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2009.03.06
「部落問題の今」をめぐる若手研究者の国際ワークショップとシンポジウム
 

報告書

「部落問題の今」をめぐる若手研究者の国際ワークショップとシンポジウム

2008年7月31日-8月2日
主催: 社団法人部落解放・人権研究所
助成: EXPO'70 独立行政法人 日本万国博覧会記念機構

水平運動における女性の役割

黒川みどり


はじめに

 被差別部落における女性は、部落差別と性差別双方の対象であり、それはまさに、「重層的差別」あるいは「複合差別」であるともいえよう。被抑圧者は、自らの不満のはけ口を求め、また自己のアイデンティティを確立する必要から、しばしば他の弱者に対して、より抑圧的態度に出る場合がありうることがこれまでの研究で明らかにされてきた。

 被差別部落における女性のありようについても、日常性のなかに存在していることと、被差別部落女性の多くが、後述するように文字文化から閉ざされていたというような問題の性格にも起因して、文献史料を用いた研究はほとんど行われていないが、被差別部落女性に孕まれている先のような問題を自覚しながら、聞き取りなどの作業をつうじてしだいにその実態を明らかにした研究が積み重ねられつつある*[1]。同時に、戦前における、被差別部落女性の唯一の解放運動組織であった婦人水平社についても、そうした研究をふまえ、再度その運動の意義について見直される必要があると考えられるが*[2]、婦人水平社の歴史は短命であり、また恒常的でかつ裾野の広い運動が展開されたというわけではなかった。しかしながらそのような運動の脆弱さは、日本近代における女性の運動に少なからず共通のものであったし、また他の女性の運動に比べていっそうその点が顕著であるとするならば、それもまた、被差別部落女性のおかれていた状況に照らして考察されねばならない。

 ここでまず、婦人水平社運動の概略について簡単にふれておく必要があろう。周知のように全国水平社は、水平社宣言のなかで「エタであることを誇りうる時がきた」と、自らの「誇り」を高らかに謳いあげて全国の被差別部落の人々の心に訴え、1922年3月3日に誕生した。当時社会運動にもいまだ女性の参加がほとんど見られなかったなかで、部落差別は女性や子供をもとりまくあらゆる生活の場面に潜む問題であったことにもより、当初から少年少女、そして女性たちの結集が見られたことが水平運動の特徴の一つであった。1923年3月2日に誕生した婦人水平社運動のあゆみを、その運動のあり方に即して時期区分すると、およそ次の三期になる。

 第一期は、1923年3月2日に京都で開かれた全水第二回大会において、「全国婦人水平社設立の件」が可決され、その後、各地の水平社大会における女性弁士の登場や、女性の参加が華々しく行われた時期である。続く第二期は、1924年の全水第3回大会で「婦人水平社ノ発展ヲ期スルノ件」が可決されたのを機に、関東では、同年10月、関東婦人水平社本部が結成され、埼玉県・児玉郡婦人水平社や群馬婦人水平社が組織され、さらに翌25年5月には福岡婦人水平社が成立するなど、婦人水平社の組織化が相次いだ時期であった。そして第三期は、婦人水平社が停滞に陥っていった時期であった。1926年以後も、全国水平社においては、依然婦人水平運動のいっそうの拡大と発展が求められていたにもかかわらず、容易に進展せず、さらに1928年の3・15事件をはじめとする左翼運動への弾圧が強化されていくなかで、1928年5月の全水第7回大会において「水平社婦人部設置の件」が可決されたのを最後に、婦人水平社の組織的な活動は消滅していった*[3]

 後述する水平社の運動をつうじて女性たちは、「二重三重の壁」の存在を訴えていくが、その背景には、被差別部落女性のこのような実態が存在していたのである。これまで指摘してきたような被差別部落女性のおかれた位置を、私なりに整理するならば次のようになろうか。

 第一に、被差別部落の女性もまた、被差別部落の男性と同様に、社会からは〝部落民〟という視線を投げかけられ、差別されてきたのであり、第二に彼女たちは、一女性として社会に向き合ったとき、性差別から免れなかったし、また被差別部落内部もけっして差別のない解放区ではありえず、そこにも「家」制度のもとで男性支配が及んでいた。そうして第三に、聞き取りなどの記録に如実に示されているように、被差別部落では男性も仕事に就くことが困難であり、その分いっそう女性にも家計を助けるという負担が重くのしかかったため、過酷な労働を強いられることとなり、家庭内で男性支配の度合いも、男性の被っている抑圧が部落外よりも強い分、女性にもいっそう強圧的に作用する場合が少なくなかったと考えられる。

1 婦人水平社の成立と運動の地域的広がり

 婦人水平社が生まれたのは、全国水平社創立の翌1923年に大阪で開かれた全水第二回大会の場であった。それはあくまで、可能なかぎり広範に部落大衆を組織するためであったと考えられる。全水の側が、あくまでそのような水平社の戦力向上の一環として婦人水平社の組織化を考えていたことは、鈴木裕子が紹介した次のような阪本清一郎の談話からも明らかである。

女の目ざめがないと、水平社は発展しないと思っていた。水平社の宣伝活動などで、実際歩きまわっていると、男が女からブレーキをかけられているようなケースもあった。そういうことがあって、婦人水平社の設立を考えた*[4]

 ここでは、女性の意識の遅れが水平運動の輪を広げる上での障害となっているため、そうならないように女性を開眼させる必要が指摘されており、婦人水平社には、男性主体による水平社の運動を根づかせるための前提づくりとしての男性への啓蒙の役割が期待されていたのである。婦人水平社と銘打ちながらも、女性を差別からの解放のための運動主体とは位置づけておらず、したがって女性差別の問題を汲み上げることなどは一顧だにされていなかったというのが、男性主導の水平社の現実だったであろう。

 しかし水平社に結集した女性たちは、全水から期待されていたそのような役割以上に、水平運動の担い手としての自覚をもって運動に邁進していった。全水第2回大会において婦人水平社設立の提案を行った奈良の阪本和枝(一枝)は、「男許り水平運動をやっても駄目である。宜しく婦人も水平運動をやらなければならない」という趣旨のことを述べている。全水創立大会に婦人代表として、「スパルタの武士の母出でよ、ジヤンダークの如き娘いでよ」と訴えた*[5]ことで知られる岡部よし子もまた、第2回大会でもひき続き、「自由と解放は自らの力によってこそ護られるもので、この力こそ全部落民の団結です。部落婦人よめざめよ。二重三重の差別と圧迫をとり除くために」と述べて、もはや女性が男性に依存してはならぬことを説き、差別からの解放の運動の担い手としての女性の自覚を喚起した*[6]。当時のあっては、いまだそうした被差別部落女性のおかれていた「二重三重の差別と圧迫」を運動のなかにどのように位置づけていくのかという展望は十分には示されていなかった。しかしその存在を指摘し、「男女の差別があってはならぬ」(阪本和枝)と言い切ったこと自体、壁を突き破るための大きな第一歩を踏み出したことにほかならなかった。

 全水第3回大会で「婦人水平社ノ発展ヲ期スルノ件」が可決されて以後の第ニ期では、全水も女性の結集をはかるために積極的姿勢を打ち出した。その一つの試みとして、大会後に創刊された『水平新聞』に早速「婦人欄」が設けられ、第5号(1924年10月)まで続いた(ただし第4号は休載)。それは、これまでの運動の延長線上にあって主として女性の水平運動への参加を促すものであったが、そのなかで次のような問題もえぐり出された。「朝早くから夜晩くまで働きぬいて、それ等の人々に日常事欠かさぬように、米麦を作り、種々な工業に身を砕いてゐる生産者としての我々部落婦人が、何故いつまで、賤民□侮辱され、貧乏人として苦しまねばならないのでせうか」*[7]というように。わずかではあるが、部落女性の生活実態が語られ始めているのであった。

 この時期は全国水平社もまた、1923年に結成された全水青年同盟の影響力の増大に伴って、これまでの「無組織の組織」といわれた状態を脱して中央集中主義に移行し、無産階級としての自己認識を全面に打ち出して、無産階級運動への参加を積極的に推進しつつあった。そのようななかで水平社に結集した女性たちの多くも、階級意識を奮い立たせながら地域水平社の組織化に向かっていった。1924年10月1日に埼玉県児玉郡婦人水平社が生まれ、同じころに群馬婦人水平社、関東婦人水平社も組織されている*[8]。九州でも、同年11月1日に福岡県下ではじめて金平婦人水平社が結成され、翌25年5月には福岡県婦人水平社が生まれた*[9]

 また三重県では、婦人水平社は組織されなかったが、三重県水平社と日本農民組合三重県連合会の事実上の機関紙であった『愛国新聞』(1924年3月創刊)にも、女性問題が比較的積極的に取り上げられた*[10]。『愛国新聞』では、三重県水平社がこの時期、〝無産階級〟としての運動に転換しつつあったことを反映して、「小学校教員以下の職業婦人婦人と農民でなければ駄目」という限定つきではあったが、記者が取材に駆けつけて女性の談話を掲載するという試みもなされた。「本当の百姓」で「学歴も尋常小学校だけ」と紹介されて登場した女性は、「夫も舅も姑も私に対して愛等は些もありません」と言わざるをえない状態であるにもかかわらず、社会から浴びせられる「制裁と批評」ゆえに女のみが耐えなければならない男女の不平等を自分の身の上に即して告発し、併せて娼妓にならなければ生活していけない人を生んでいる社会、小作人を虐げている社会の矛盾を自分の言葉で切々と語っていた*[11]

2 「無産階級の連帯」への〝婦人問題〟の解消

 このように、婦人水平社運動の第二期は、女性の意識の成長と全国水平社自体の運動の力量の増大にともなって、婦人水平社が地方に広がり、かつ水平運動のなかでも女性問題が最も注目された時期であったといっていよい。しかしながらそこでは、すでに見たような被差別部落女性が直面している日常の問題を十分深めるには至らなかった。それには二つの要因が考えられる。

 一つは、全水・婦人水平社ともに無産階級運動に傾斜していくなかで、女性問題も階級差別に一元化されてしまう傾向があったことに起因していると考えられる。そもそも当該時期の水平社主流は、社会運動のなかにマルクス主義の影響力が強まるなかで、それに依拠し、社会主義社会の実現に差別からの解放への期待を託して、差別糾弾よりも無産階級運動の一翼を担うことに力点を移していった。創立以来差別糾弾闘争を展開してきた水平社は、それに対する反発というかたちで現れた差別の厚い壁に阻まれて、その方向をひたすら突き進むことの困難さを認識しており、また無産階級運動に進出する場合も、〝部落民〟という自己認識を後景に押しやらなければならなかった。無産運動においても、それほどに当時の被差別部落の人々に対する差別と偏見は根強く、かつ部落問題への理解は希薄であったことを示していよう。

 そのような状況に照らしてみるならば、部落解放運動のなかで女性問題の固有性が顧みられることなく、「無産階級の連帯」のなかに解消されていくのも当然の成り行きであった。

 婦人水平社運動の第三期においてもその傾向は顕著であった。1927年以後婦人水平社の地方的基盤が揺らぎ沈滞傾向が現れるなかで、全水大会において婦人部(1927年の第6回大会での、全水の府県連合会方式への移行に伴い、婦人部と改められた)を建て直す提案が、1928年の第7回大会まで繰り返しなされた。それらはいずれも「福岡県婦人水平社」の提出によるもので、提案理由の説明に当たったのは常に西田ハルであった。それは、西田らが拠点とする福岡でも婦人水平運動が衰退の傾向を呈していくなかで、全水の力を借りてどうにかその危機を乗り切りたいとする、彼女たちの精一杯の抵抗であったといえよう*[12]

 ところが、それを受けとめる全水の側の対応は、その期待に十分に応えるものではなかった。それはたとえば、全水第5回大会において福岡県の金平婦人水平社から出された、「婦人水平社の全国的連帯を図るの件」をめぐる討論に如実に現れている。菊竹トリが、「婦人の問題に対して男の方は無関心です。大会で賛成しても、実行に力を尽くされない、婦人の問題をもつと熱心に考えて貰ひたい。婦人水平社の調査と、婦人版の発行とを是非実行して欲しい」と主張したのに対して、全水無産者同盟を代表して演壇に立った松田喜一は、次のように答えている。

是迄水平社は一体に婦人の問題に対して不熱心であつた。凡ゆる問題は婦人の協力なくして解決出来るものではない殊に部落婦人は凡ての点に於て無自覚の状態におかれてゐる。吾々は婦人に声援して組織を与えることは目下の急務である。この意味で大賛成です*[13]

 菊竹は、全水の女性問題への関心と取り組みが欠如していることを突きつけ、婦人水平社の調査を行うことや機関紙に婦人版を設けることなどの具体的な方策を提示したのであった。しかし松田は、全水の男性たちが女性問題に不熱心であったことを率直に認め、今後女性の組織化のために協力を惜しむものではないことを明言してはいるものの、それ以上に女性問題への内在的理解を示そうとする姿勢は持ち合わせていなかった。女性固有の問題に積極的関心を払うことを求めている菊竹ら婦人水平社の人々と松田の間には、問題の認識において大きなズレが生じていたことは覆うべくもなかった。松田に見られるこのような認識のありようは、おそらく当該時期の全水の中枢にいる男性たちにも共通していたであろう。

 水平社を担う人々の意識のあり方がそのようなものであったことと、さらには水平社自体が3・15、4・16事件と相次ぐ弾圧で打撃を受けたことも加わって、婦人水平社からの再三の要請があったにもかかわらず、全水においては、それに応えるための新たな方策が採られないまま、婦人水平社の問題は全水のなかから消え去っていったと考えられる。

 しかしながら、1928年以後部落解放運動への女性の参加がまったく見られなくなってしまったというわけではない。三重県松阪市の被差別部落はE・F・Gの3地区からなっていたが、そのうちのEでは、1920年代の後半から1930年代の初めにかけて、日本労働組合全国協議会(略称全協)の系列下にある労働組合や赤色救援会などへの女性の多数の参加が見られた。彼女たちは、無産階級運動に従事しない男性に対して批判的態度をとり、また、県当局の道路改修や授産事業などの懐柔策も一切受けつけず、警察側が手を拱いている様子が見てとれる。もはや警察にとって取りうる残された手段は、弾圧によって運動を壊滅させることしかなかった。そのような身の危険を賭しても運動に挺身し続けるほどに、「現社会制度崩壊」ののちに到来するであろう平等社会への期待が彼女たちを強くとらえていたのであった。しかし、それへの確信を強烈に持てば持つほどに、身近な待遇改善などの運動は無意味なことと認識され、女性固有の、ましてや被差別部落女性固有の問題が彼女らによって汲み上げられる回路は閉ざされていった。

3 男性支配への反逆

 婦人水平社の運動が大衆的なものとして問題を持続的に追求しえなかったいま一つの要因として、運動の担い手が、少なくとも1920年代まではいずれの運動もそうであったように、被差別部落のなかでも比較的裕福で高学歴であり、したがって先に見たような部落女性のありようとは少なからず隔たりがあったことが考えられる。それゆえにその決議にも経済的要求が盛られなかたことが指摘されている*[14]。しかしながら彼女たちはまず、〝女〟としての自己を見据え、〝女〟としての普遍的な問題に迫っていくことから第一歩を踏み出したのである。たしかに、比較的「家」の桎梏や経済的圧迫からも免れていた人々によって、婦人水平社の運動は担われていった。しかしながら彼女たちは、そうした自らに与えられた知識と多少の〝ゆとり〟を存分に生かして、透徹した目で女性の置かれた状況を見据え、あるいは自己の原体験に照らしながら、「家」制度に支えられた〝男による圧制〟を暴き出していったのである。いまやそれに女性が反逆の烽火を上げて立ち向かうべく、呼びかけられていった。女性が立ち上がるには、まず〝女〟としての自己を見据えて男性支配の不合理を衝くことから出発せねばならず、さもなくば、無産階級の解放に自らの解放を託した人々がそうであったように、運動に参加しても、男性とともに水平社を支える一戦力にとどまらざるをえなかった。

 被差別部落に生まれたがゆえに背負わなければならない女性としての痛苦は、「三重、四重」といった抽象的表現にとどまり、いまだ具体には語られなかったが、たとえ短期間であったとはいえ、男性支配への異議申し立ての声が、水平社運動を媒介として被差別部落からも起こってきたのである。

おわりに

 被差別者のアイデンティティはけっして一様ではないし、それは他者から強制的に与えられべきものでもない。しかしながら実際には、被差別部落の人々は、〝部落民〟というレッテルを否応なく付与されてきたのであり、〝部落民〟という自己認識をもつことを半ば強いられてきた。そうであるからこそ、そのようなアイデンティティを拒否し、〝同じ〝であることの証をもとめて無産階級の一員として労働運動・農民運動に挺身していったのである。その点において被差別部落の女性も例外ではなかった。一方でまた彼女たちは、被差別部落内外の男性から〝女〟であることを自覚せざるをえないような処遇を受けてきたのであり、強い自我に目覚めた女性が、ひとり差別を生んでいる社会に立ち向かおうとするとき、往々にしてまず突き崩さねばならなかったのが、そうした男性支配の壁であったといえよう。被差別部落女性の明確な異議申し立ては、まず性差別に対することから始められたのである。しかしそれらは、婦人水平社運動の衰退とともに途絶え、また日本が戦争に突入していく状況のもとで、支配層が作り出した「国民一体」論の虚構のなかに封じ込められていった。


*[1]ただえみこ『唄で命をつむいで―部落のおばあちゃん、母、そして私』(青木書店、2000年)、など。また、被差別部落に生きた自分の祖母・母、そして自らの暮らしを冷静な目で丁寧に描き出した作品に、小林初枝『おんな三代―関東の被差別部落の暮らしから』(朝日選書、1981年)がある。それは、そのような叙述そのものをつうじて、被差別部落の女性が抱えていた問題を自ずと浮き彫りにしている。宮前千雅子「大正期・大阪の被差別部落の女性の生活実態 『部落台帳』の分析から」(『部落解放』第371号、1994年3月)は、大阪府救済課の作成した『部落台帳』の分析を通して、大正期における女性の労働実態を統計的にとらえた貴重な研究である。
*[2]婦人水平社について論じた研究に、黒川美富子「婦人水平社研究試論」(『部落問題研究』第28号、1970年)、本田豊「婦人水平社運動史の研究 関東婦人水平社を中心に」(『東京部落解放研究』第29号、1982年7月)、鈴木裕子『婦人水平社運動史 水平線をめざす女たち』(ドメス出版、1987年)、『部落解放』第371号〈特集 婦人水平社の時代〉1994年3月、などがある。
*[3]各時期の運動のありようについては、黒川みどり「婦人水平社のあゆみと全国水平社」(『部落解放』第371号)を参照。
*[4]鈴木前掲書、60頁。
*[5]全国水平社機関誌『水平』第1巻第1号、1922年7月。
*[6]木村京太郎『水平社運動の思い出』(上)(部落問題研究所)1968年、54頁。
*[7]「部落婦人の立場から」(『水平新聞』第五号、1924年10月)。
*[8]関東における婦人水平社の運動については、鈴木裕子「関東婦人水平社の女性たちとその解放思想」(『部落解放』第371号)に詳しい。
*[9]川向秀武「光り輝いた女たちの熱き思い 九州婦人水平社の光と陰」(同右)は、九州地方の婦人水平社の動きと、その意義並びに限界について論じた研究である。
*[10]『愛国新聞』について詳しくは、黒川みどり「解説」(〈水平運動・部落史研究資料④〉『復刻版 愛国新聞』不二出版、1990年)を参照。
*[11]京瀬宮子談「婦人より見たる現社会」(『愛国新聞』第2号、1924年3月11日)。ただし、この取材形式で女性の談話を載せるという試みはこれ限りで潰え去ってしまった。
*[12]川向は、九州婦人水平社の活動が沈滞を強いられた要因について考察し、無産階級運動への弾圧、担い手が無産政党運動に力点を移していったこと、後継者を育てることの困難、まわりの共闘関係の未熟さ・他の婦人運動との断絶、立ち上がることのできない女性たちのおかれた厳しい状況、の五点をあげている(川向前掲論文)。
*[13]『水平新聞』第7号、1926年5月20日。
*[14]鈴木前掲論文、28~9頁。