私が報告するのは、「第三セッション マイノリティの中間層が果たす役割」である。ここでは金仲燮先生と、私の二つの報告についてお話しする。 今日、部落解放運動のありようが問われているが、そうした変化をもたらすためには、社会のさまざまな変化や、社会運動の現状、さらには自らが立脚している同和地区の現状を見つめ続け、そして考え続けることが必要になるだろう。そのためには中間層が、いま改めてとても重要な役割を担う必要性があるのではないか。この第三セッションのテーマは、社会運動の組織論やリーダーシップ論という意味で、非常に興味深い内容であるとともに、現在の部落解放運動の実践をより豊かなものにしていくうえでも極めて重要なテーマであると思われる。
このセッションでは、2つの報告が行われた。金仲燮先生は、韓国の白丁(ペクチョン)と呼ばれる人たちに対する、部落差別に類似した差別に対して、その解放のために立ち上がった衡平運動や衡平社に参加した中間層の果たした役割について論及した。私は、普段活動しているA支部の状況を発表した。
まず、金仲燮先生は、衡平運動の歴史を振り返りながら、その運動のなかで果たしてきたミドルクラスの役割について紹介した。この衡平運動を推進した衡平社は、日本の水平社が創立された次の年、1923年に創設されたが、当時は日本と同様、白丁に対する非常に厳しい身分差別が存在していた。不公正な慣習が日常的に向けられていた例として、韓国語の敬語の体系が挙げられる。高齢者は通常尊敬の対象であるが、白丁の高齢者に対しては、非白丁の子どもたちすら見下した言葉を使うという慣行が存在していた。
また解放令以後の日本の状況と同様、食肉業や皮革業などに一般的な商業資本が参入し、白丁の人たちが貧困化した。その一方で、白丁のなかにも、経済的な成功をおさめる人たちもいた。こうした白丁の人たちの子弟が、学校に行き、そして高い学問を修めることによって、一定の知的階層が生まれた。そうした状況のなかで1923年衡平社が設立された。13年間という非常に短い間活動であったが、韓国社会においては非常に輝かしい歴史を持っている。日本統治下での最も長く継続した社会活動だとされており、平等思想の普及や、差別的な階級の廃止、白丁の社会的な地位の向上に非常に熱心に取り組んだのである。
そうした衡平社は創設当初から、朝鮮半島全土に急速にその勢力を広げていく。設立当初は80支部に過ぎなかったのが、10年ほど経過するとその数が倍になり、またその運動の中にも下部組織、その運動家をガードするような正衛団と呼ばれるグループや、青年同盟、学生会といった階層組織を抱えるようになった。地理的にも数的にも、そして質的にも拡大していくが、このような拡がりを可能にした要因について金先生は4点指摘した。
その1つの要因は、1923年当時において、すでにさまざまな平等主義的思想が普及していたことが挙げられる。韓国の伝統的な思想のひとつに、東学思想があるが、これは通常の儒教的な思想に比べてより平等主義的な考え方であった。また、西欧の平等主義的思想のひとつ、すなわちキリスト教の普及もその要因のひとつであった。さらに、そうした平等主義思想が韓国全土に広がる契機として、いわゆる3.1独立運動がある。その運動が全国に拡がる中で、さまざまな社会運動と結びつき、全国に平等主義的な思想を広めた。そうした思想状況に呼応して、白丁の人たちも立ち上がったのである。
第二に、一定の経済的な発展が挙げられる。白丁の中にも富裕層が生まれ、そしてそのなかから、白丁のコミュニティを離れて就業する人たちが出現した。また、その子弟が学校に就学し、高学歴層が生まれた。この高学歴層が、当時の開明的な思想に触れて、白丁の困難な状況を変革するための条件が、知的にも、そして経済的にも作り出されたのである。
第三に、コミュニティ内部の連帯の存在が挙げられる。その背景は幾つかあるが、その1つには血縁関係がある。韓国の身分制度において、通婚は厳に戒められていたので、血縁的なつながりが強固であった。職業的な連帯も挙げられよう。賎しいとされた職業に就いていたということもあって、職業上のむすびつきが存在していたのである。こうした連帯を基礎にして、衡平社運動が拡がったのではないかという指摘である。
四点目が、リーダーシップの存在である。金先生はこの要因を、最も重要視されている。このリーダーシップには大きく分けて3つのタイプがある。第一に、白丁でない人たちがこの衡平運動に非常に活発に参画した。こうした白丁でない人たちが、白丁に対する差別は不当であると訴えることによって、白丁と非白丁との一定の架け橋としての役割を果たしたのである。当然、白丁の中にも衡平運動のリーダーとして活躍した人々がいるが、これは2つのタイプに分けられる。1つめは経済的な富裕層、中産階級である。経済的な成功を収めた人たちが、社会的な地位の向上のために、運動の必要性を感じ、衡平運動を支援したのである。今ひとつのタイプが高学歴層である。先述したように、平等思想、または当時の開明的な社会主義思想などを積極的に受け入れ、運動に活かしたのである。この3つのリーダーシップが衡平運動を推進したが、そうした背景の違いから、衡平社もまた、運動方針等の緊張を含んでいた。しかし、かえってその背景の違いそれ自体が多様な運動の方向性を可能にしたとも言える。その結果、衡平運動が韓国社会において、平等思想の普及や差別的な慣習の撤廃、共同体主義的な結びつき、社会的な地位の向上をはかることを可能にしたのである。
金先生の報告は、韓国における衡平運動の歴史を振り返りながら、差別撤廃運動のリーダーシップを類型化し、リーダーシップ論の理論的な枠組みを整理したものであったと考えることができる。
このような枠組みに照らしてみると、部落解放運動におけるミドルクラスの役割はどのように捉えることができるだろうか。第二報告では、部落解放運動におけるミドルクラスの役割を検討する素材として、A地区の運動史を概観した。
金先生は、経済的富裕層と高学歴層の2つのタイプのリーダーシップがあると指摘されたが、これと全く同じ状況がA支部の創設当初に存在していた。
支部創設の5年前の1954年に、子ども会(当時A少年会)が結成される。この子ども会を実際に運営したのは、大賀正行さんや、北井浩一さんといった若者たちである。当時高校生であり、その後大学に進学し、経済的な困難を抱えながらも高学歴を達成し、インテリゲンツィアとなった人びとである。他方で、この子ども会をしないかと、そのステージを提供したのは、当時のA地区の経済的富裕層であった。終戦直後、大阪市では、同和対策事業が若干ではあるにせよ実施されており、その受け皿のために市同促(「大阪市同和事業促進協議会」)が結成されていた。この市同促A支部の役員を経済的富裕層が努めており、その事業の一環として子ども会活動が実施されたのである。この子ども会を通じて、北井さんや大賀さんが中心となって、部落の低学歴問題や不就学児童の学習支援などに取り組んでいたのである。
ただ、両者には微妙な方向性の違いがあった。経済的富裕層は、地区内の改善など積極的であったが、社会変革的な考え方、すなわち部落の状況は差別に起因するものであるから、差別を撤廃することでこの苦境を変えていく必要があるという考え方に、必ずしも共鳴したわけではない。当時地区内では、差別問題に関していわゆる「寝た子を起こすな」という考え方が非常に強く、高学歴層の人びとの、部落差別撤廃に取り組むべきだという意見には、一定の距離を置いていたのである。
しかし、様々な差別事件に対する取り組みを契機として、両者の溝が埋まってゆく。その例として、町名変更差別事件が挙げられる。Aとその周辺の地域が同じ町名に変えるという方向性が示された際に、A地区近隣の人たちが反対運動をした。というのもAと同じ町名になると、部落と間違われて差別されるかもしれないということを懸念したためである。自分たちが努力をして社会的に上昇すれば、差別を受けることはないという考え方に対して、いくらがんばってもAというところに住んでいる限りは、差別を受けるのだということをまざまざと示した事例であった。この事件やその他の事件に取り組む中で、両者の距離感が縮まったと思われる。
とはいえ、その後A支部は1959年に結成されるが、結成当初は経済的な富裕層は参画していない。そこにはやはり、経済的な中間層の躊躇がみうけられた。というのも、部落解放運動が社会変革的な運動であり、社会主義運動と連携したものであるということから、一定の距離を置いていたとのことである。この状況に変化をもたらしたのが、同和対策事業である。つまり、部落における貧困問題、低学力問題あるいは劣悪な環境問題に対する取り組みと並行して、いわゆる部落における産業振興が推進された。その受け皿として各地区に企業者組合が結成される。これが地区内における経済的富裕層を部落解放運動に取りこむ契機となったのである。このことは、地区総体として部落解放運動を進めるという意味では非常に重要なポイントであった。
また、この同和対策事業によって、公務員層や、高学歴を達成した新中間層の人たちが生まれ、こうした人たちが地域の部落解放運動に参画し、リーダーとなり、地区内のオルガナイザーとして活躍することになった。
ただし、この同和対策事業は思わぬ副産物を生んでいる。つまり、一定の経済的な安定を勝ち取った人たちが地区外に流出しているのである。相対的に若い人たちが、公営住宅では手狭になったということなどから、外に出る。そのため、地区内は高齢化し、支部員の減少にもつながっている。
またニーズの多様化もみられる。例えば教育に関して言えば、A支部は、教育活動に特に力を入れて取り組んできたが、その教育活動に積極的にかかわる人たちと、さほど熱心ではない人たちと層が分かれており、教育に対するニーズが多様化していると思われる。
このような状況をどう変えていくことができるか、部落解放運動を応援してくれる人をどう増やしていけるのか、そのためには部落解放運動をどう工夫していく必要があるのか。そうした運動の再構築が、まさに喫緊の課題になっている。その際に、支部執行部のリーダーシップ、特に知的なミドルクラスの人たちの役割は、以前にもまして重要なものとなっているといえよう。
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