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2009.03.06
「部落問題の今」をめぐる若手研究者の国際ワークショップとシンポジウム
 

報告書

「部落問題の今」をめぐる若手研究者の国際ワークショップとシンポジウム

2008年7月31日-8月2日
主催: 社団法人部落解放・人権研究所
助成: EXPO'70 独立行政法人 日本万国博覧会記念機構

シンポジウム

部落問題の今をめぐって ~ 国際的な視点から

         2008年8月2日 大阪国際交流センター

シンポジウム

部落問題の今をめぐって~国際的な視点から

プログラム

1. 司会開会 / ジョセフ・ハンキンス (シカゴ大学博士課程)

2. 主催者あいさつ / 友永 健三 (部落解放・人権研究所所長)

3. ワークショップの総合的な報告 / 平沢 安政 (大阪大学大学院教授)

4. 報告

1) マイノリティを作りだす社会のメカニズム / ジョン・デービス (ミシガン州立大学准教授)

2) 変化するマイノリティのアイデンティティ / 内田 龍史 (部落解放・人権研究所研究員)

3) マイノリティの中間層が果たす役割 / 李 嘉永 (部落解放・人権研究所研究員)

<休憩>

5. 質疑応答と意見交換

6. まとめ

7. 閉会 熊本 理抄 (近畿大学教員)

ワークショップの総合的な報告

平沢安政

 部落解放・人権研究所はこの40年間、部落問題の解決に向けた学術的研究を歴史、行政、コミュニティづくり、教育・啓発などの分野で蓄積し、その成果を、各種政策提言をはじめ、さまざまな形で社会に還元してきた。中でも、今回のワークショップとの関連で言うなら、1970年代後半から日本の人権運動の中でもいち早く、国際人権規約の批准促進をはじめ、国際人権基準や社会開発、人権教育、企業の社会的責任などに関する国際社会における重要な研究成果や行動計画を日本に紹介し、その具体化を呼びかける取り組みを行うなど、国際人権の視点から部落問題の解決を志向してきたことは、特筆されるべきことである。また、部落問題に関する調査結果や研究動向を海外の研究者に知らせる目的で1981年から英文ニュースが、部落解放人権研究所によって定期的に発行されてきたが、この地道な取り組みを通じて、部落問題研究者の国際的なネットワークが形成され、海外の研究者が日本において被差別部落のフィールド調査や研究を実施する際に、さまざまな支援を行い、信頼と協力の関係を構築してきたが、そのことは今回のワークショップの実現に直接つながっている。私事で恐縮だが、私は大阪大学在学中の1977年に、部落解放研究所(当時)の招きで日本にやってこられた元国連人権部長マルク・シュライバー氏の随行通訳をつとめさせていただき、それまでもっていた部落問題に対する関心を国際的な視点で広げていきたいとの思いをもつ大きなきっかけになった経験をもっており、1981年からハーバード大学教育大学院に入学して日本の同和教育と世界のマイノリティ教育の比較研究をすることにつながり、世界の多文化教育や人権教育と結びつけながら、日本の同和教育・人権教育を学校教育、社会教育、企業研修などで積極的に推進していこうとする現在の問題意識につながっている。そのような背景もあって、昨年末からはじまった今回のワークショップに向けた企画や準備作業にかかわり、2日間のワークショップでコーディネーターをつとめさせていただいた。

 皆さんもご承知のように、2年前の今頃、大阪などで同和行政をめぐる不祥事がマスコミで大きく報道され、不祥事事態は決して許されるべきことではなかったものの、他方ではこの不祥事を理由にして、部落の人々全体を否定的にみなしたり、部落問題解決に向けた取り組みのすべてを一切ストップさせようとしたり、あるいはもはや部落差別の問題は過去のものであると主張したりする動きが広がった。それは、過去半世紀近くにわたって蓄積されてきた部落問題解決に向けた行政、教育、地域社会、企業などにおける地道な取り組みを根こそぎしてしまいかねないような状況を生み出し、私も委員としてかかわった大阪府同和問題解決推進審議会は、一年間かけて部落問題解決に向けた今後の取り組みの在り方や戦略を明らかにする作業を行い、この2月25日に就任まもない橋下大阪府知事に包括的な提言をまとめ、積極的な取り組みを要請した経緯がある。

 2002年3月末に同和問題解決を目的とする特別措置法がなくなって以降、被差別部落においては生活困難層が増大し、子どもたちの低学力問題が依然深刻な形で存在し、インターネット上での露骨な部落差別事件をはじめ、2005年に実施された大阪府民の意識調査結果をみても、被差別部落に対して否定的なイメージをもつ人々の割合が増加していることがうかがわれ、部落問題の解決に向けた研究や取組は依然きわめて重要である。

 このような背景から、今回のワークショップにおいて「部落問題の今を考える」というテーマを設定した。しかも、その作業をただ部落問題を部落問題としてとらえる形で、また国内的な問題関心だけで行うのではなく、むしろ国際的に、学際的に、行おうと考えた。セッション1では、「マイノリティを作り出す社会のメカニズム」というテーマを設定した。部落差別は日本固有の背景をもつ差別だが、「ある種の血筋や職業をもつ集団を社会の周辺におき、血筋や職業を理由にして差別を正当化しようとするもの」としてその仕組みをとらえるなら、社会のマジョリティが何らかのマイノリティをつくりだし、その支配を正当化するメカニズムとしてみることができる。人種、民族、性別、障害の有無など、本来は単なる違いでしかないものが、優劣や主流・非主流というタテの関係性におかれることによって、差別の根拠とされていく。そのようなメカニズムについて、部落史研究、インドのカースト差別、アメリカの公民権運動と日本の部落解放運動の比較、といった切り口で考え、議論した。

 セッション2では、「変化するマイノリティのアイデンティティ」というテーマで話し合った。部落差別は、部落出身という出自をもつ人々に対する差別であり、主流社会が部落出身者を「部落民」として差別するがゆえに、差別を受ける立場の人々もまた自らを「部落民」というアイデンティティでとらえ、この社会的差別に対抗しようとする状況を生み出してきた。ある場合には、部落民というアイデンティティゆえに、自分や自分を生んだ親、自分のふるさとである地域を否定的にしかとらえられず、生きることに多大な困難を強いられるという状況、これがまさに差別のもっとも深刻な問題だが、を生み出し、またある場合には、部落差別という社会の不正義と戦い、人権と民主主義を実現する主体として部落出身者である自分を誇りに思うという状況をも生み出す。全国水平社宣言が「人の世に熱あれ、人間に光あれ」ということばで結んだ根底には、被差別者としての誇りが示されている。しかしこのことは同時に、部落出身者をつねに部落出身者というアイデンティティでしかとらえない、という逆の束縛をも生み出してきた。そのため、同和対策事業や部落解放運動の結果として、部落出身者の中にも多様な生き方が可能になったいま、部落出身者のアイデンティティも多様になっており、その現実をふまえて、だれもが自分らしく生きられる人権社会をつくる視点から、アイデンティティについて考えようとしたのである。奈良県における部落青年の意識調査、部落解放運動の成果により部落出身であることをカミングアウトできる支援的な環境におかれた子どもたちが高校進学によって異なる環境におかれたとき、どのようなアイデンティティ変容を経験するのかという長期にわたる観察にもとづく調査研究、部落出身者を多様性をもった存在としてとらえ、その主体形成プロセスを明らかにしようとする研究、が発表された。

 セッション3は、「マイノリティの中間層が果たす役割」をテーマにした。部落解放にむけた当事者運動として全国水平社が1922年に創設されたが、その中心になったのは、奈良県の被差別部落出身で中間階級つまりミドルクラスに属し、一定の学歴をもった青年たちであった。水平社宣言には、人間平等を志向する当時の世界水準の思想や考え方が盛り込まれているが、これは起草者がどのような社会階層と学歴を手にしていたかを物語っている。その後の部落解放運動の歴史をみても、ミドルクラス層や部落出身のインテリ層は重要な役割を果たしてきた。しかし他方では、同和対策事業や部落解放運動の進展とともに部落の中で生まれていったミドルクラス層や高学歴層が、必ずしも部落差別をなくすために積極的な役割をはたさず、部落外に移り住んでいく動きも近年顕著である。そのことを踏まえながら、部落差別の解決に向けた今後の取り組みにおいて、ミドルクラス層の在り方をどのように考えるべきか、が問題意識であった。アメリカの公民権運動において中心的役割を担ったキング牧師も、経済的豊かさと学歴をもった人物であり、そのことが白人社会と対峙する力を与えたといわれている。このセッションでは、韓国において日本の部落差別と類似した身分的差別を受けていた白丁の人々の解放にむけて1920年代に衡平社という運動組織がつくられたときにも、白丁でない人々を含むミドルクラス層が重要な役割を果たしたことが報告され、また大阪のある被差別部落において当事者の運動がミドルクラス層や大卒のインテリ層によってどのように担われてきたのか、という報告をうけた。

 セッション4では、部落女性が直面してきた部落差別と女性差別の重なりあいのありよう着目した複合差別の問題、および多文化主義の視点からみた部落問題について報告があった。これらの問題は、ワークショップの準備段階であらかじめ設定していた先の3つのテーマに加えて、その後参加者とのやりとりの中から浮かび上がってきたものであった。用意された発表内容の中には、部落女性に焦点をあてたものが計3本あり、それぞれ「水平社における女性の役割」「社会的平等とジェンダーの平等:部落女性の場合」そして「ジェンダーの視点から見た部落問題」であった。差別の複合性は、近年さまざまなマイノリティ問題にかかわって注目されており、今後部落問題についても複合差別の視点から考える必要性があることを痛感した。また、多文化主義との関係では、この10年ほどの間に、海外の研究者が日本社会を論じる際に部落問題をとりあげる傾向が広がっていることが指摘され、しかも日本社会がさまざまな他者を排除する仕組みをもってきたといういわゆる「他者性」の視点から部落問題をとらえようとする傾向がみられることが明らかにされた。今後、部落問題を普遍的な人権の視点でとらえる、あるいは多文化主義の視点でとらえることをめぐって、活発な意見交換がなされた。

 以上、概要だけを報告したが、議論の過程で感じたのは、新たな視点で掘り下げて考えるべきことがらが実にたくさん存在することであった。海外の事例と比較したり、社会学、歴史学、人類学、教育学など、異なる学問分野の問題意識を交差させたり、固有性と普遍性を対比的にとらえたりすることにより、部落問題に関する研究にいっそうの深まりと広がりをもたせることができる可能性があることを確信した。刺激的ですばらしい企画になったことを大変うれしく思っている。

ワークショップ報告

◆セッション1・4:マイノリティを作り出す社会のメカニズム / 関連するテーマ

報告者 ジョン・デイビス
 第1セッションと第4セッションを一つのテーマにまとめるならば、ジェンダー、多文化主義、マイノリティを作り出す社会的メカニズムを問う、というタイトルになるだろう。

 私がそれぞれの報告で提起された問題を少し簡単に述べさせていただき、私たちの議論のなかで挙げられた、いくつかの点についてまとめたいと思う。この議論というのは公式のプログラムに始まって、朝食、昼食、夕食にもつづいて、飲み会に行ったあとも、また夜が更けるまで続いたものである。

 まず黒川みどり教授の発表から始めたい。黒川さんの発表は未だ根強く残る部落差別に対して、非常に洞察力のある分析がなされた。部落差別を封建時代の名残として見るという傾向を彼女は拒否して、現在差別がいかに作り出されているかということをさまざまな線にそって示した。特に結婚に焦点をあてて、マジョリティ社会の一部の人たちから、部落の住民が異なる人たちとして分類されていること、いわゆる人種化されているということを示した。この発表は、さまざまな歴史的な時点において、またさまざまな方法によってマイノリティの社会がどのように再構築されていくのかについて考えさせられた。そこから明らかになったのは、今、マイノリティはどのように否定的な徴(しるし)をつけられ、不平等な扱いを受け、基本的な人間性を攻撃されているのかを丹念に調べ、それらを引き起こしている心理的な要素や社会的手段を阻止する方法を探しださなくてはならないということだ。

 黒川さんは二つ論文を出されたが、もう一つは水平社でも女性の役割について書かれたものである。その論文では、部落女性が部落差別とジェンダー差別の複合的な課題にどのように対応するかという問題に直面した際の困難を表わしている。

 黒川さんの論文で提起された問題といくつか関連しているので、ここで熊本さんの発表で挙げられた、いくつかの点を考えたい。熊本さんは、一方で複合差別を受けながら部落女性が直面してきた課題は、今も続いているということを私たちに思い起こさせた。ジェンダーの役割について意識的に考えなければ、あるいはどのように部落問題を枠付けていくかにおいて、意識的にジェンダーを考えなければ、問題やギャップが生じるということを彼女は指摘している。私たちの議論のなかで浮かび上がってきた一つのことと、またここで強調しておかなければいけないことは、ジェンダーというのは女性を意味するものではないということである。ジェンダーの分析は女性とあわせて、男性を見ることにもなる。あらゆる年代の男女が直面する問題をよく理解するために、どのようにして部落問題といわれるものを細かくみていくことができるだろうか?そうすることによって、部落コミュニティの中のそれぞれの部分に特有の課題についてよりよく理解できるだけではなく、われわれ海外の研究者たちにとっても、より具体的で複雑な部落での生活をみることができるし、世界の各地でよりニュアンスのある理解が広まるのではないかと思われる。

 そこでなされた議論の内容をまとめると、部落をよりミクロな世界とみることができるならば、部落の中にさまざまな人権の問題があるということができるだろう。すべての人権が本当に尊重され、守られるような社会的空間を作りうるために、どのようにして人権のイニシアティブを拡大していき、それを統合することができるだろうか。もちろん、これは最終的に日本だけの問題ではなくて、世界各地でひろげていかなければないだろう。しかし現実的に見て、われわれがこれをしていくためには、まだ教育的、政治的、社会的な資源を十分に開発していないし、概念的なツールもまだない。

 熊本さんの発表では、部落においてはマイノリティを作りだすような社会的メカニズムを覆し、すべての人が自由で自己実現できるような社会を作り出すことができると信じ、部落を誇りと希望の源としてみておられるが、これは私も信じている。というのも私がある大阪の部落で調査をしたときに、そこで、高齢者の人たちや障がいのある人たちを対象に、みなさんが真剣に働いているところをみて、そのプログラムは私が期待していたよりもはるかに優れたものだったことが分かったからだ。これは特に私たち海外の研究者がこの状況を説明するのに、非常に気をつけなければならないことだが、このように部落の地区でみられるような改善、あるいは状況の改善がよく政府の措置によるものとして説明されがちであるが、そうではなくて、人びとが意図的にインクルーシブにみんなを受け入れるような社会を作りだそうという意図をもって活動されてきた結果である、ということを念頭に置かなければならない。この考えは、ワークショップの前日に行われた2カ所の部落訪問でも確認できた。そこでは、特措法が終わったにもかかわらず、多くの人権のための取り組みが行われていた。

 そしてワークショップでもこの考えは認められた。このワークショップに参加できたことを部落解放・人権研究所のみなさまに感謝したい。部落解放・人権研究所の40周年を記念するにあたり、またこの40年でどのように拡大してきたかをみるにあたって、この研究所がすべての人びとの苦しみを抜本的に解決する方法を模索する、よりよい理解を得るために、人権というテーマを受け入れたのだということが分かるであろう。これは魔法の杖を振って、簡単に達成できるものではない。しかしビジョンと決意をもっていれば達成できるものと思っている。

 ミソラさんの報告は、人権と長期的にかかわることがいかに重要であるかということを提起している。三世代にわたる部落女性の調査にもとづき、彼女たちの希望を実現していくということは、道路をつくったり建物をつくるよりも、より持続的な努力が必要だということを示している。特措法は部落地域に物理的な改善をもたらした。また、自己実現の道へ多くの積み石をつくることになったが、多くの女性にとって家事の負担がその選択の幅を狭めている。ミソラ教授は、これは部落の女性に限ったことではなく、より広い社会における女性にも同じような課題があり、他の国の女性にも同じような課題があることを示した。協力やインターアクションを促進していくような方向で、どのようにしてこのような共通の課題に立ち向かっていくか、そのような新しいツールをつくっていけるか、考えていかなければならない。このようなことに取り組むことによって、部落の人びとの否定的なイメージを変えることができ、同時にジェンダーの平等を促進することができる。

 マハマリクさんの論文は、インドのカースト差別を対話に持ち込むことによって、部落問題との比較検討を可能にした。端的にいうと、彼の論文では、周縁化された集団の大部分の状況を改善することに役立った政府の介入は賞賛する必要があると述べている。制度的な差別に直面する人びとを支援するためのアファーマティブ・アクションのようなプログラムをまだ導入していない国は多くある。また導入している国のなかでも、そのプログラムはどのようにつくられ、どのように実施されているかには大きな違いがある。彼の発表では、世界各地で行われている政府プログラムを比較して検討し、その利点と弱点を検討していく必要性を示した。これには特定のコミュニティのすべての人びとに恩恵が平等にいきわたっているかという分析も含まれている。換言すれば、政府の介入策というのは、成功して問題を解決してしまったか、あるいは、無視できない隠れた副作用があったのかということである。たとえば近年みられるような部落からの転出入が多いこともあげられる。部落から裕福で学歴の高い人たちが転出し、社会のより弱い立場にある人たちが転入するということで、都市の部落コミュニティのなかに新しいニーズがおこっているのかもしれない。そこで、また黒川先生の論文で、変化をどのように見るかということに敏感にならなければならないということを念頭におく必要がある。

 ハンキンスさんの発表は、多文化主義や人権といった用語に内在する緊張を指摘した。これら用語は、我々はみな同じ人間であるということを認めれば、相互の尊重が生れるということを示している。しかし同時に私たちは、私たちが互いに違うという点を尊重するよう注意を呼びかけ、あるいはそれを尊重するよう求める。私たちが平等を求めて闘うために、人種、民族、ジェンダー、宗教、カーストなどさまざまなベースに基づいて、自分たちを組織する。しかしこのような特定の違いに基づき、平等待遇を要求するというこの緊張に私たちはどう対応していけばいいのだろうか。これは非常に難しい問題である。私たちはまだ回答するには至っていない。しかし私たちは研究者として、また社会の一員として自分たちの想像力と創造性を活用していかなければならない。それによって私たちは、インクルージョン、包括性を促進してくような新しいカテゴリーをつくりだしていくことができるかもしれない。一つの例を挙げよう。私が非常にタイトルを気に入っている本がある。それは『在日関西人』である。もうこれ以上説明することはないだろう。

 最後になったが、私自身の発表についても述べなければならない。しかしワークショップで示した考えを、私が今までまとめたなかに盛り込もうとしてきた。私の考えを入れたことで、他の参加者の方々の発表のまとめが十分でなかったかもしれないが、この発表の後半で参加者との対話を続けていただきたいと思う。

◆セッション2. 変化するマイノリティのアイデンティティ

報告者 内田 龍史
 部落のアイデンティティについては思うところが多く、自己紹介を兼ねて少しお話したい。わずか10数年前、大阪市立大学の学部生のころに部落問題を中心に議論・活動していたことを考えると、こういう場で部落のアイデンティティについて報告できることそのものが感慨深い。というのも、私自身、学部生のころから部落問題研究、特にアイデンティティをめぐる研究に取り組もうと思い、卒論は「部落民とは誰のことか」というタイトルで書き、修士論文は、部落の人たちを対象とした意識調査を総て洗い出しレビューし、そこから部落のアイデンティティの変容について考察した。一昨年博士論文を書いたが、部落の人たち、特に若者を対象にした調査から、部落の若者がどのようなアイデンティティをもっているのか、自分たちのことをどう評価しているのかについて書かせてもらった。このような経過のもと、今回、部落のアイデンティティをめぐって国際ワークショップのなかで議論できたということは、私にとって非常にうれしいことだった。

 部落問題を考える時に、「部落民」とは何かを抜きにして語ることは不可能だろう。定義がはっきりしていないのに、問題の解決を考えることは難しいからだ。部落解放運動においても、アイデンティティという言葉を用いて議論されたことがある。それは、1990年代後半から2000年にかけてであった。この時期は、特別措置法が期限切れをむかえることが確定しており、新たな運動を展望するうえで、部落解放運動はどこに向かっていこうとしているのか、部落解放の主体とはなにかを改めて考え直す時期であり、部落のアイデンティティをあらためて問いなおした時期だった。

 この時期にアイデンティティが議論されたのは当然だと考える。というのも、アイデンティティは、これまで当たり前だったものが揺らいで初めて問題になるという性質を持つからだ。ただ、当時私が不満だったのは、アイデンティティの議論はされているものの、それが理念として語られてしまい、実際に部落の人びとがどのようなアイデンティティを持っており、そのことをどのように評価しているのか、現実を踏まえていない議論が多かったからことだ。私は社会学を専門としており、社会調査のスキルを使っていろいろな現象を把握し、それを提示することを仕事にしているので、実証的なアプローチで部落問題やアイデンティティについて考えてきた。このセッションでも、実証的なアプローチで3つの有意義な報告がなされた。

 内容の報告に移ろう。まず、アメリカのデュポー大学社会学部准教授のクリストファー・ボンディさんによって「アイデンティティについて学ぶ:学校と部落の青年」が報告された。彼は、高知県のタカガワ地域(仮名)において、中学生を対象とし、部落の子どもたちのアイデンティティの発展に焦点をあてて、詳細な調査を行っている。子どもたちと一緒に学校に入り、インタビューやその場のやりとりを丁寧に把握する参与観察という質的な調査方法で行われている。タカガワは人口3000人くらいの小さな地域で、学校でも先生が部落問題について非常に熱心に取り組んでいる。学校の授業や部落の共同体の中で、部落については、日本の歴史の一部だという教え方がなされている。また、否定的ではない側面を教えたいという想いがあり、肯定的なアイデンティティを形成する取り組みがなされていた。学校においても、差別について考えることや部落出身であることがオープンになっており、それを共有しあえる環境が整っている。そうした状況をボンディさんは、コクーン(繭)と呼ぶ。タカガワは小さい町で、町全体が部落であり、地理的にもコクーンになっている。

 しかし、タカガワ中学校から高校に進学すると、状況は一転する。タカガワでは地域・学校・友人などのサポートネットワークがあるが、高校に行くと部落出身の生徒は1~3人になる。コクーンの外に出ることで、高校で悩むことになる。というのも、自分は部落民だけれども、そのことを言えない状況が生まれるのである。自分の出身を伝えても、それをはたして共有できるのかと不安を感じるのだ。

 続いて第二報告は、友永雄吾さん、杜真矢さん、矢野亮さんの共同報告を代表して、総合研究大学院大学博士課程の友永雄吾さんが「私達の本当の名前とは何か:部落差別の複合的思考のための実践」を報告された。

 まず友永雄吾さんは、草の根レベルでの部落解放運動と、オーストラリアでの先住民の運動との比較研究をされている。当日は、オーストラリアの先住民が居住するヨルタヨルタの自然豊かな地域の環境管理のための運動について、自身が撮影されたビデオを用いて報告された。

 続いて、矢野さんは同和対策事業が終了し、転換期をむかえているC地区における問題について報告された。これまでは人権文化センターを中心に、非識字者に対するさまざまな取り組みを行ってきたが、そうした機能が縮小しているなかで、非識字者に手続きの手紙を送り付ける尊厳を踏みにじる事例が報告され、今後の地域の運動、行政のあり方を問いなおすものであった。

 さいごに、杜さんが生まれ育った京都A地域の環境管理の実践が報告された。A地域は150世帯に満たない非都市部の地域である。先ほど報告した、ヨルタヨルタとの環境管理の実践交流をされている。A地域の解放運動は、「河川、森林、土壌の環境管理」を抜きに語れず、氾濫することの多かった河川の改修、水道の設置、山林解放闘争や、地域教育実践が報告された。こうした取り組みから、現実の部落解放運動の実践から、研究理論、運動理論ともに学んでいくことが強調された。特に、マイノリティのアイデンティティを運動や現地の実践がエンパワーしていくプロセスを、現実の実践から学ぶことができるのではないかという展望を開くものであった。

 また、報告名タイトル「私達の本当の名前とは何か?」に込められた含意について質問が出たが、統一的で、押し付けられてきた「部落民」表象とは何かを問い直したい。そのように表象されることによって、何を奪われ、何を獲得してきたのか、という問題意識が込められているという議論がなされた。

 第三報告は、内田が「部落出身青年のアイデンティティと社会関係」を報告した。部落解放同盟奈良県連青年部の方々が今後の運動の糧にするために、青年の調査を実施したいということで私に声がかかり、2005年度に部落出身青年のアイデンティティに関する調査を共同で行った。調査方法は面接あるいは留め置き法を用いた調査票調査であり、量的に分析した。手法は異なるものの、ボンディさんの研究とは特に共通するところが多く、ボンディさんとは今後も共同研究ができればとの話をしている。

 報告のエッセンスのみ申しあげると、部落出身だと自覚している青年に対して、部落出身であることをどう思っているのかについて調べるために、青年部の方と一緒に議論しながら調査票を作った。そして、その結果を分析したところ、彼/彼女らのアイデンティティは、「差別への不安」、部落出身であることへの「肯定的アイデンティティ」、生まれたところが違っても部落出身であれば分かり合えるというような「共通感情」の3つのパターンにまとめられることが分かった。また、差別への不安が大きいこと、差別の現状認識も強く、特に結婚差別は全体の7割以上が「よくある」「たまにある」と認識していた。被差別体験においても、自身が差別を受けた、あるいは差別と出会ったことがある層は3割を超えている。このような差別の現状認識は、「差別への不安」と強く結びついている。さらに、解放運動は自分とは関係ないわけではなく、そのアイデンティティと強く結びついていること、肯定的なアイデンティティ評価に密接に関連しているものとして、親・友人など、部落問題について語り合える人が周囲に存在することがあげられる。この調査の4分の3の対象者は、現在は運動に参加していない青年に対して行われているのだが、運動に参加している友人の存在は、肯定的なアイデンティティと密接に関連していることも明らかになった。このような調査結果から、部落・部落外問わず、部落問題について積極的に話をすることできるような人びとの育成が求められることを指摘した。

 ここで、質疑などの時間に交わされた議論を2点にまとめておきたい。一つは、部落における肯定的アイデンティティとは何か、である。部落のアイデンティティをめぐって、pride・courageという言葉が使われているが、何を持って肯定的とするのかという論点があった。また、カムアウトは強いられるべきなのかどうかという意見も述べられており、これらについては今後も慎重な議論が求められる。二つめに、アイデンティティとステレオタイプとの関係について、があげられる。すなわち、アイデンティティを一面的にとらえてしまうことによって、新たなステレオタイプ化を招いてしまうのではないかという懸念が示された。そうならないために、アイデンティティは確固としたものとしてあるのではなく、アイデンティフィケーションとして、プロセスを含むものであることに注意しておく必要があることが指摘された。そのことによって、一面的にとらえ、単純化した否定的なアイデンティティ形成に歯止めをかけることになるのではないか。

 最後に、アイデンティティ研究がなぜ必要なのかについてお話したい。アイデンティティをキーワードにすると、集団的に形成される社会的アイデンティティはマイノリティの動員・集合行動にとってどのような意味をもつのか、部落出身というアイデンティティは社会からどのように評価されている/されてきたのか、そしてそれらは日本社会の構造変動といかに関連しているのか、など、さまざまな切り口からの研究が可能となる。さらに、エスニシティ研究、人種、ジェンダー、階級がワークショップでの主なキーワードとなっていたが、これらとも重なり合う部落のアイデンティティをめぐる研究は、現状では未着手であるところも多い。本報告が、今後の部落問題研究の可能性を切り開く糧となれば幸いである。

◆セッション3 マイノリティの中間層が果たす役割

報告者 李 嘉永

 私が報告するのは、「第三セッション マイノリティの中間層が果たす役割」である。ここでは金仲燮先生と、私の二つの報告についてお話しする。

 今日、部落解放運動のありようが問われているが、そうした変化をもたらすためには、社会のさまざまな変化や、社会運動の現状、さらには自らが立脚している同和地区の現状を見つめ続け、そして考え続けることが必要になるだろう。そのためには中間層が、いま改めてとても重要な役割を担う必要性があるのではないか。この第三セッションのテーマは、社会運動の組織論やリーダーシップ論という意味で、非常に興味深い内容であるとともに、現在の部落解放運動の実践をより豊かなものにしていくうえでも極めて重要なテーマであると思われる。

 このセッションでは、2つの報告が行われた。金仲燮先生は、韓国の白丁(ペクチョン)と呼ばれる人たちに対する、部落差別に類似した差別に対して、その解放のために立ち上がった衡平運動や衡平社に参加した中間層の果たした役割について論及した。私は、普段活動しているA支部の状況を発表した。

 まず、金仲燮先生は、衡平運動の歴史を振り返りながら、その運動のなかで果たしてきたミドルクラスの役割について紹介した。この衡平運動を推進した衡平社は、日本の水平社が創立された次の年、1923年に創設されたが、当時は日本と同様、白丁に対する非常に厳しい身分差別が存在していた。不公正な慣習が日常的に向けられていた例として、韓国語の敬語の体系が挙げられる。高齢者は通常尊敬の対象であるが、白丁の高齢者に対しては、非白丁の子どもたちすら見下した言葉を使うという慣行が存在していた。

 また解放令以後の日本の状況と同様、食肉業や皮革業などに一般的な商業資本が参入し、白丁の人たちが貧困化した。その一方で、白丁のなかにも、経済的な成功をおさめる人たちもいた。こうした白丁の人たちの子弟が、学校に行き、そして高い学問を修めることによって、一定の知的階層が生まれた。そうした状況のなかで1923年衡平社が設立された。13年間という非常に短い間活動であったが、韓国社会においては非常に輝かしい歴史を持っている。日本統治下での最も長く継続した社会活動だとされており、平等思想の普及や、差別的な階級の廃止、白丁の社会的な地位の向上に非常に熱心に取り組んだのである。

 そうした衡平社は創設当初から、朝鮮半島全土に急速にその勢力を広げていく。設立当初は80支部に過ぎなかったのが、10年ほど経過するとその数が倍になり、またその運動の中にも下部組織、その運動家をガードするような正衛団と呼ばれるグループや、青年同盟、学生会といった階層組織を抱えるようになった。地理的にも数的にも、そして質的にも拡大していくが、このような拡がりを可能にした要因について金先生は4点指摘した。

 その1つの要因は、1923年当時において、すでにさまざまな平等主義的思想が普及していたことが挙げられる。韓国の伝統的な思想のひとつに、東学思想があるが、これは通常の儒教的な思想に比べてより平等主義的な考え方であった。また、西欧の平等主義的思想のひとつ、すなわちキリスト教の普及もその要因のひとつであった。さらに、そうした平等主義思想が韓国全土に広がる契機として、いわゆる3.1独立運動がある。その運動が全国に拡がる中で、さまざまな社会運動と結びつき、全国に平等主義的な思想を広めた。そうした思想状況に呼応して、白丁の人たちも立ち上がったのである。

 第二に、一定の経済的な発展が挙げられる。白丁の中にも富裕層が生まれ、そしてそのなかから、白丁のコミュニティを離れて就業する人たちが出現した。また、その子弟が学校に就学し、高学歴層が生まれた。この高学歴層が、当時の開明的な思想に触れて、白丁の困難な状況を変革するための条件が、知的にも、そして経済的にも作り出されたのである。

 第三に、コミュニティ内部の連帯の存在が挙げられる。その背景は幾つかあるが、その1つには血縁関係がある。韓国の身分制度において、通婚は厳に戒められていたので、血縁的なつながりが強固であった。職業的な連帯も挙げられよう。賎しいとされた職業に就いていたということもあって、職業上のむすびつきが存在していたのである。こうした連帯を基礎にして、衡平社運動が拡がったのではないかという指摘である。

 四点目が、リーダーシップの存在である。金先生はこの要因を、最も重要視されている。このリーダーシップには大きく分けて3つのタイプがある。第一に、白丁でない人たちがこの衡平運動に非常に活発に参画した。こうした白丁でない人たちが、白丁に対する差別は不当であると訴えることによって、白丁と非白丁との一定の架け橋としての役割を果たしたのである。当然、白丁の中にも衡平運動のリーダーとして活躍した人々がいるが、これは2つのタイプに分けられる。1つめは経済的な富裕層、中産階級である。経済的な成功を収めた人たちが、社会的な地位の向上のために、運動の必要性を感じ、衡平運動を支援したのである。今ひとつのタイプが高学歴層である。先述したように、平等思想、または当時の開明的な社会主義思想などを積極的に受け入れ、運動に活かしたのである。この3つのリーダーシップが衡平運動を推進したが、そうした背景の違いから、衡平社もまた、運動方針等の緊張を含んでいた。しかし、かえってその背景の違いそれ自体が多様な運動の方向性を可能にしたとも言える。その結果、衡平運動が韓国社会において、平等思想の普及や差別的な慣習の撤廃、共同体主義的な結びつき、社会的な地位の向上をはかることを可能にしたのである。

 金先生の報告は、韓国における衡平運動の歴史を振り返りながら、差別撤廃運動のリーダーシップを類型化し、リーダーシップ論の理論的な枠組みを整理したものであったと考えることができる。

 このような枠組みに照らしてみると、部落解放運動におけるミドルクラスの役割はどのように捉えることができるだろうか。第二報告では、部落解放運動におけるミドルクラスの役割を検討する素材として、A地区の運動史を概観した。

 金先生は、経済的富裕層と高学歴層の2つのタイプのリーダーシップがあると指摘されたが、これと全く同じ状況がA支部の創設当初に存在していた。

 支部創設の5年前の1954年に、子ども会(当時A少年会)が結成される。この子ども会を実際に運営したのは、大賀正行さんや、北井浩一さんといった若者たちである。当時高校生であり、その後大学に進学し、経済的な困難を抱えながらも高学歴を達成し、インテリゲンツィアとなった人びとである。他方で、この子ども会をしないかと、そのステージを提供したのは、当時のA地区の経済的富裕層であった。終戦直後、大阪市では、同和対策事業が若干ではあるにせよ実施されており、その受け皿のために市同促(「大阪市同和事業促進協議会」)が結成されていた。この市同促A支部の役員を経済的富裕層が努めており、その事業の一環として子ども会活動が実施されたのである。この子ども会を通じて、北井さんや大賀さんが中心となって、部落の低学歴問題や不就学児童の学習支援などに取り組んでいたのである。

 ただ、両者には微妙な方向性の違いがあった。経済的富裕層は、地区内の改善など積極的であったが、社会変革的な考え方、すなわち部落の状況は差別に起因するものであるから、差別を撤廃することでこの苦境を変えていく必要があるという考え方に、必ずしも共鳴したわけではない。当時地区内では、差別問題に関していわゆる「寝た子を起こすな」という考え方が非常に強く、高学歴層の人びとの、部落差別撤廃に取り組むべきだという意見には、一定の距離を置いていたのである。

 しかし、様々な差別事件に対する取り組みを契機として、両者の溝が埋まってゆく。その例として、町名変更差別事件が挙げられる。Aとその周辺の地域が同じ町名に変えるという方向性が示された際に、A地区近隣の人たちが反対運動をした。というのもAと同じ町名になると、部落と間違われて差別されるかもしれないということを懸念したためである。自分たちが努力をして社会的に上昇すれば、差別を受けることはないという考え方に対して、いくらがんばってもAというところに住んでいる限りは、差別を受けるのだということをまざまざと示した事例であった。この事件やその他の事件に取り組む中で、両者の距離感が縮まったと思われる。

 とはいえ、その後A支部は1959年に結成されるが、結成当初は経済的な富裕層は参画していない。そこにはやはり、経済的な中間層の躊躇がみうけられた。というのも、部落解放運動が社会変革的な運動であり、社会主義運動と連携したものであるということから、一定の距離を置いていたとのことである。この状況に変化をもたらしたのが、同和対策事業である。つまり、部落における貧困問題、低学力問題あるいは劣悪な環境問題に対する取り組みと並行して、いわゆる部落における産業振興が推進された。その受け皿として各地区に企業者組合が結成される。これが地区内における経済的富裕層を部落解放運動に取りこむ契機となったのである。このことは、地区総体として部落解放運動を進めるという意味では非常に重要なポイントであった。

 また、この同和対策事業によって、公務員層や、高学歴を達成した新中間層の人たちが生まれ、こうした人たちが地域の部落解放運動に参画し、リーダーとなり、地区内のオルガナイザーとして活躍することになった。

 ただし、この同和対策事業は思わぬ副産物を生んでいる。つまり、一定の経済的な安定を勝ち取った人たちが地区外に流出しているのである。相対的に若い人たちが、公営住宅では手狭になったということなどから、外に出る。そのため、地区内は高齢化し、支部員の減少にもつながっている。

 またニーズの多様化もみられる。例えば教育に関して言えば、A支部は、教育活動に特に力を入れて取り組んできたが、その教育活動に積極的にかかわる人たちと、さほど熱心ではない人たちと層が分かれており、教育に対するニーズが多様化していると思われる。

 このような状況をどう変えていくことができるか、部落解放運動を応援してくれる人をどう増やしていけるのか、そのためには部落解放運動をどう工夫していく必要があるのか。そうした運動の再構築が、まさに喫緊の課題になっている。その際に、支部執行部のリーダーシップ、特に知的なミドルクラスの人たちの役割は、以前にもまして重要なものとなっているといえよう。