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2008.05.07
書籍・ビデオ案内
 
Human Rights 2008年2月号(NO.239)
自らを表現すること
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ジェンダーで考える教育の現在(いま)

第14回 “在日”からみた教育とジェンダー
-私の個人的経験を中心に

山下英愛(やました・よんえ 立命館大学非常勤講師)

“在日”の多様性

 一口に“在日”と言っても、その内容は多様である。「もはや“在日”というだけで代表される立場はない」とすら言えるだろう。私自身、自分のことを“在日”と表現するだけでは、相手に何も正確に伝わらないのではないか、むしろ固定したイメージを持たれてしまうのではないかと不安になる。それで、最近は自ら“在日”だと名乗ることはほとんどない。私の父は、3歳の時(1930年頃)に家族に連れられて朝鮮から日本に渡ってきた在日一世である。父は日本人女性(私の母)との間に2人の子どもをもうけたが、私が小学生の頃まで法律婚関係ではなかったため、兄と私は母の戸籍に入り、生まれながらにして日本国籍を持っている。ここでは“在日”を“在日韓国(朝鮮)人”に限るとしても、私のようなケースで日本国籍をもっている人もいれば、1985年の国籍法改正前にそうだったように、法律婚の下で生まれて国籍が朝鮮か韓国になった人もいる。もちろん後者でも“帰化”して日本国籍を所持している場合も多い。

 実はこの“在日”にもジェンダー差別問題がある。国籍法改正後もそうであるが、一般に子どもは父親の国籍や姓(氏)を名乗るのが普通とされている社会(日本も朝鮮、韓国も)なので、母親の国籍や出身は重んじられない。母親が韓国(朝鮮)人で父親が日本人の場合、その子どもは日本国籍をもち日本名を持つため、その“朝鮮的”な要素は統計的にも表面的にも不可視化される。とりわけ今日のように“在日”の三世、四世の時代には、内容は一層複雑である。

 大学で講義をしていると、「実は私も親が韓国人なんです」と言ってくる“日本人”学生が何人かいる。いかにも朝鮮姓を日本式にしたという姓名ではない、まったく“日本的”な姓名の場合も多い。そのような人びとを“在日○世”と呼ぶこともできるし、本人の意思次第でもあるが、むしろ“日本人”の多様性として認識してゆくこともあり得ると思う。

 私があえて自分を“在日”だと言わないのもそのような理由からである。私の名前は戸籍の漢字表記はずっと同じだが、パスポート上の読み方は1998年の米国滞在中に“ヤマシタ・エイアイ”から“ヤマシタ・ヨンエ”に変えた。名前の部分は“ヨンエ”という朝鮮式だが、日本の名前ではないということで、住民票やパスポートなどのカナが“エイアイ”になっていたのだ。それを変更するのに時間がかかったのである。

 これは余談になるが、とにかく、名前の読みカナを希望通りに変えることができたものの、日本社会ではなかなか受け入れてもらえない。たとえば、2000年に日本に再度定住するようになり、住民票を作成したときも、最初から“ヨシエ”に間違えられた。それ以後、今日に至るまで、銀行、病院などで名前を呼ばれる際にはほとんどの場合“ヨシエ”と呼ばれ続けている。恐らく姓が朝鮮式であれば、名前も“ヨンエ”と素直に読んでくれるのだろうが、姓が“ヤマシタ”なので、名前も“日本的”な“ヨシエ”をすぐに思い浮かべてしまうのだろう。銀行のカードなどを作ると、必ずと言っていいほど間違って刻まれている。ローマ字表記を"Yeong-ae"と書いて申請したのに、わざわざ"Yoshie"に改まっている場合もあった。

 「勝手に名前を変えないでくれ!」と怒鳴ってやりたい気持ちを抑えつつ、じっとがまんするのはわけがある。私は“日本人”にもこんな名前があるということを少しでも多くの“日本人”に知ってもらいたいと思うからだ。最近、「コリア系日本人」という呼称もあるようだが、“日本人”の概念を多様化するのが良いのではないかと思っている。そうすれば、男性中心的に形成されてきた“国民”や“民族”によって見えにくくされてきた存在(女性など)が、可視化される可能性が出てくるからだ(詳しくは『グローバル化を読み解く88のキーワード』平凡社の拙稿「在日朝鮮人・韓国人」)。

朝鮮学校の教育とジェンダー

 現在の朝鮮学校は、私が通っていた60年代後半から70年代初期とはまったく様変わりしたらしい。だから、ここに書く私の体験した朝鮮学校は、あくまでもかつての姿であることをことわっておきたい。

 父が朝鮮総連の活動家だったため、私は兄とともに東京にある朝鮮学校に通った。母も“朝鮮人になり切ろう”として朝鮮語を勉強し、朝鮮名を名乗り、総連の女性同盟の支部で活動した。日本のきものをほどいて朝鮮の衣装であるチマ・チョゴリに縫いかえ、総連の大会に着ていった。私は小学校六年生になるまで、「我が家は誇らしい朝鮮人一家だ」と思い込んでいた。

 私が体験した教育は、何よりも“金日成首領様”の革命活動の歴史と主体思想、“わが祖国”である“社会主義国”北朝鮮の発展ぶりについて学ぶものであった。「“敵国”日本にいながらも、こうして何不自由なく教育を受けることができるのは、金日成首領様の温かな配慮のおかげである」と何度も聞かされた。生真面目だった私は、その教えをスポンジのように吸収して育った。そのせいか、後に日本の学校に移ってから、アイデンティティの迷いはあったものの、日本社会の差別に対して萎縮するようなことはなかった。また朝鮮語を自然に身につけたおかげで、後に韓国に留学してからも言葉に困らず、その文化にすぐ溶け込むことができた。この二点は朝鮮学校に特に感謝したいと思っている。

 だが、朝鮮学校での生活は、今思えば男女差別がかなり徹底したものであった。クラスの級長と副級長は毎学期の初めに学校側から任命されるのだが、級長は必ず男の子で、女の子は副級長だった。名簿も男子が先だった。四年生からは少年団となり、分団に所属するが、ここでも分団委員長は男子、副委員長は女子だった。また、クラブ活動の器楽合奏部では、女子は指揮者にしてもらえなかった。通学服は私服だったが、女子はほとんどスカートをはいていた。私は小さい頃からズボンを好み、男の子と一緒に遊んだが、学校にはスカートをはいて通うのが当然との雰囲気があった。いつだったか、大阪から転校してきた女の子がジーパンをはいてきたのを見て、ひどくショックを受けたのを覚えている。女子がズボンをはいてきたのが破格であったのと、“米帝の象徴”であるジーパンを堂々とはいていることが信じられなかったのである。その子は一年ほどで学校をやめてしまったが。

 教育内容もジェンダー差別に満ちたものだった。そもそも“金日成首領様”にはいつも“私たちの父”をくっつけて呼称した。金日成の父母のこともそれぞれ学んだが、特に母親のことは“私たちの母”という修飾語をつけて呼んだものである。教科書に出てきた女性像は、それでも勇敢な抗日パルチザンや、労働現場で働く女性像が多かった。だが、日常的に接する女子教員たちはチマ・チョゴリを着ていたし、行事があると子どもたちも女子だけチマ・チョゴリを着た。中学や高校の女子生徒たちも制服としてチマ・チョゴリを着ているので、これは“民族服”としての意味以上に“女性であること”を意識させるものだった。常に民族を象徴するのは女性だったのだ。男子学生に民族衣装のパジ・チョゴリを着せるという発想は決して出てこなかったのである。

 日本でたびたび朝鮮学校に通う女子生徒のチマ・チョゴリを引き裂く悪辣な事件が起きるが、そのたびに私は二重の怒りを覚えるのだ。一つはチマ・チョゴリの女子生徒をターゲットにして悪事を働く人間に対する怒りだが、もう一つは、チマ・チョゴリという“民族衣装”を女子生徒にだけ強要する学校側に対してである。

 北朝鮮からの来賓を出迎えに羽田空港に行き、花束を渡す役割をしたことがあるが、たいていの場合、花束の贈呈は女子生徒の役目だった。昨年(2007年)10月に南北首脳会談が開かれたが、その時も同じだった。韓国の盧武鉉大統領夫妻が板門店で北側に入った時も、やはりチマ・チョゴリ姿の若い女性たちが花束を贈呈した。ピョンヤンでの出迎え時も、同様の光景が見られた。この点は昔も今も変わっていないようだ。

 高学年になって、教員からしばしば髪を長くのばすようにいわれて当惑したことがある。私は生まれてからこのかた、ずっと短髪の方が好きだった。だから、学校で「女の子らしく髪を伸ばしたらどう?」と男性教員に言われて、「困ったな」と内心思ったのだった。

 元日には近くに住む父の親戚の家に行くのが恒例行事だったが、挨拶の順番は常に男性の年長者が先で、女性はいつも後だった。正月料理をつくるのはもっぱら女性たちの役割で、母は前日から料理を手伝った。当日も、男性はみな応接間で話したり飲食したが、女性たちは台所で働き、それが終わらないと応接間で同席することはなかった。家でも父親は家事など一切せず、それが問題とは考えたこともなかったようだった。家事育児は母親に任せきりだった。数年前、父に「なぜ私を幼稚園に通わせてくれなかったのか」と尋ねたことがあった。兄だけ通って、私は通わせてもらえなかったので、心の片隅に恨みが残っていた。それで、一度は問いただしてみようと思っていたのだった。ところが、父の返事を聞いて唖然とした。父の返事は「お前、幼稚園に行ってないのか?」だったのだ。父はそれほど、家事育児には無関心だったのだ。

日本学校で

 私が小学校6年の時に、父が政治的な問題で総連を辞めたため、中学校から日本の公立学校に通うようになった。その時、初めて母が日本人であること、私も日本国籍を持っていることなどを知った。日本学校では私が6年間培った“朝鮮的なるもの”は何一つ継承発展させることはできなかった。当初はクラスメートや先生に朝鮮語が話せるなどと自慢したものだが、それが決して歓迎されるものではないということを雰囲気で読み取り、口を閉ざすようになった。私は“日本人”の中に紛れ、私の中の“朝鮮”は次第に遠くなっていった。

 日本学校でも中学・高校とも女子にはスカートの制服しかなく、女子は家庭科、男子は図工で、別々だった。クラス委員や学生会長などは選挙で選ばれたが、女子が長に選ばれることはなかった。出席簿も男が先で女が後だった。

 私は自分に押し付けられる“女らしさ”がとにかく嫌で、制服の代わりに運動着のジャージをはいて通学したり、家庭科はわざとサボって遊びに行ったりしたが、長続きはしなかった。学校での教育は画一的で日本中心的だった。

 自分が女だということで不満がたまっていた私は、高校2年の頃、たまたま読んだ新聞の連載記事「女の子はつくられる」(佐藤洋子記者『朝日新聞』、後に同名の本となった)によって開眼させられた。その時は気がつかなかったが、その頃から始まった私のナショナル・アイデンティティの悩みは、このジェンダー差別と、日本学校と朝鮮学校での教育の双方に起因していたのだと思う。朝鮮学校での教育は、いわゆる“朝鮮人”(その当時は、「共和国公民」と言った)としての、明確な“民族教育”であった。また、日本学校での教育も、明らかに“日本人”あるいは“日本国民”を養成しようとする民族教育だったのだ。そして、どちらも男女差別性を帯びていた。そのために、自分は一体“何人(なにじん)なのか”と悩むようになってしまったのである。言い方を変えれば「朝鮮か日本か」、「男か女か」の“二者択一”を迫るという考え方に圧迫され続けていたのだった。

子どもの学校選び

 私は10年間韓国で暮らした後、米国で2年間客員研究員生活をして日本に戻った。米国にいる間に子どもを出産したので、子どもが小さい頃から教育問題は大きな悩みの一つになった。子どもの父親である私のパートナーは日本国籍をもつ“日本人”で、私も父親が韓国籍の在日一世というだけで、日本国籍をもつ“日本人”である。だが、子どもは出生地主義をとる米国で生まれたので、米国国籍と日本国籍を生まれながらにしてもつことになった。

 韓国では子どもに米国国籍を与えるために、出産のためにわざわざ渡米する“遠征出産”がはやりである。その理由はいろいろあるが、男子の場合、韓国籍を放棄すれば徴兵を免れることができるということもある。私の場合、意識はしていなかったが、日本や韓国からは離れたいという潜在意識があったのかも知れない。

 私たちが京都で暮らしている時、子どもが就学年齢に達した。子どもには、朝鮮学校に通わせて朝鮮語を身につけさせてもよいのではないか、とも思っていた。それで就学年齢に達する前に、偶然、朝鮮学校の校長先生と会った折に、様子をうかがった。私が知りたかったのは、「子どもの名前(私と同じヤマシタ姓である)のままで学校に通えるのか」、ということだった。案の定、返事は「ノー」だった。やはり、私がそうしたように、朝鮮姓で通わせないといけないとのことだった。「一部の中華学校のように日本姓でも入学させたらどうか」と言ってみたが、学校の方針は簡単には変わらず、どうしようもなかった。

 もう一つの選択肢は近くの公立学校に通わせることだった。それで、とりあえず、学校に行って校長先生と会ってみた。「日の丸」「君が代」が気になっていたのだが、「気持ちよく歌ってほしい」との返事だった。やはり「日本国民」養成のための学校である。ここも選択肢から外れた。

 結局、残された選択はインターナショナルスクールに入れることだった。学費が高い上に、京都では各種学校にもなっていなかった。廃校になった小学校の校舎を使っていて、施設も劣悪だった。それでも、子どもは毎日楽しく通学した。肌の色も、国籍も、生まれも様々な子どもたちと共に学ぶことで、少なくとも“国民”教育からは免れることができる。韓国から来た子どもやいわゆる“在日韓国(朝鮮)人”の子どもたちも意外と多かった。現在通っている大阪インターナショナルスクールでは、課外授業で“コリアン”もあるので、子どもに学ばせている。

人類の後継者としての教育を

 私が体験した朝鮮学校と日本学校は、両方とも“国民(民族)”教育をさずけることに何の疑いももっていなかった。その中に、双方の家父長制秩序が根付いていて、ジェンダー差別が歴然と存在していた。子どもにそのような教育を受けさせたくないという思いで第三の道を選んだが、これで問題が解決したということではもちろんない。今年は世界人権宣言60周年にあたるという。この機に、日本や韓国、朝鮮の教育制度や内容が少しでも「ひと」としての教育に近づいて欲しいと願うばかりである。