本報告は、差異について考察する際のフレームワークを分析するものである。このフレームワークとは、単に人びとが頭で考えているものではない。フレームワークは、私たちが世界をどのようにとらえ、行動するかを構築するものである。私がとくに関心を抱いているのは、日本における差異が国際的な舞台においていかに効果的に表現されうるのか、また、どのようなフレームワークが、不名誉な部落問題に日本を国際的に表現させる余地を認めるのか、ということである。多文化主義はこのようなフレームワークの一つであり、日本における差異が国際的な場で概念化される際の主要な手段となってきたといえるだろう。このようなフレームワークは他にはあまりみられず、たとえばカーストと階級の関係を分析するのに用いられる階級に基づいたマルクス主義的な分析があるが、現在において関連性は低くなっている。また、「職業と世系に基づく差別」などのように同時期にみられるフレームワークもあり、これらは多文化主義とは違った方法で作用する。
この報告では、多文化主義に焦点を当てる。まず、この多文化主義という言葉を私自身がどう理解し、何を前提とするのかを説明する。それから、3つの現場における多文化主義の発現を簡単にたどる。3つの現場とは、1)英語による学術文献、2)関連する研究に資金提供する諸機関、3)日本の活動団体である。また、この多文化主義というフレームワークの3つの特徴として、1)リスト化(enlistment)、2)同質化(equilibration)、3)真正さ (authenticity)、を挙げておく。この3つの特徴それぞれが、部落の人びとや彼/彼女らについて語る人びとに対して何を要求し、どのような影響を及ぼしうるのかについて検討する。最後に、部落の人びとのことを語るために、この多文化主義というフレームワークを使う権限を持つのは一体どのような人びとであるかについての考えを述べて締めくくることとする。
この報告は、とりわけ私たちが関わった会議にむけて書かれたものである。この会議の一つの目標は、部落問題を研究する学者の国際的なつながりを構築し、世界のさまざまなグループ間の連帯を促進することにある。本報告は、この目標が達成される条件を分析し、また、この目標を達成するために私たちが与えられた手段を分析することを目的としている。私自身、前提として認識しているのは、自分たちが意図するかしないかに関わらず、差異について考えるフレームワークとして多文化主義がすでに身近に存在しているということである。本報告が、部落問題を分析する際に私たちが自然に使っている手段をより批判的に考えるきっかけとなることを願う。
多文化主義の定義について
まず、重要なことは、多文化主義の概念を、英語のmulticulturalismという語とその日本語訳である「多文化主義」という語とは区別することである。私が多文化主義と呼んでいるものの概念は、これらの言葉の使われ方に依存しているものではない。英語のmulticulturalismと、さらに日本語訳としての「多文化主義」という言葉は、文化フェスティバルのイメージを思い起こさせる。お祭りに参加する人たちは、衣装や食、踊り、その他にも民族集団やマイノリティ集団の文化的な工芸品などを試し、その集団の文化を理解したという感覚をもって立ち去っていく。私がここで使用する「多文化主義」の概念は、この解釈よりも広い。この概念は、上述したような文化フェスティバルと、そのあまりに浅い商品化された文化的表現も含むが、人間であることの意味についてのごく基本的な考え方―人間個人の平等や人権、個と集団の関係など―も含んでいる。
私の分析は、チャールズ・テイラーの研究(Charles Taylor, 1994)に負うところが大きいが、ここでは多文化主義は、緊迫した二つの前提の交差の上にある。一つの前提は、普遍性とすべての人びとの平等な尊厳である。もう一方の前提は、個々人が持つ独自のアイデンティティと独自の生き方における差異である。これらの二つの前提は、明治維新とともにもたらされた制度的社会階級の崩壊によって可能なものとなった。それより前は、人びとは社会的身分により異なると考えられていたし、それに応じて同定されていた。この制度の崩壊とともに、アイデンティティは個人的なものとなり、身分に応じた名誉は人が生まれながらにして持つ人間の尊厳に置き換えられた。そして、人びとは名ばかりの平等を引き受けた。これらの二つの前提は、互いに緊張関係にある。テイラーによると、「平等の前提は、すべての個人を平等に扱うことを侵害したとして、差異の前提を批判する。また、差異の前提は、人間のアイデンティティにおける本質的な差異を無視、つまり侵害したとして、平等の前提を批判する」のである。人権そのものの概念がこれら二つの対立する前提の交差に横たわっている。つまり、人権はまず、すべての人間に平等な尊厳を与え、その尊厳が確保されたもとで、私たちが個々人に対して違った独自のアイデンティティを持つ余地を与えることが必要となる。別の言い方をすれば、人権の観点からは、私たちすべてが自分自身のアイデンティティを持つ権利が平等にあるということである。
多文化主義は、集団のレベルにおけるこの緊張が生んだ労作であり、集団のアイデンティティはその文化である。その点からすれば、先に述べた一文は次の文に言い換えることができる。それぞれの集団は平等にそれぞれの文化を持つ権利がある。これらの集団は、ある種の社会的排除に苦しめられている人びとであり、また、「マイノリティ」と呼ばれる人びとに限定されることが多く、したがってそのような印を付けられない集団はとり残され分析の対象外となる。つまり多文化主義とは、必然的に平等でありながらも独自の文化を保持している集団について考える際の手段である。そしてこの独自の文化は「平等の前提」が必要とする平等な承認を得るために、認められ尊重されなければならない。これから見ていくように、多文化集団として適していると認められることは、具体的な利益と課題がもたらされる。問題は、どうすればこの文脈において集団とみなされるようになるのか、また、多文化的と見られるためにはどのように出現しなければならないのか、ということである。
研究分野における表現
ではまず、部落問題に関する英語の学術文献を見てみる。このような文献は1979年当時でまだわずかしかなかった。その頃にあったのは、英語の学術文献は2つしかなかったが、これらは部落問題を「スティグマ(烙印)」として取り扱っていた。この2つとは、現在影響力の大きい1967年のデボスとワガツマの著作『Japan's Invisible Race』と、これへの応答として吉野と村越の共著によって1977年に出版された『The Invisible Visible Minority: Japan's Burakumin』である。これらの論文に続き、その後15年間にアッパムの『Ten Years of Affirmative Action for Japanese Burakumin』(1980) 、ヘインの『Peasants, Rebels, and Outcastes』(1982) 、オオヌキ‐ティアニーの『The Monkey as Mirror』(1987) 、ニアリーの『Burakumin in Contemporary Japan』 (1997)などが次々に発刊された。これらの文献の政治的なところは、(この問題の)主要な「敵」は、部落の歴史からの抹消であると受け止め、「不可視」や「沈黙」などのように視覚的、聴覚的な表現を通してマイノリティ問題をさまざまに調整しているところにある。しかし、さらに政治的、歴史的、構造的観点から考えると、これらの文献は「アウトカースト」つまり部落問題に主に焦点を当てており、その特定の文脈において説明している。
1979年に公開された英語の論文は、これまで述べた別の諸文献とは少し違い、学術論文とは別の形で出版された。先述の『Japan's Invisible Race』の出版から7年後、デボスとウェドゥラルは、英国に拠点をおくマイノリティ・ライツ・グループという団体の報告書として『Japan's Minorities: Burakumin, Koreans and Ainu』と題した文献を発表した。1974年に公開されたこの論文は、日本と他国の間の類似性の発見に刺激され、日本のマイノリティとして部落の人びとを調査したものである。「先住民族や外国人マイノリティに対する差別を社会が下支えしているように、私たちは、日本社会がいかに他の社会と共通しているか、より深く知るに至っている」(DeVos and Wetherall, 3)。同じ形で表現されているエドワード・ノーベックによる小論文『Little-Known Minority Groups in Japan』も、このデヴォーらの文献に含まれている。
部落問題が、世界各国に共通して見られるようなマイノリティ問題として文脈化され、そのことが英語の学術文献に広く普及したのは、1990年代半ばに入ってからのことである。20年をさかのぼって思い起こすと、1997年のワイナーによる文献『Japan's Minorities: The illusion of homogeneity』は、変化の一つの特徴であった。この論文の任務は、ある特定の民族の状況を解明することにあるのではなく、「主要なマイノリティ集団を参照しながら、日本における『他者性』を歴史的な文脈にあてはめて分析すること」であり、ワイナーはその集団として「アイヌ、部落民、中国人、コリアン、沖縄の人びと、また最も近年に生まれた日系人」を挙げている(1997, xiii)。「他者性」とは、「マイノリティ」と呼ばれ概念化される多様な集団の創出と関係を可能にする、重要な体系的カテゴリーである。さらに、ワイナーの論文には、「他者性」の姿は日本にもともと明白に内在していたものとしてとらえ、「『人種的』・文化的に同質であるという支配的な物語にかかわらず、異なる民族が存在する」(前掲書)としている。このデボスとウェドゥラルが1974年に気付き始めていたことを、1997年にワイナーは前提として受け入れている。
しかしさらに加えて、ワイナーの説明は、デボスとウェドゥラルの文献に現われてこない推論的で政治的な敵として同質性の姿を描いている。原文の『Japan's Minorities』には一切触れられていないが、単一民族国家としての日本という国民国家の姿が、ワイナーの研究とその後に続く関連する研究の中心となる。ワイナーの『Japan's Minorities』出版の数年後、リーによる『Multiethnic Japan』(2001)や、ベフの『Hegemony of Homogeneity』(2003)の出版が続き、また、福岡安則教授による『Minorities of Japan』の出版も期待される。これらの論文はすべて、多文化的な分析のフレームワークを用いており、単一民族という図式を打破することのできる「他者性」の証拠としてさまざまなマイノリティが取り上げられる。さらに、これらの論文には、差異というフレームワークを平準化させる傾向がみられる。たとえばリーは、これまでのところ「日本は常に多民族であった」としている。日本の差異について考える際の今日のフレームワークを用いた記述は、過去にさかのぼって採用され、日本の元来の特徴として位置づけている。この歴史的な動きについては、後に述べる特徴のひとつである。
では、この学術的な場において、二つの変化が明らかになったといえる。一つは、部落問題が表出される量にみられる(ここ10年間で英語の学術文献における部落問題の可視性は著しく増えた)。もう一つは、部落問題の描かれ方にみられる(たとえば、単独の問題から、日本の他のマイノリティと公平に調和した問題へと移行し、単一民族という幽霊を追い払う動きとして「他者性」に視線を向けるようになった。
調査の可能性の条件:資金援助
国際的に日本について発表するための調査を可能にする資金提供機関の決定にも、同じような変化がみられる。国際交流基金を例に挙げる。国際交流基金は、1972年に外務省所管の特殊法人として発足した。国際文化交流事業を目標に掲げているが、日本で調査する海外研究者に対する非常に充実した資金提供によって、そのような交流を可能にしている。過去5年間で同基金は、短期または長期の研究を日本で行なう大学院生・研究者・教授・講師らに対して、毎年平均で175人の割合で資金を提供している。資金を受け取った研究者らは、世界各地で日本に関する書籍を出版し、大学などで教え、講演し、論文を発表する。この基金は、実質的に知識人使節を作り出し、日本の話題として表現される幅を、事実上決定する力添えをしている。ラーメンや、1950年代、60年代のラディカルアート運動、部落ポリティックスなど、これらはすべて、過去5年間に国際交流基金による資金を獲得した話題である。
筆者自身による2年のフィールドワークの間に、国際交流基金の職員数名に話を聞いたところ、資金提供の決定において政治的な立場はとらないという同基金の確固たる信念に遭遇した。それよりも職員のなかで議論されていたのは、国際交流基金(の助成対象の研究)は「表現」するのではなく、単に「提供」するだけということである。この違いは、「表現」は表現する過程において研究対象に変化を引き起こすが、「提供」は知識の「客観的な」移転であるという前提を条件にしているように思えた。前者は、政治的な責任を持ちうるが、後者は、単なる客観的な行為である。というわけで、職員らはつまり、同基金は客観的でしっかりした学術調査を行なうと見込める研究者に対して、資金を提供するということを論じていた。
この客観的、学術的に優れた研究への信念は別にして、国際交流基金の資金提供の歴史には傾向がみられる。1972年の開始から36年におよぶ資金受給者のデータベースが同基金のホームページで閲覧可能だが、このデータベースを見れば、先に述べた部落問題に関する論文執筆者の誰一人として、同基金からの支援を受けていない。実際、何千人もの研究者が受けてきた同基金の資金援助の歴史のなかにも、部落問題に関わる研究としては(関係が薄いものを含めたとしても)4人にしか提供されてこなかった。そしてその4人はすべてこの6年間に集中している。2001年の1人の受給者は、近世日本の穢れに関する考察について、また、2004年と2005年の2人は、それぞれ、今日の多文化教育と都市計画に関する調査で受給した。このテーマでは、おそらく部落問題を抜きに語ることができなかったのではないかと想像する。そして、残された一人が私である。(ホームページによれば)国際交流基金の36年におよぶ助成金の歴史のなかで、部落問題に直接関連する大学院での研究に対して助成金を受けた唯一の人物である。
国際交流基金の助成を受けた部落問題研究者がないということは、部落問題研究者の応募がないということにはならない。国際交流基金が大手の資金提供機関であることからしても、上述の研究者たちは、同基金の助成金を申請したであろうことは、誰もが推測できる。さらに、同基金の受給者選考委員を務めてきた人にインタビューしたところ、研究課題として部落問題を取りあげている応募者が、毎年常に一人か二人はいたという。ではなぜ今、ほんの過去数年の間に、国際交流基金は、部落問題に焦点を当てた調査プロジェクトに助成することを決めたのだろうか。「客観的学術的優秀さ」根拠で選考したと考えるのは個人的にはうれしいことだが、1972年から2004年の間に、現代の部落問題を調査課題に掲げた応募者の誰ひとりとして助成金を受ける資格を満たさなかったとは到底思えない。さらに、もしこの助成金の決定を、日本の「マイノリティ」研究が近年急増したという文脈で考えれば、そして、私の調査プロジェクトや過去2年に助成金が提供された部落問題にやや関係する2つの研究のすべてが、分析のフレームワークとして「多文化主義」という言葉を使っていたということを見てみると、別の答えがよりふさわしいように思える。日本が国際的な舞台で適切かつ効果的に表現される方法において、何かが変わったのである。非政治的で客観的であるといわれる国際交流基金にとってさえ、日本を多文化社会として認め、表現することは適切かつ効果的であるのだ。
ここで心に留めておいていただきたいのは、私は、国際交流基金もしくはその職員が近年部落問題を取り上げることを促進し、国際的な表現を認めることを意識的または戦略的に決定したと主張しているわけではない。また、過去27年の間、部落問題の表現を戦略的に阻止していたと主張しているわけでもない。それよりも私が主張しているのは、こうしたことが意志とは関係なく、政治的になりうる、そして実際政治的であったということなのである。国際交流基金による研究資金提供の傾向のまさに「転換」は、日本が、部落を含めて「多文化的に」表現されることが適切であるとする社会的文脈を前提としている。この転換はまた、部落問題が、何らかの方法によって国際的な舞台で日本を表現するものになりうるという国際的な見解や、部落問題が単なる恥―全日本仏教会理事長にとってそうであったように―ではなく、利益であるという国際的な見解をもたらすといった、そのような社会状況をも引き起こす。国際交流基金の資金提供に関する決定が意図的かつ戦略的な政治性をもたないかもしれないが、一方で、これらの決定は政治性をはらみ、生み出している。
日本の差異についての運動体による表現
反差別国際運動(IMADR)と東京東部の皮なめし工場における2年間のフィールドワークの間に、多文化主義に対する同様の傾向を見ることができた。今日の部落問題に関わる運動体には、日本のマイノリティ集団という文脈のなかで部落問題を提示するはっきりとした傾向が表われている。イアン・ニアリー(1997)は、過去15年間において、もっとも有力な部落の政治組織である部落解放同盟の焦点は、部落問題だけというものから、人権問題へと移行してきたとしている。影響力はより小さいが対立的存在である共産党組織は、2002年に改名し、部落問題にかかわる表現を一切取り除き、人権に焦点化した。これらの組織は両方、それまでは違った集団としてバラバラであった人びとを呼び集めるべく、「人権」をひとつのカテゴリーとして用いた。これらの集団は、「マイノリティ」という地位の結果として同様の人権侵害に現在直面しているとみられる人びとによって構成されている。部落解放同盟は、これまでに別の組織としてIMADRを「すべての人に尊厳を、という宣言を国際化する」目的で1988年に立ち上げている。学術研究、研究資金助成機関、運動団体―これらすべての舞台は、日本が国際的に表出される場である。そしてこのそれぞれが、国際舞台で部落問題を以前より取り上げやすくなったと自覚する傾向が示されている。
部落の人びとはいまだに烙印を押されたままで、日本を表現するのには不適切であると見られている。しかし、ここに述べた3つの非常に影響力のある舞台において、部落の人びとは、まさしくそのようなタイプの表現をする役割として見出されている。アーヴィン・ゴフマンは、より一般的な(または比喩的な)用語としてのスティグマ(烙印)の矛盾しているように思える特性について、彼の独創性に富んだ著作『Stigma』(1963)のなかで触れている。彼は、スティグマがスティグマに苦しむ人の社会的な権威を限定する役割を果たす一方で、その人自身が抱えるスティグマで身を立てていく可能性も開いていると説明している。このように烙印を押された人がある状況において、いい意味でそのスティグマを利用することがある。ゴフマンはこのことを比喩的に「ゴルフゲームをする」と表現する。
学者や活動家の国際的な場において、多文化主義は今日、部落のスティグマでゴルフができる舞台を提供している。では、そのゴルフゲームとはいったい何を指すのだろうか。つまり、誰が部落のスティグマを用いてゴルフをすることができ、またどのような場でできるのか、そして、そのようなゴルフゲームはどのようにして管理されるのだろうか。多文化社会としての日本に向けての闘いに目を向けると、新たなゲームの条件がいかなるものであるかのヒントを与えてくれる関係する舞台のいたるところに特定のパターンが見えてくる。
多文化的表現の条件:リスト化、同質化、真正さの要求
はじめに、学術研究においては、「単一民族国家の神話」が第一の標的で、「他者性」が、それを崩壊する主要な道具であった。他者性が特定され実質的に位置づけられるほど、この単一民族国家の神話が繁栄し続ける可能性は減り、マイノリティ集団が沈黙し周縁化されたままでいる可能性も減る。過去数年間に、2種類の日本の「マイノリティ」の一覧作成の計画に関わる機会に恵まれた。最初の計画は、埼玉大学の福岡安則教授が主導した将来的なプロジェクトである。彼は、日本のマイノリティの状況が海外においていまだに正しく伝わっていないと感じており、英文による書籍を出版することによってギャップを埋めたいという思いがあった。日本の研究者5人が日本のマイノリティについて論文を書き、私が英語に翻訳するということであった。二つめのプロジェクトは、IMADRでのインターンシップの一部として求められた作業であった。実際には実を結ぶことはなかったが、このプロジェクトは、日本におけるマイノリティの非学術的リストの英語版を作ることであった。どのようなものかというと、近代日本の国民国家形成の過程でどのようにしてマイノリティが出現したのか、あるいは彼らの現状はどうなっているのかを、すべて当事者グループと協働でまとめるという内容であった。
これら両方のプロジェクトにおいて、その立案者と私は、誰を、どのグループを含めるのか、また、分量的・時間的制約のなかで、今回は誰を含めないことにするのかについて話し合った。IMADRのプロジェクトの場合は、日本の国民国家形成とより密接に関係する集団で線を引いた。そしてその集団は、部落の人びと、アイヌ民族、在日コリアン、琉球・沖縄の人びと、そして近年渡日した移住者であると私たちは決めた(この基盤ができた後に、他の集団も後に加えられる可能性はある)。もう一方の福岡教授とのプロジェクトは、これらの「基本的な」集団に加え、ハンセン病患者、精神や身体に障害をもつ人びとまでを含めた。また、これと共に、他の集団を扱う将来的なプロジェクトも同様に計画されている。
大阪人権博物館のリニューアルの背景においても、類似したジレンマが議論を呼んでいた。2005年11月、当時再開されたばかりであった博物館を、2人の国連関係者、インドやアフリカにおける被差別カースト出身の活動家、部落解放・人権研究所の部落問題に関わる活動家とともに訪れた。日本人と外国人に対して同様に展示され、日本語が読める人と英語を母語とする人に対して同様に解説が示されているこの日本のマイノリティの殿堂を私たちは巡った。この新しい展示には、先に触れた集団すべてが含まれ、加えて、公害被害者、性的マイノリティ、被爆者が、「今後さらに増える」という先ほどと同様の但し書きとともに展示されている。実際、単一民族国家の神話に対抗する「他者性」を行使したいという衝動から、「まだまだある」の問題は学術的または政治的な会合などさまざまな場面に行き渡っている。このプロジェクトは、終わりがないものである。現在米国で性的マイノリティを説明する際に使用されている頭字語lgbtqqitのように、また、人種や階級、ジェンダー、宗教、国籍などに基づく「マイノリティ集団」の一般的なリストのように、リストはどんどん長くなり、いつまでも十分となることがない。
マイノリティのリスト化を広げた結果、連帯とネットワーキングの新たな舞台が活動家の間において急激に現われてきている。部落の若者が、マイノリティのパネリストとして在日コリアンの若者の隣に登場するよう招待され、以前は争いや競争があったところに、新たな友情と政治的可能性が思い巡らされる。特別措置法が1969年に制定されるとともに、同和地区に指定された被差別部落地域や部落産業に対して地方自治体ならびに国から資金援助がなされた。関東では、特別措置法のもと部落産業に財政支援が行われ、その後、強力な皮革工場組合やと場組合あるいは産業支援ネットワークを育てる一つの要因になった。現在でも、品川にある国内最大のと場における組合は、労働者に対して、公務員としての地位と人びとがうらやむ6時間の勤務時間を保っている。しかし関西では、この措置法はより地域に向けられ、結果、関西における被差別部落の認知度を他よりもはるかに高めることになった(また、部落問題は圧倒的に大阪や京都の周辺地域にのみあるという神話も生み出した)。これらの地域は、同和地区として指定されている場合、直面してきた厳しい貧困を克服するのに大きな成功を収めた。福祉センターや障害者施設あるいは高齢者の介護施設などが設置された。しかし、これらの資金援助は「逆差別」を生み出すこともあった。つまり、周辺地域の人びとが自分たちのところではなく、被差別部落に資金が流入していくのに対して不快感を抱いた。たとえば、これらの周辺住民が在日コリアンであった場合、このような緊張関係は2つの集団間に存在する。歴史的に、このような状況は部落と在日コリアンの間の緊張関係の一因となり、この2つの集団は相互対立の歴史を抱えてきた。しかし、特別措置法の継続的な繰り返しは、次第に被差別部落に焦点をあてたものでなくなり、その他の集団に対しても行政の窓口が開かれていった。そして、2002年3月に一連の特別措置法は終了し、被差別部落に専念した国家レベルの予算の終了を示した。現在プロジェクトはより広い人権の傘下で運営され、部落の人びとや在日コリアン、ならびに自らをリストに加える他のどの集団も、受益者となっている。この転換は、これらの2つの集団における時に敵対してきた歴史を改善するための継続した努力を容易にする。同様に、部落の若者と在日コリアンの若者がマイノリティのパネルディスカッションを企画するのに協力しあったりする。
このような新たな機会が可能になると同時に、新しい困難も浮かび上がる。IMADRにとっては確実に、また、大阪人権博物館やその他の機関にとってもおそらく、リストが増加するにつれて活動や出費が増える。また、差別や排除についての新たな形態の不安―ここでは、それらのリストにあるグループを含まないことによる不安がもたらされる。IMADRがもっとも頻繁に扱うマイノリティのリストには、在日コリアン、被差別部落の人びと、沖縄の人びと、アイヌ民族、近年来日した移住者、そして女性が含まれている。しかし、IMADR自身にとっても時には残念なことに、また、他グループにとっても不快となり得ることに、IMADRは性的マイノリティに焦点を当てたプロジェクトがない。マイノリティのリストが増えるにつれ、IMADRは非包括性に対する批判への不安に直面し、これに応じて戦略を練り、「偶然にも性的マイノリティであった」私のようなインターンを希望ある興奮とともに採用した。
ここで議論したい第二の特徴は、「同質化(equilibration)」というものである。多文化主義の論理は、マイノリティ集団のさらに長いリストを綴ると同時に、「他者性」と人権という注釈のもとにこれら諸集団を同質にする。このことは単一性と闘ってきた努力の皮肉な副産物である。この同質化は、単一性に抵抗するため結集したこれら諸集団が、句読点をつけて無味乾燥に区切られ、隣り合わせに順序よく並んでいるという想定を伴なう。同時に、この諸集団をひとまとめにすることは可能性を開くとともに、論争を開きもする。部落解放同盟のある活動家に話を聞きに行く前に、私は被差別部落出身の友人に、私が男性と付き合っていることを言わないようにと忠告された。友人は、その活動家は「保守的」で、同性愛を打ち明けられたことで私に心を開くのではなく、おそらく逆に閉じてしまうだろうと説明した。日本で調査をしていた過去何年かの間に、この現象はいわゆる保守的な人だけに限らないということに気付いた。人権という水平なアプローチは、類似性を感じさせると同時に、いまだに必ずしもうまくいくわけではなく、明らかな口論とまではいかなくても、不快感を引き起こす可能性がある。
このゲームのもう一つの条件は、真正さの要求である。新しいマイノリティ集団のリスト化と同質化もまた、集団性の実証の要求と同時に、研究者と活動家の手中にある。実証するためには、ある基準が必要となる。この基準とは、マイノリティ集団が何であるか、何であるべきかという考え方である。時には、この基準は統計や当該グループの個別特性の平均によって生成される。これらの特性とは、生活環境や平均収入、教育レベルについてかもしれない。また差別の体験に関するものかもしれない。統計の平均として、この基準がマイノリティ集団にとって「標準」または「真正さ」という考えをもたらす。このような統計は、歴史と文脈の変化を考慮に入れているが、しかしそれでも、塊になった数字は、誰一人としてなれないような「標準」を生み出すのである。個人と集団の「標準」との間には常に距離がある。常に、不足感かそれら2つの間の差異がある。そして個々人は、決して届かない標準{せいせい}にしたがって定義される。さらにその集団の標準が、必然的に、差別によって経済的または心理的に傷つけられることで特徴づけられるため、マイノリティの個々人は常にその被害性に関連づけて自分たちを定義付けなければならない。彼/彼女らは、どのようにして差別されてきたかという質問に答えるか、もしくは、差別を経験したことがないのはなぜか説明しなくてはならない。いずれの場合も、証明する責任は個人に課されている。
またある時には、この基準は社会環境や文脈というよりはより文化的なものになり、集団のアイデンティティの一端として取り入れられる。マイノリティ集団は、長期にわたって続く集団としての特徴があると考えられており、それは文化と呼ばれる。マイノリティ集団の権利のひとつは、その文化が「認められること」である。実際それは、ある一定の方向で現れる要求の一種であるが、しばしば単にありのままの文化的な事実として認めることと見なされる(cf. Markell 2003, Povinelli 2002)。この基準が文化である場合、文化的要素が不名誉なものとしてでなく、肯定的に認められることが、闘いの目標となる。たとえば、アイヌ民族は独自の伝統的な言語や食文化、生活様式を持っている。歴史的に、日本の近代国家形成過程においては確実に、これらの特徴は蔑まれ、アイヌに対する偏見が広く持たれる基盤となった。単一民族性への抵抗と多文化社会への闘いは、かつて蔑まれた特徴の価値の承認が含まれている。ではリスト化されたマイノリティは、文化を持っていることを求められ、また、その文化は容易に実証できるものであれば最も良く、さらにそれが簡単に購入できるものであれば―文化フェスティバルなどで食事をふるまい、民芸品を販売し、踊りを披露するなどすればもっと良いのだ。被差別部落を例に挙げると、もつ鍋を食べ、太鼓を作ることは、かつては単に人びとが営んでいたことだったのに対し、これらは突然「文化的」な活動となる。いずれの場合にせよ、これは生きた文化ではなく、展示された文化である。もしくは、おそらくより正しい言い方をすれば、展示され消費されるための文化である。
リニューアルされた大阪人権博物館は、まさにマイノリティの文化を評価し直す目的で展示物を公開している。アイヌ民族のコーナーにはアイヌの衣装や言語が、琉球コーナーにも同様のものが、各コーナーに応じて違う形態や音声とともに展示されている。集団の特徴として汚いとみなされる職業についてきたとされる 部落の人びとにも、皮なめしや太鼓作りの展示コーナーが設けられている。この真正さの要求は、商品化された文化に対してどちらかというと良くない評判がなされている国際的な文化フェスティバルや博物館に限られたものではない。部落の人びとが日本を表出するものとして国際的な場面でより大きな注目を浴びると、海外からの活動家集団や国連代表がより多く訪れるようになり、保護的な国際法制か連帯の機会などの利益を将来的にもたらす。これらの訪問には、マイノリティの人びとや生活環境、文化的工芸品の見学が含まれていることが多い。このような訪問や文化の要求は、国内の活動家集団側に、どのようにすれば「もっとも」部落民であることを実証できるかという議論や不安をかき立てる。
この文脈において、真正さへの要求は展示されることへ招き入れることであり、それは個人にとって、マイノリティの地位にあるという理由から感じうるどんな恥とも闘うための回転軸となる。つまり、「真正の」文化を持つことは人びとが自分のアイデンティティに誇りを持ち、差別と闘うことを可能にする。しかし同時に、それは、もしかしたら展示物は正真正銘を証明するのに不十分かもしれないという心配の種を抱かせながら、マイノリティの文化を単なる展示の一つへと変える。またそれは、標準化された理想のタイプ、しばしば文化的な特徴をもち被害性により特徴づけられる尺度を作りだし、国内外の支援から注目を集めたいのであれば、それぞれのマイノリティ集団はそれに向けて努力をしなければならない。ランツ・ファノンは、植民地主義のもとで、黒人の目標は白人であったと述べた(Franz Fanon , 1967)。多文化主義の場合、部落民の目標は展示可能な正真正銘の本物の部落民であることと、私たちは言うかもしれない。それぞれを同等に手に入れることはできない。
これら3つの特徴に共通してみられるある一般的な効果は、さまざまな差別が、展示された文化や差別にもとづいて同じ種類のものとして出現し、したがって「複合的なマイノリティ」の状況を理解するために簡単に組み合わせられるということである。このような枠組みにおいては、労働階級の部落女性の状況を、労働階級であることに加え、被差別部落出身者であること、女性であることがどのようなものであるかという自分たちの知識を組み合わせることによって理解できるとする考えは共通のものである。この考え方は、文脈とは無関係に自分たちがこれらの各カテゴリーを知っていることが前提である。このアプローチは、女性であることの意味が中流階級と労働階級という背景にある人とでは根本的に異なるかもしれないという可能性を消し去る。あるいは、被差別部落出身者であることの意味が、女性であるか男性であるかそのどちらでもないかによって完全に変わるかもしれないという可能性を消し去るのである。このような考え方は、文脈にもとづいたアイデンティティの複雑な変化を省略することである。さらに言えば、「マイノリティ」として印を付けられた集団に焦点を当て、印を付けられない「マジョリティ」の分析を求めない。それゆえに、マイノリティを抑圧する構造を創り出しているより広範な社会の役割を潜在的に無視または軽視している。
部落民はいまだに烙印を押されている。結婚や雇用において差別に直面しており、日本の人びとのなかの一部には国が国際的に表現される際の候補者として(部落の人たちを)不適切と見なす人もいる。しかし、部落という社会的なカテゴリーは、研究者や活動家、国際交流基金のような大きな文化機関にでさえ、国際的な舞台における新たな権威にアクセスすることを提供している。しかしそのアクセスは、常に不十分なマイノリティのリスト化の要求や、マイノリティの同質化、証明可能な真正さの要求によって構築されている。このゴルフゲームの新しい 条件は、もちろん矛盾している。この条件は新たな可能性と新たな混乱を伴う。プレイヤーもまた変わる。もちろん、部落民自身はティー・グラウンドに呼び出されるが、彼/彼女らだけがプレイヤーではない。日本を表現する権威を持つ可能性のある役者の誰でもが、日本の「多文化的な」次元を実証するために被差別部落という烙印を使うことができる。そしてそれをすることによって生計を立てることも可能である。部落の活動家に限らず、この役者は、研究者(とくに私のような海外の研究者)や 記者、主要な資金提供機関を含んでいる。
そして部落民であるという問題はマイノリティだけの問題ではない。これは日本の問題であり、ある意味において、今やその名誉を傷つけるだけではなく証明できるようになった。国際舞台で自らを表現する権限をもつ主体に内在するものとして、日本は、烙印を押され辱められてきたマイノリティ集団の要求を可視化しようとしている。そしてその可視化というのは、これまでも見てきたとおり、多文化国家という利益のために、また多文化国家への挑戦のために、人が部落という烙印を使ってゴルフをするという構造のような非常に特別な意味での可視化である。
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