同和対策事業の進展は、今ひとつの変化をももたらした。部落の流出入問題である。

 前述したように、同和対策事業のメニューの第一は、劣悪な住環境を改善することであった。そのために、地区内に存在する不良住宅を改良し、公営住宅が次々と建設された。これにより、それまでは狭隘で劣悪な住居に住むことを余儀なくされていたA地区の人々は、「まるで御殿のような」住宅で生活することが可能になったのである。

 しかしながら、前述したように、経済的な安定層、新たな中間層が生まれてくると、この公営住宅が逆に桎梏となった。エレベーターもなく、3DKの狭い住宅は次第に魅力がなくなり、地区外流出を促すことになった。さらに「応能応益家賃」の導入はこの傾向を加速させた。収入が高ければ、家賃もまた上昇する仕組みとなっている。そうなると、それなりの収入を得ることとなった地区住民は、公営住宅に住むよりは、より広いマンションや一戸建てに住むことを希望するようになる。

 また、一般企業に就職できた層は、転勤を余儀なくされ、Aを後にしていった。

 さらに、一般地区の人々と結婚するチャンスが増加し、通婚が増加することによっても、A地区出身者、とりわけ安定層が多く流出していったのである。

 もちろん、地区外に居住しながらも、支部員登録を継続し、支部活動を支持する人もいるし、支部執行委員として活躍する人もいる。また、地区内に居住しつづけることにこだわり、部落解放運動に参画するミドルクラスや安定層が存在したことも確かである。しかしながら他方で、相対的に多くの経済的困窮者が残り、そして、結婚により一般地区に居住していたが、諸般の事情によって離婚した方(特に母子家庭の皆さんが相対的に多い)が再度A地区に里帰りしてくる。

 このように、同和対策事業によって多くのA地区住民の生活安定化や、地区の環境改善が実現したが、そのことが却って、安定層の流出と不安定層の流入を招いてしまっているのである。

 また、地区の住民のニーズも多様化した。教育をしっかりつけようという取り組みの結果、教育に対して積極的な保護者が多く生まれた。このことは、生活の安定化を一定達成し、その上で子ども達の教育について熱心な保護者が現れた一方で、依然として困難な状況にある家庭との階層分化を生んでいる。ここから、生活ニーズや教育ニーズも多様化したが、これに対応する多様な教育運動の整備がいささか立ち遅れている。このことは、運動体内部での連帯感をやや弱めているように思われる。

 このように、安定層の流出とニーズの多様化により、70年代、80年代に比して現在、支部活動は停滞していると率直に認めざるを得ない。このことは、ミドルクラスの動向と奇しくも軌を一にしているように思われるのである。

おわりに

 これまで、部落解放運動におけるミドルクラスの役割について、A地区の事例をとりあげて、若干検討してきた。その中で、ミドルクラスが運動に果たした役割や影響を一定明らかにすることができたように思う。

 しかし、現在、特別対策が終了し、部落における生活ニーズが多様化する中で、部落解放運動が停滞していることも指摘した。このような状況をいかにして克服し、多様なニーズに対応する支部活動をどのように再構築するか、そこからミドルクラスやしんどい層を含む部落内の共通利益をどのように運動的に再結集するかが大きな課題であるといえよう。