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2008.07.08
書籍・ビデオ案内
 
Human Rights 2008年7月号(NO.244)
人権理事会で議論された日本の人権状況
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シリーズ いっしょに動こう、語りあおう  第9回

「進路保障」という古くて新しい問題

笹倉千佳弘(ささくら・ちかひろ 就実短期大学)

1 子どもたちの現状

 就労家庭が多く、長時間保育が増える。夜の就労もある。派遣や長時間パートの就労が多い。そのためか、生活リズムが不規則な家庭が存在する。9時半登所ができていない家庭が2-3割存在する。時には、12時頃になる。その場合、遅い朝食と重なり、給食が食べられないことも起こる。(保育所)

 地区児童の学力は、学年平均と比較すると、国語、算数ともやや下回っている。2こぶに分かれている。個人で見ると、学力のしんどい児童の割合が高く、地区児童の標準偏差は大きい。(小学校・中学校)

 中高連絡会を開き、進学先の情報をもとに指導をしているが中退がある。その理由の1つに生活規律が確立していないことがあげられる。遅刻、無断欠席、出席日数不足から中退にいたる。そして、アルバイトやフリーターとなる。(高校)

 まるで10年前、20年前の地区の子どもたちに関する報告書を読んでいるような錯覚を覚えました。みなさんはいかがだったでしょうか。

 実は、上記の文章は、今年春に実施した「青少年拠点施設検討プロジェクト」の第2次ヒアリングシートから抜き書きしたものです。

 ここで取り上げたような「しんどい」子どもたちにとって、大阪市の青少年会館はセーフティーネットの役割を果たしていました。たとえば第1回のヒアリングでは、「誰かが青少年会館に居たら、来る子どもがいた」り、「地元の青少年が夜、ふらっと(青少年会館に)立ち寄って帰ることもあった」という話もありました(注1)。このことから、青少年会館が、居場所という点からだけでも、いかに大切な施設であったのかが想像できます。ところが現在、大阪市では青少年会館は廃止されています。

2 最近の「もと青少年会館」の取り組み

 過去、何度かこの連載で触れたように、大阪市の青少年会館は「地対財特法期限後の関連事業等の総点検調査結果に基づく事業等の見直し等について(方針)」(20006年11月29日)を受けて、2007年3月末をもって条例が廃止され、その後、暫定的な市民利用施設としての「もと青少年会館」となりました。

 第2次ヒアリングの結果などによると、最近、「もと青少年会館」の利用者からは、「午後9時には必ず会館を出なくてはならないので、余裕をもって打ち合わせができない」、「子どもたちが気軽に立ち寄れる場ではなくなった」、「子どもたちだけで行くと帰されてしまう」というような声が寄せられています。

 しかしながら同時に、青少年会館条例の廃止やその他の事業見直しなどがきっかけとなって、最近では、これまで行政の施策や職員などに頼ることの多かった地域住民の間に、自主的な活動を始めようとする動きも出てきました。たとえば住吉地区では、いったんはやめることになっていた保育所の「お泊り保育」を、保護者が中心になって運営してみるという話が出ています。また、日之出地区では、20006年11月にNPO法人「ジャンプ」が設立され、2007年7月に第1回目の事業として、親子が参加するお弁当づくり講座が開催されました。さらに同年8月には、「トランポリン教室」と「食肉のさばきと映画会」のイベントもおこなわれました。

 このように、「もと青少年会館」など大阪市内の各地区でおこなわれている以上のような子どもたち対象の取り組みは、多かれ少なかれ、彼や彼女たちの将来の生活を視野に入れる必要があると考えます。そうであるならば、私は、それらは子どもや若者の「進路指導」ではなく「進路保障」につながる取り組みであってほしいと思うのです。なぜなら、両者の間に次のような質の違いがあると考えているからです。

3「進路指導」と「進路保障」

 「進路保障」と似た言葉に「進路指導」があります。「進路指導」は現在、「キャリア教育」と言われることが多いのですが、下記の文部科学省の説明を見ると、「進路指導」も「キャリア教育」も、ともに意味するところはほとんど同じであることがわかります。

 今日、少子高齢社会の到来や産業・経済の構造的変化、雇用形態の多様化・流動化などを背景として、将来への不透明さが増幅するとともに、就職・進学を問わず、進路を巡る環境は大きく変化しており、フリーターやいわゆる「ニート」が大きな社会問題となっています。/このような状況の中、子どもたちが「生きる力」を身に付け、明確な目的意識を持って日々の学業生活に取り組む姿勢、激しい社会の変化に対応し、主体的に自己の進路を選択・決定できる能力やしっかりとした勤労観、職業観を身に付け、それぞれが直面するであろう様々な課題に柔軟にかつたくましく対応し、社会人・職業人として自立していくことができるようにするキャリア教育の推進が強く求められています。(文部科学省「進路指導・キャリア教育について」)

 ここでいう「進路指導・キャリア教育」は、フリーターや「ニート」という「大きな社会問題」の対策として講じられていることが見て取れます。また、「進路指導・キャリア教育」では、文部科学省が目指している「労働観、職業観」をしっかりと身に付け、「激しい社会の変化」に「柔軟にかつたくましく対応」できる「自立」した「社会人・職業人」が期待されているのでしょう。

 それに対して「同和」教育では、これまで、「進路指導」ではなく「進路保障」という言葉を使ってきたのですが、そこには次のような思いがありました。

 生徒の進学や就職、あるいはその他の進路を紹介・あっせんすれば事足れりということではなく、〈差別の現実に深く学ぶ〉という同和教育の原則を踏まえつつ、1人ひとりの生徒の未来の生活をどう保障していくかという教育と運動の総体としての取り組みで、同和教育の総和といわれている。(中略)進路指導ということばが一般化しているなかで、全同教ではあえて進路保障としたのは、さまざまな形で行われる就職差別の壁を打破し、被差別の立場にいる生徒1人ひとりの卒業後の生活保障に展望を切り開くことこそまさに〈同和教育の総和〉であると位置づけていたからである。(部落解放・人権研究所編『部落問題・人権辞典』551頁)

 このような「進路保障」という言葉の定義からすると、文部科学省の「進路指導・キャリア教育」では、たとえば、企業などの理不尽な要求には決して屈せず、反差別の生き方を貫くような「社会人・職業人」の育成が期待されているようには思えません。

 以上のように考えると、第2次ヒアリングの結果、あらためて浮かび上がってきた子どもたちの生活実態や学力の問題などを前にしたとき、やはり「被差別の立場にいる生徒たちひとりひとりの卒業後の生活保障に展望を切り開く」という面で、「進路保障」という視点に立ち返った議論が必要ではないか、と思うのです。そして、そのことを、今の大阪市内の子どもたちや家庭、地域社会の状況をふまえつつ、学校と学校外で活動する人びとの連携によって、どのように展開するかを考える必要があるのではないでしょうか。

4「進路保障」としての「学力保障」

 その一方、「同和」教育では、「1人ひとりの生徒の未来の生活をどう保障していくか」という問題意識に裏打ちされた、「進路保障」としての「学力保障」という観点から、いろいろな教育実践が蓄積されてきました。そのなかには、たとえば、「くぐらせ期」の「ひらがな指導」の実践や、「誤答から学ぶ」という高槻市富田小学校の「算数」の実践などがあります。その他、現在ではティーム・ティーチングと呼ばれることの多い「入り込み促進指導」、正規の授業と並行して設置された促進学級に、「低学力傾向」の子どもが入級するという「抽出促進指導」などがあります(注2)。

 こうした学校内での取り組みがすすむ一方で、この間、大阪市内の各地区の側の動きはどうだったのでしょうか。第2次ヒアリング結果をめぐっての話し合いのなかでは、次のように、いつの頃からか、「進路保障」としての「学力保障」というとらえ方にブレが生じてきたように思われる話もでていました。

 たとえばある地区では、被差別部落の子どもたちの学習支援に、ボランティアとしてかかわっていた大学生に謝金が支払われるようになったという話がありました。地元で活動する人たちによると、「元々は、中高生の学習活動へ参加してくれる大学生に対しての感謝の表現であったものが、徐々にその性格を変え、アルバイト料であるかのように受け取られるようになったのではないか」、「このことによって、大学生にとっては、中高生へのかかわりが、複数あるアルバイトの1つであるような錯覚を引き起こしたのではないか」という声が出ていました。また、「謝金を支払う側にしてみれば、それに見合うだけの成績向上を求めて当然であるという意識を生じてきた」との声も耳にします。

 ただ、私の印象では、「謝金を払うなら、それに見合うだけの成績向上を」という文脈で想定されている「学力」は、まずはひとまず成績を上げ、有利な進学先を獲得することを目標とするような「学力」、つまり「進路指導」で求められている「学力」のように思われます。これに関連していえば、「同和」教育では、かつて、「解放の学力」をめぐって議論されたことがありました。その概要は、次のとおりです。

 解放の学力は、一般的には、〈部落解放をめざす学力〉とか〈部落問題を解決する学力〉とか〈部落解放をにない得る学力〉などと規定(説明)されている。また、同和教育(解放教育)の目的や課題とかかわって、〈差別を見抜き、差別に負けない、差別とたたかう力〉などと言われる場合が多かった。しかし、このような規定の仕方においては、確かに、学力の思想性(目的意識性)は明確にされているとしても、学力自体の内実やその具体的、実践的な課題や方法を明示しているとは言い難い。(『部落問題・人権辞典』153頁)

 ここで述べられているように、確かに、「解放の学力」が「学力自体の内実やその具体的、実践的な課題や方法を明示しているとは言い難い」という面はあります。しかし、「〈差別を見抜き、差別に負けない、差別とたたかう力〉」という「思想性(目的意識性)」を有していることは確かです。また、「解放の学力」には、部落解放運動などの社会運動が目指すべき社会変革の方向性と、人びとの「学ぶ」という営みをどのようにつなぐか、という明確な課題意識が反映されていたように思います。

 このように、第2次ヒアリングの結果を見る限りでは、今、あらためて私たちが学校や地域社会の諸活動のなかで、たとえば「進路保障」における「学力」を保障しようとしているのか、それとも「進路指導」における「学力」を保障しようとしているのかを考える必要があるように感じました。

 もちろん、進学や就職にさいして、「進路指導」における「学力」が高いことは、きわめて有利な条件となることは事実です。しかし、「同和」教育が「進路保障」にこだわってきたのは、ただ単に「学力」を向上させ、「生徒の進学や就職、あるいはその他の進路を紹介・あっせんすれば事足れりということではな」かったからではないでしょうか。

 私としては、「進路保障」という視点には、これまでも述べてきたように、学ぶことを通じての自己変革や、差別・抑圧を生み出す社会構造の変革など、教育に対する思想的な問いかけや、社会運動と教育の関係への問いかけなどがあったように考えます。そこで、もう一度、第2次ヒアリングの結果として現れてきた今の子どもたちのおかれている状況をふまえつつ、「進路保障」や「解放の学力」をめぐる過去の理論や実践などからも学びながら、今、あらためてどのような「進路保障」の営みが必要なのかについて、じっくりと考えてみたいと思います。


  1. この点については、第1次ヒアリングの結果をまとめた次の論文を参照。住友剛「青少年会館条例廃止後の大阪市内各地区の取組みの現状と課題」『部落解放研究』第179号、2007年12月。
  2. 詳しくは、たとえば、中野・池田・中尾・森『人権教育をひらく同和教育への招待 』(解放出版社、2000年)を参照。