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2009.03.06
「部落問題の今」をめぐる若手研究者の国際ワークショップとシンポジウム
 

報告書

「部落問題の今」をめぐる若手研究者の国際ワークショップとシンポジウム

2008年7月31日-8月2日
主催: 社団法人部落解放・人権研究所
助成: EXPO'70 独立行政法人 日本万国博覧会記念機構

ジェンダーの視点から部落問題を考える

熊本理抄


1. 部落解放理論・運動における「主体」

 ジェンダーの視点は、普遍性・科学性・中立性・客観性を標榜していた近代的な知の主体・対象・目的が、実は「人間=男性」中心主義であったことを解き明かし、知の体系としての諸科学・諸学問を領域横断的に分析するカテゴリーとして生み出された。ボーヴォワールによれば、ジェンダーとは、男=主体から差異化・周縁化されたものとして差別される女の他者性概念によって非対称性が再生産される構造である。また、デルフィによれば、権力的な非対称的差異化という実践である。さらにスコットによれば、「身体的差異に意味を付与する知」の産出・維持・再生産過程であり、性差の言説のもつ政治性や権力構造を明らかにする社会的・政治的実践である。

 であるならば、ジェンダーの視点から部落問題を考えることはつまり、部落問題をめぐる既存の知の総体に対する根底的な批判的問い直しが迫られることになる。政治性がむき出しとなるため、わたしには大きな困難と不安が立ちはだかるが、試みてみようと思う。なぜなら今後さらに、部落史や部落問題研究、部落解放運動等の言説をジェンダーの視点から批判的に問い返す理論実践を展開することによって、部落問題に関わる知識の社会的生産における権力作用や機能を問題にしていく試みがなされる必要があろうと思うからである。
そこでまず、バトラーの言う差異化という言説実践によって主体が構築されるプロセスから、部落解放運動論における「主体」形成について考えるきっかけを提示してみたい。

(ア) 「母」としての主体形成

 部落解放運動論における部落女性の主体形成には、ジェンダー化された主体としての「母」という規範的原理が大いに発揮され、運動主体として運動を支えてきた。「次の世代まで部落差別を引き継がせたくない」、「子どもには部落差別の苦しみや悲しみを背負わせたくない」、「自分の生い立ちの二の舞を子どもにだけはさせたくない」、「子どもを立派に育て上げたい」、「子どもの幸せを守りたい」、「子どもには安定した生活を」との思いが、生存権や仕事保障を求める運動、識字、教育、保育の機会均等を求める運動を発展させてきた。
部落解放運動を歴史的・大衆的に担ってきた部落解放同盟が主催する全国女性集会等での参加者たちによる日常実践の報告や日ごろ抱える課題提起とそれに対する男性役員による助言等の言説実践は、「人間=男性=主体」に対して自らを非対称的に差異化・他者化して位置づけることでしか「女」を語れないという装置となり、「女」カテゴリーを強化していく働きをもっていた。日常生活における女性としての危機感や母としての使命感を醸成することが運動参加の動機付けとなり、女性部は、「女」の主体性を主張しながら、保育・教育・生活・介護・福祉などの分野における積極的な活動を展開していくこととなる。集会では、家庭・育児・介護の重要性が繰り返し主張されるが、女性たちの主張は部落解放運動論の変革はもたらさず、女性の独自性・固有性として位置づけられる。部落女性たちは、近代家族の「良妻」「賢母」の役割と家事労働に加えて、共同体における「良妻」「賢母」の責任と、上層部が決定する課題を地域において性別役割分担で担うという家父長的組織の「良妻」「賢母」の役割をも引き受けてきた。

(イ) 女性不在の部落解放運動論の「主体」

 部落女性が、社会のジェンダー体制を批判すればするほど、「女」のアイデンティティの主張、「女」としての差異の主張に還元されることで、「女の問題」「女性部固有の課題」に矮小化される。「女」のことにかかわると普遍性をもたないとされるため、「女性問題」の実践は「女性部」という枠組みでのみ議論され、あくまで補助的役割としてのジェンダーによる棲み分け構造に集約されていく。部落女性は、二重・三重の差別に虐げられる女として、あるいは/また、二重・三重の差別に闘う強い母として他者表象され、それら「女の問題」を実践することが部落女性の主体形成であるとの運動論が強化される。その結果、男性が抱える課題の普遍性と「人間=男性=主体」という図式の特権性を一層強化するというパラドクスに陥ることになる。

 部落解放運動論の「主体」論には女性は不在であり、「女」であること自体がスティグマとされるため、男性の基準に合わせて認められない限り、女性は生きることができない。そのため、女性は、他者や外部からの批判などに備えて、自己の立場を正当化するための力としての、論理・理論を、男性並みにつくりだし、提示することが求められる。同時に男は理論、女は実践という権力作用が働く。部落女性には、部落差別を被る中で、「一般」男性並みのジェンダー化を自らに求める部落男性による男性並みのジェンダー化と、部落外女性を目標とした女としてのジェンダー化が求められる。こうして、部落女性による主体形成・確立を求めた理論と実践が展開されればされるほど、部落がますますジェンダー化されていくならば、部落女性たちはどのように主体形成を行っていくことができるであろうか。

 金伊佐子は次のように述べている。「既存の民族団体に女として主張しても、ただトラブルメーカー、文句の多い女としか受け止められなかった。そこは厳密な家父長制度が布かれ、男に従えない女は蔑視冷笑、排除排斥の対象でしかなく、活動家の夫を支える内助の功を認められた女だけが受容される世界だった。・・・机上の論と化した女性解放を歓迎する男の組織と、男の力に守られたい女の組織は相互に守り守られる関係が完成し、再び家父長制を厳密に守った秩序正しい共同体となった。」[1]

 語れば語るほど、部落解放理論を身につければつけるほど、使用する既存の理論や言葉が男性中心的な解放のプロセスであることに気づかされていく。「人」ではなく「女」としてジェンダー化された主体を強制されていること、「人」から排除されていることを問題化すると、「女」の主張として、個人的なこと、私的なことを運動に持ち込むなと批判される。自らの属するマイノリティ共同体のジェンダー体制を批判する言説は、時として、マジョリティによって、部落差別を肯定する道具として、あるいは/また、「部落共同体の方が一般社会よりも性差別が厳しい」という意識を流布する道具として、本来の目的とは別の形で利用されるのではないかという危惧を部落女性たちは抱えている。そのため、部落女性たちは、自らの属する共同体におけるジェンダー体制について沈黙を守ることになる。その結果、マイノリティ共同体におけるジェンダー体制は、部落差別によって強化されるという側面を抱えてしまうことになる。

(ウ) 「連帯の政治」と解放の階層化

 「主体」への問題提起は、運動の基盤でもある「連帯」の政治を問題化する。連帯を求めるはずの運動が、実は、排他性を伴うものであり、部落解放運動論によって規範化された「女」アイデンティティを共有することが強制されるが、幾重にもジェンダー化された「女」としてのアイデンティティの規範の受容と共有を拒絶することは主体形成における様々な困難を伴うことになる。部落を理由にした自己否定から解放されようとすればするほど、女というジェンダーを理由にした自己否定に陥っていき自我の分裂をもたらすのみならず、アイデンティティ・ポリティクスによる対立や分離・分断がもたらされてしまう。

 わたしが行った聞き取りで多くの部落の女性たちが語ったのは、部落問題よりも、「家」をめぐる経験や思いであった。家父長制を内面化している部落共同体の中で生きている女性たち、さらに、その中の「家」で生きる女性たちは、部落の中の家や共同体の家父長制の論理に、職場や運動の家父長制の論理に、日々苦しみ、生き延びる戦略を見つけてきた。部落における家や共同体の抑圧から脱出したとき、そこには社会における部落差別があり、女性差別がある。

 「われわれ」を主語に、部落共同体や部落出身者全体が社会から被る部落差別について部落問題を語る男性と、「わたし」を主語に、「家」をめぐって個人が被る抑圧や支配の経験について語る女性たちの間には、「主体」の捉え方や主体形成のありようやその過程に大きな違いがあるように思う。女性が主体形成の過程の中で、「わたし」を主語に個人の経験や感情を語ろうとすればするほど、それらは低く評価されたり否定されたり、また、「われわれ」を主語に語る男性中心社会の論理や政治権力に翻弄されたりするようになる。部落解放運動論における主体形成のありようは、やはり、男性を中心とした「われわれの解放」なのである。そのため、男性社会の家父長制の縛りの中で、部落女性たちが、「わたし」を語り、「わたし」のために生きようとする、そんな主体形成を模索する営みにとって、男性を中心とした「われわれの解放」による主体形成理論は、抑圧的なものとなり、自己否定をもたらしかねない。

 「人間=男性=主体」を主軸とした人間解放や主体の形成・確立の部落解放運動論では、またその運動論を「支える」ことでは、女性の自己解放や主体形成にはならないと思う。

 ジェンダー化された主体が政治的に構築されていく中では、「女という同一性」はありえないとして、自明視していた「女という同一性」の問い直しを図ろうとするブラック・フェミニズム、ポストコロニアリズム批評やサバルタン・スタディーズがフェミニズムに提起してきたものは、特権的な白人中産階級の異性愛女性の経験を普遍化し、男女の間の不平等のみを強調することで女性間の差異を無化するジェンダー論そのものへの異議申し立てでもあった。白人中産階級異性愛女性を規範とした解放のありようでは、解放された女とそうでない女というように、解放のありようにおける白人中産階級異性愛女性を中心とした階層化が生じるという批判を部落解放運動論に敷衍すれば、部落男性を規範としながら「部落という同一性」を政治的に構築していく人間解放論や主体形成論では、解放や主体形成における男性中心的な階層化と新たな抑圧や自己否定を生じさせることになるであろう。

 部落女性のサバイバルに向けた日常の実践から、部落解放運動論や同和対策事業、まちづくりの取り組みにおけるジェンダー言説や記述のゆがみをひもといていく作業、社会・経済・政治関係におけるジェンダー枠組みの変化と男女関係の変化から、部落女性の役割に見られる変化とジェンダー差別と部落差別のメカニズムを解明していく作業が、今後のわたし自身の課題である。部落女性が、歴史的・社会的・文化的に構築されるジェンダー枠組みの中でジェンダー化されながらも、新たな実践を生み出すことで、どのようなジェンダー枠組みの変化と構築を展開してきたのか、与えられた他者性を自らで意味づけし直し、ジェンダー体制を変革することを志向する政治的抵抗を生み出す主体の構築を図ろうとしてきたのかを明らかにしていきたい。

2. 「公的領域」「私的領域」の境界設定の問い直し

 「個人的なことは政治的なこと」と言われるように、ジェンダー研究は、「自然」とみなされてきた家族や性に関わる私的領域における問題を政治化すると同時に、普遍的・中立的・客観的とされてきた国家や政治・経済など公的領域における男性中心主義を問題にした。

 そこで本稿では、次に、部落における公/私領域を、「再生産」「女性に対する暴力」「共同体」「家族」「労働」などから考えてみたい。

(ア) 部落における「再生産」の意味

 ジェンダー研究による公/私領域の境界設定の問い直しは、再生産労働、家事労働、アンペイド・ワークなどの新たな概念の発見と既存の「労働」概念規定のパラダイム転換をもたらした。しかし、ジェンダー体制がもたらす私的領域における再生産労働よりも公的領域における生産労働を重視する白人中産階級の主張を批判するものもいる。ヘーゼル・カービーは、「再生産という概念が黒人女性に適用されるときには問題となると指摘した。黒人女性は、黒人労働力を再生産することに加えて、白人家庭に家事労働力を供給することを通じて、白人労働力を再生産することにも関わっているからである。」[2]

 人種・階級の視点から考えたとき、マイノリティ女性のセクシュアリティや再生産が、マジョリティによる支配や管理の道具として利用されることが起きていることがわかる。一方、マイノリティ共同体においては、さまざまな価値規範や民族的アイデンティティを次世代に伝授するうえでの再生産者や媒介者としての役割を女性が担わされるため、女性のセクシュアリティを管理することが集団的アイデンティティの「純潔」や身体的な共同体の次世代を維持するうえで重要視される。

 部落においてはどうだろうか。「子どもが差別されるから」と結婚差別にあった女性、「差別される子どもを産んでいいのだろうか」と出産を悩んだ女性、部落外男性と結婚して部落に住むことで活動家を育てることを求められた女性、活動家同士の結婚でどちらの地域に住むかでもめた女性、どうしても部落で出産と育児がしたいと部落外の夫を説得した女性、部落男性との結婚によって部落に住むことを歓迎される部落外女性、部落に住んで、「部落に近づこう」と、子どもの保育や教育運動に奮闘する部落外女性、「家や地域に縛られた子どもを産むのではない、尊厳をもった一人の子どもを産むのだ」と部落外に住むことを決意した女性…。

 ジェンダー研究においては、再生産をもっぱら私的領域における問題として捉えてきたが、公/私領域の二項対立的な捉え方では、部落における再生産の問題は捉えきれないように思う。部落女性にとっての再生産は、公的な領域やシステムを想定した自分のポジショナリティの選択や公的な領域やシステムの中で生き残るための選択を意識的に戦略として行うという要素を含んでいるため、それは、私的でもあり同時に公的でもあるという重層性や複合性を伴っていると言えるからである。そのため、部落共同体における結婚、妊娠・出産、育児・介護、家族の健康への配慮、生命と労働力の再生産などの意味とそこで果たしてきた女性たちの役割や実践の意味を問い直すことが必要であろうと思う。

 そして、ジェンダーの視点から部落問題を考えるときには、セクシュアリティの問題にも直面する。ブラック・フェミニストは、ジェンダー・人種・階級・セクシュアリティそれぞれの抑圧が、複数の歴史性を有した権力関係から構築されていることを強調する。なぜ、部落において差別の複合性が語られる際、セクシュアリティが不可視化されてきたのか。なぜ、部落においては、ゲイやレズビアンは不可視化され抑圧されてきたのか。

 公的領域からの女性の排除と私的領域における女性の支配という公/私領域におけるジェンダー配置と公的領域における男性間の連帯関係を、異性愛男性間の同性愛者嫌悪(ホモフォビア)と女性嫌悪(ミソジニー)によって説明したセジウィックの「ホモソーシャリティ」概念は、部落における結婚差別の問題、異性愛的次世代再生産や「母」や家族を重視する価値規範を読み解くうえで参考になる概念であろう。

(イ) 女性に対する暴力と共同体

 公的領域に限定して議論されてきた人権概念のパラダイム転換をもたらしたのが、「女性に対する暴力」であった。福岡ともみは、差別からのサバイバルのために部落女性が取る方法―相手との関係維持に過剰な配慮をし、過剰に責任を取り、支配者の価値観に敏感であること―がDVの背景にあることを指摘している。また、DV被害者の体験の背景にあるジェンダーと部落の共同体構造についても指摘し、被差別者への共感から暴力被害を過小評価することや、活動家を批判することは利敵行為とみなされることなどを説明している[3]。

 2000年11月に、「ジェンダーと人種差別の交差」についての議論が行われた、クロアチア専門家会議においても、マイノリティ女性と共同体との関係について報告されている[4]。例えば、人種化された女性は、組織的な人種主義が自分や共同体に及ぶことを恐れて、暴力の被害を警察に届け出ることをためらうため、法的支援についても限られたアクセスしか持たないこと、同じ共同体の構成員が伝統や慣習、宗教的慣行を理由に、女性に対する暴力を正当化しようとすることで、人種化された女性が苦しむこと、女性たちの要求は、共同体の規範にとって「異質なもの」としてその正当性が否定され、共同体の家父長的規範や価値観は文化の多様性として容認されることがあるため、その集団に属する女性の個人としての権利は認められないこと、支配的な文化の中の人種主義ゆえに、マイノリティ女性が自分の属する共同体内部のジェンダー差別に立ち向かうことはさらに困難になること、外部社会の人種主義に対抗するために、共同体としてのアイデンティティの確立と連帯がいっそう必要になるため、家父長的規範を守ろうとする共同体が女性を抑圧することがあること、人種化された女性は、共同体内で暴力や権利侵害を受けても、共同体から排除されることを恐れ、あるいは人種主義の支持者と見られたくないために沈黙を守ること、などが指摘されている。

 部落差別という日常的な蔑視や差別的扱いを受けるのではないかという精神的屈折状況と、実際の差別体験や偏見は、部落男性にとって最も身近な存在である部落女性に対する日常的な女性差別を引き起こしてきた。差別や貧困に対する互助機能として働いている家族や共同体内部でその性差別を認識したり告発したりすることは部落女性たちにとって困難を伴う。部落共同体全体が社会的・政治的・経済的不利益や差別を受けているのだから、その共同体内部における差別や権利を女性が主張することは、共同体に対する裏切りだとされる。共同体に対するスティグマが強化されることを恐れて、女性たちが共同体内部の問題を提起したり、権利を主張することは非常に困難になる。家族や共同体の外で部落男性たちを抑圧したり排除したりする差別構造があり、部落の共同体や家族の内部でその部落男性たちによって引き起こされる性差別を部落女性たちは引き受けてきた。

 また、忌避・排除によって閉じられていく部落の共同体内部や閉じられた人間関係や社会とのつながりの中にあっては、家族や共同体の根幹にある家父長制の思想が彼女たちに対してより強い抑圧となって覆い被さる。そうした共同体内部においては、部落の人々が意識を変えていくことも難しく、教育や情報からも疎外されていたため、部落の共同体の中に旧態依然とした思考や生活スタイルが残されていき、支配や抑圧の関係が強固なものになっていた。

 貧しいがゆえに、差別されているがゆえに助け合わなければならず、共同体を支える論理である互助機能は、束縛という側面や家父長制の論理も含んでいた。

 DV加害者をかばい、許し、免責し、受容し、同情し、理解し、貧困や差別のせいだと矮小化して正当化する部落女性たちの思考回路には、部落差別とジェンダー差別の交差が、部落女性と共同体との関係に大きな影響を及ぼしているのではないだろうか。

(ウ) ジェンダー視点と共同体

 近代西洋的価値規範では、家族や共同体というものは、女性の個としてのアイデンティティを無視し抑圧するものだとして、家父長的な家族や共同体、ジェンダーに縛られた共同体の価値観、伝統や文化から解放されて、自立・自律した個人として生きていくことの大切さが訴えられてきた。近代市民社会は、個人の人権の尊重や自己決定権を重視すること、個人主義原理に支えられた現代家族や市民社会を発展させることを重要だとしてきた。そのために教育が大切であり、経済的・政治的・社会的・精神的自立・自律やエンパワーメントが必要なのだ、と。

 では、共同体に潜んできたジェンダー差別の問題を解決し、部落女性たちが個人としての人権を尊重していくためには、共同体を悪だとして破壊していくことしか道はないのだろうか。

 昨今、ジェンダー分析を行うにあたっては、欧米諸国の歴史と文化の中から生まれてきた概念や理論的道具を使って、他の社会や文化を画一的なカテゴリーから分析するのではなく、その地域や社会における歴史性を有して生まれてきた固有の価値観から分析する必要性が指摘されている。人類学分野においても、「個人概念において無視されてきた共同性と身体性というふたつの特徴」に注目する概念として、「エイジェンシー」概念が使われており、「個的経験の厚み」を捉えるためには、「共同性、単独性、歴史性の諸相に注意を向ける必要がある」と指摘されている[5]。

 開発分野においても、欧米的アプローチの問題が批判され、援助する側の論理による安易な開発や援助は逆に女性たちの負担を増し、性別役割分担を強化するとして、その社会の性別分業や性別規範の多様性と歴史性を理解することの必要性が指摘されている。

 それぞれの社会や共同体において女性が果たしてきた生産労働、再生産労働、コミュニティ管理・活動という女性の三重の役割の中で彼女たち自身が認識してきた利害関心やジェンダー・ニーズを明らかにしていかなければならないであろう。部落女性が生活の経験の中で生き延びるために身につけ、生きるために選択してきた、そしてそれぞれの共同体の中で共有してきた「生活知」に学ぶことが重要であろう。

 一方、女性が被る経験が部落差別に特有・顕著な側面として、女性が担う文化が部落共同体に特有・顕著な側面として強調される際に、部落と部落外との境界線や差異が再生産され、文化や伝承を担い表明する役割が女性たちに担わされることで、文化の家父長的側面による抑圧や差別が正当化されることがあることにも留意が必要であろう。

 部落女性たちによる生活の戦略・戦術・生活の知恵、部落における差別・被差別という差別構造、そして、一つ一つの部落に特有な生活条件によって育まれ営まれてきた文化を美化するのではなく、ジェンダーの視点から分析していくことは、ジェンダー論にも大きなインパクトをもつであろう。それは、「部落女性」というカテゴリーの使用にも敏感であることを意味する。さまざまな部落女性の歴史的経験を既存概念としての「部落か女性か」、「部落かつ女性」という固定的なカテゴリーに還元する危険性があることに意識的でいたい。

 部落共同体に固有なジェンダー規範がどのような歴史性や背景をもって生産・再生産されているか、それらが部落共同体の生活文化にどのような影響を及ぼしているかを明らかにしていくことが必要である。

(エ) ジェンダー視点から部落の公/私領域を問い直す

 部落女性の労働力の高さが、女性解放の基準、男女平等の実現、豊かな生活の保障とは言えず、そこには、低賃金、不安定という就業形態があり、部落女性たちが抱える複合的な差別の実態がある。「労働者の権利」と言ったときには、家長としての「男性=市民」をモデルとした市民的権利であるため、部落女性たちの要求は、「女性労働者の権利」という枠組みでの要求とされてきた。労働者たる家長である夫に対する国の権利保障によって自分たちも間接的に生活が保護されるため、夫の労働者としての権利と、部落差別によって失業・低賃金・不安定就労に苦しむ夫の分まで働いて家族を支える自らの女性労働者としての権利の二重の権利保障の闘いであった。

 公的領域における部落男性の自由と平等を求めながら、私的領域における不自由と不平等を背負ってきた部落女性たち。公的領域における権力に対する運動を展開しながら、私的領域における権力に対してはジェンダーブラインドであった部落。「労働」の権利を主張するとき、差別的・抑圧的な労働市場にあっても、力強く生きている部落女性の姿は高い評価を受けても、家事労働の抑圧と搾取には注意が払われない。部落男性の仕事保障を中心的課題とする部落解放運動論と家事労働を中心課題とするジェンダー論との狭間に置かれた部落女性たち。

 経済ならびに産業システムの基盤を担ってきた、市場労働・有償労働・賃労働の場である公的領域と、再生産労働・無償労働・家事労働の場である私的領域における、男女二元論に基づく社会構造と社会意識や社会行為についての議論がジェンダーの思想と実践を発展させてきたことは否定できない。しかし、公的領域=有償=男性、私的領域=無償=女性の二分法は、部落女性の働き方にはあてはまらない。公的領域における労働に従事しながらも、私的領域においても、家事労働のみならず、社会保障・識字・教育・保育・医療・保健を求める生活闘争を展開してきた部落女性たち。現在においても、育児・介護を社会化していくまちづくりや仕事保障を担っているのは、やはり部落女性である。

 経済・政治・生産領域において、経済や政治に関わる諸組織を先導する部落男性は、そこに自らの役割と存在意義や生きがいを求め、部落男性としてのアイデンティティを主張する。一方、部落女性たちは、家庭・再生産領域において、身近な家族との関係における自らの役割と存在意義や生きがいを優先させ、そこにおいて部落女性としてのアイデンティティを確立していく。国家権力への対抗や政治や経済のような公的な問題が家族や共同体、セクシュアリティのような私的な問題よりも重要であるとされる。公的領域である市民社会における市民的連帯は男性領域であり、女性は女性に特有な問題での女性たちとの共闘が要求される。政治とは国家権力であり、私的領域における政治は無視される。

 ジェンダー視点を導入した歴史や政治・経済の解明は、不可視化されてきた公/私領域における権力構造を次々と描出している。そのため、ジェンダー視点から部落問題を考えることは、部落問題に内在化する権力構造の解明でもあるのである。

3. ジェンダー・人種・階級

 さまざまな差別や抑圧の形態を同等に捉えて、一つの形態の差別や抑圧に別の形態の差別や抑圧を「追加」していく、「ジェンダー+人種+階級」アプローチではなく、一つ一つの差別や抑圧は形態がそれぞれ異なるため、それぞれが複合的に重なり合うことによって、他の差別や抑圧と相互作用をもたらす「ジェンダー×人種×階級」アプローチがとられるようになってきている。

 上野千鶴子は、こうした差別のありようを「複合差別」と命名し、「たんに複数の差別が蓄積的に重なった状態をさすのではない。複数の差別が、それを成り立たせる複数の文脈の中でねじれたり、葛藤したり、ひとつの差別が他の差別を強化したり、補償したり、という複雑な関係にある」と説明している[6]。

 部落問題においても、部落差別と性差別を二重に被る、あるいはそれに階級を追加して三重の差別を被る、という差別の捉え方ではなく、部落差別と性差別と階級差別の相互作用が、部落女性に対して、部落男性や非部落女性とは異なる特有・顕著な差別や抑圧をいかなる形でもたらしていたのかを検討する必要があろう。

 階級還元主義の理論や実践では、性や人種・民族などの社会的不平等は階級的不平等を解決すれば解決されると考えられ取り組まれてきた。階級論や貧困論、格差論で部落問題を説明しようとする際、社会の矛盾が部落に集中しており、障害者、高齢者、子ども、女性、母子家庭などにさらなるしわ寄せが集中的にあらわれるという解釈が行われる。すると、部落男性とは異なり、女性に顕著で特有な差別の経験を列挙することになり、さまざまな問題を解決するにあたって、「ジェンダー」「女性」という文言を「追加」し、男性の差別や権利に、女性に顕著で特有な差別や権利を「追加」するだけになってしまう。

 「差別の交差性」概念を提示しているクレンショウは、女性に特に不均衡な形で現れる問題について、人種差別や他の差別の影響や差別の交差性が認識されず、「女性の問題」「ジェンダー」という枠組みに入れられて差異を包摂してしまい不可視化してしまうことをover-inclusionとして問題視する。一方、女性としての経験が人種・民族差別の問題として認識され、マイノリティグループとマジョリティとの差異がジェンダー的側面を不可視化し、ジェンダー分析が十分に包摂されないことをunder-inclusionと説明している。部落差別は差異を隠蔽し、ジェンダーは差異を包摂してきた。

 ジェンダーとは、「女性」や「性別」を普遍化するのではなく、差異化という日々の言説実践が権力を生むことを明らかにした。そこには、「差異の政治」と「連帯の政治」をめぐる言説の問題が生じる。同一集団内の差異や権力関係をも問題にすることが対立を際だたせ連帯を難しくすることや、差異の重要性の強調がマイノリティとマジョリティの差異から目をそらすことにもなるなどの指摘もされている。一方、女性のあいだの差別・権力関係を、差異や多様性の問題と論じたり、「同じ女」の主張にすり替えるなどの問題が生じていることも批判されている。さらに、すべての女性が抱える課題には共通性があるという前提のみを際だたせることによって、女性のあいだの支配―従属関係を隠蔽する問題点も指摘されている。

 では、部落問題においては差異をどう認識してきただろうか。部落女性に現れる複合的な差別を論じる際、「女性の問題」という枠組みに入れる一方で、部落外との「格差」から部落差別を強調するために、部落女性の差異と多様化が論じられてはこなかっただろうか。差異によってもたらされる現実や関係性を批判的に論じることは、連帯を分断することだと捉えられてはこなかっただろうか。差異の発生を抑制する理論装置として、階級という概念が構築され、いったん構築されると、階級概念の中では他の差異はその概念の下に従属させられてはこなかっただろうか。

 既存の階級論が男性中心主義的であるため、階級を分析する際の単位が家族・世帯別の実態調査では、女性のあり方は男性に従属することになり、家族成員の抱える問題や実態、とりわけ男女間の格差を把握することが困難になることが指摘されている。部落の実態調査はどうであっただろうか。

 グローバリゼーションのもとで進行する不平等を分析するために階級という変数が再びジェンダー研究にも登場してきており、女性内分化を生み出す要因としての階級への関心も高まっている。

 80年代以降、ジェンダー研究においては、さまざまな権力関係から成り立つ主体をめぐる言説と他者表象の政治をめぐる議論が活発化していく。女性の従属・抑圧を言説的に均質化し、それらがもつ歴史性や文化性を加味せず、当事者である女性たちの経験や思いを無視した形で普遍化を行う先進国のジェンダー研究による第三世界の女性たちの他者表象化と主体の否定を植民地主義言説として批判したのは、モハンティである。

 この問題は、部落女性と他のマイノリティ女性との間の「差異の政治」と「連帯の政治」をめぐる言説の問題も生じさせる。部落女性を規範としながらその基準をダリット女性に持ち込み、一元的なダリット女性を生産/表象しながら、部落女性とダリット女性との違いを経済的還元主義や文化的還元主義で説明しようとすると、「遅れている」文化の問題と開発や援助による平等化が強調されかねない。そこには、グローバル経済や政治の中での自らの地位と役割を問い直す視点ではなく、部落女性とダリット女性が文化や歴史を超えて「普遍的に」被る複合差別があるということを証明するために適した事象が発見され、他者表象されるという問題が起きる。

 最後に、「ジェンダー×人種×階級」の視点から、労働者階級や黒人のマスキュリニティ研究が進められていることに鑑み、部落男性の経験を考察する必要性を指摘しておきたい。

 部落男性は公的活動としての先人の歩みを、部落女性は私的活動としての生きざまを強調してきたが、部落男性の生きざまをジェンダー視点から問い直していく必要があろう。人種と階級に基づく差別が部落男性の男性性やアイデンティティ構築、部落のジェンダー規範にいかなる影響を及ぼしたのか。部落解放運動論においては、部落男性たちが安定した労働市場から排除され、基幹労働者としての男性役割や、生産労働や賃労働を担っていく男性役割を果たせないこと、また、失業、低賃金、不安定就労によって、一家の長として主たる家計維持者としての役割も果たせないことに、部落差別が影響していると捉えられてきた。つまり、そうした部落差別の捉え方から生まれる部落解放運動論には、部落男性たちの働き方や生きざまが資本主義社会における家父長的な「男らしさ」や規範的男性性から逸脱していることや、それらを実現できないでいることを部落差別と捉える論理が用いられるのである。その結果、部落解放運動論においては、資本主義社会における家父長的な「男らしさ」や規範的男性性を獲得することが部落差別の解消だと捉えられてきたのではないだろうか。女性を男性として保護できないことが部落男性の屈辱感を強化し、男性は「自分たちの」女性を保護すべきだという性役割を強化してはいなかっただろうか。

 「ジェンダーの視点から部落問題を考える」ことは、わたしにとってどうしても、「ジェンダーの視点から部落解放運動論を考える」ことになってしまう。また、ジェンダーの視点から部落問題を考えようとすればするほど、部落問題を論じることの困難に直面してしまう。今後の課題としたい。


[1] 金伊佐子「在日女性と解放運動―その創世期に」フェミローグの会編『フェミローグ』3、玄文社、1992年。
[2] ジェマ・タング・ナイン/楠瀬佳子訳「黒人女性、性差別と人種差別 黒人差別つまり人種差別に反対するフェミニズムとは」『現代思想』第20巻第1号、1992年。
[3] 東京自治研究センター・DV研究会編『笑顔を取り戻した女たち―マイノリティー女性たちのDV被害 在日外国人・部落・障害』パド・ウィメンズ・オフィス、2007年。
[4] United Nations Division for the Advancement of Women (DAW), Office of the High Commissioner for Human Rights (OHCHR) and United Nations Development Fund for Women (UNIFEM), 2000, "Gender and Racial Discrimination: Report of the Expert Group Meeting" (21-24 November 2000, Zagreb, Croatia).
[5] 田中雅一・松田素二編『ミクロ人類学の実践―エイジェンシー/ネットワーク/身体』世界思想社、2006年。
[6] 上野千鶴子「複合差別論」『岩波講座現代社会学 (15) 差別と共生の社会学』岩波書店、1996年。