はじめに
筆者は1998年に香川県丸亀市本島の部落コミュニティ主催の国際人権交流会に参加したことがきっかけとなりオーストラリア先住民と出会った。彼・彼女たちの実践に学ぶことで、自らの部落問題に対する考え、さらには自らの生き方に対して大きな影響を受けた。さらに先住民の人々との交流を実施し、筆者が2005年より研究するヨルタ・ヨルタ先住民の森と水の環境管理のための運動実践を部落における運動実践の知識や経験と共有することが益々重要であると、考えるようになった。ヨルタ・ヨルタ先住民のコミュニティはオーストラリア南東部の農村部に位置し、筆者の生まれ育ったCコミュニティが位置する都市部とは多くの相違点がある。そこで、ヨルタ・ヨルタの人々の実践や知識の共有化をさらに図るための土壌として、農村部で森と水の資源管理に豊富な実践経験を有するA部落コミュニティとの交流を始めるようになった。本稿の後半部分では、Aコミュニティの事例を杜報告より紹介する。
調査地の概要
主な調査地は、メルボルンより約250キロ北上した所にあるバルマ森林周辺のエチューカ小都市、モアマ小都市、バルマ地方町とクメラグンジャ・アボリジナル・コミュニティ、さらに本森林内を流れるマレー川並びに本河川より分岐するゴールバーン川周辺のムループナ小都市とシェパトン市である(地図1)。
オーストラリアで2番目に長いマレー川が流れ、ユーカリの一種である大木レッド・ガムが生息する世界最大の規模を誇るバルマ森林は、約3万ヘクタールを占め、ニューサウスウェールズ州の領域内にあるモイラ森林とミラワ森林に隣接する。そこは600種を越す固有の動植物が生息し、ラムサール条約の定める重要湿地として指定・登録され、日本と中国の間に渡り鳥のための条約を結んでいる地域としても知られている。さらに、ヨルタ・ヨルタにとっての重要な文化遺産も多く含まれている。本地域はヴィクトリア州のなかでも第一次産業、とくにフルーツ、野菜、米、酪農、家畜産業がその中心を占め、乾燥した大地のイメージがあるオーストラリアと違い、比較的肥沃な土地で農耕が可能で、その産業に従事する多くの人々が1840年ごろから開拓者として当該地域に入植した人々、すなわちアングロ・ケルト系を中心とする移住者の子孫で、本地域は「白人オーストラリア」として知られる。[1]
白人オーストラリアの先住民とヨルタ・ヨルタの概況
2006年の国勢調査における先住民人口は約42万人、全人口の2.3パーセントを占める。分布割合は、都心部(1万人以上)とその近郊(9999人-2000人)で暮らす先住民が全先住民人の73パーセント以上を占める。また、2001年時点の非先住民の人々との通婚率は68.7パーセント以上に達する。
ヴィクトリア州アボリジナル人口の州総人口に対する割合は0.6パーセントにすぎない。これに対し、ヨルタ・ヨルタの人々が主に居住する都市や地方町における人口割合はエチューカ小都市が3.1パーセント、シェパトン市が4.5パーセント、バルマ地方町では20パーセント以上に達し、ヴィクトリア州のアボリジナル人口と総人口との割合が0.6パーセントと少ないにもかかわらず、調査地に定住する総人口に対するアボリジナルの割合が高いことが分かる。また、ヨルタ・ヨルタの人々は今日、マレー川-ゴールバーン川流域の都市や地方町を中心に居住し、その人口は約5000人から6000人と推定される(地図1)。
ヨルタ・ヨルタの土地権回復運動
ヨルタ・ヨルタの人々はヴィクトリア州の40を越えるアボリジナル集団の中でもよく知られる集団である。かれらは1860年代から2002年まで自らの市民的、政治的、社会的な権利を主流社会へ強く主張し、土地回復のための闘いを18回に渡り展開してきた。
ヨルタ・ヨルタは、1930年代より当事者団体を立ち上げ、活発に都市部を中心に市民として平等の権利獲得のための運動を展開した。さらに、1970年代より、ヨルタ・ヨルタの運動は、意識的にバルマ森林や湖などの資源管理、すなわち先住民族としての集団の権利を求めるものとして進展していく。なかでも、1994年から2002年まで行われたヨルタ・ヨルタ先住民権原訴訟は、約500機関に抗し起こされ、申請地及び申請地の資源を使用、占有、定住、ならびに所有するための権利、申請者の同意なく申請地へアクセスすることを禁止する権利、伝統法及び慣習法に一致した権利と義務を実践する権利、申請地の陸地表面もしくは地下にある鉱物及び資源を使用するための権利を主張した。
裁判審議に入る以前の1994年から95年まで、ヨルタ・ヨルタの代表者は地域住民との調停を持つことになる。これに対する地域住民の反応は「ヨルタ・ヨルタは私たちと何が違うというのか、現に彼らの親は、白人じゃないか。ましてや、昨日まで一緒に働いていたのに、なぜ今日から先住民なんだ」というものであった。この反動を地方新聞が読者欄に記載することで後押しし、調停は失敗におわる。
ヨルタ・ヨルタ先住民権原の敗訴
ヨルタ・ヨルタ先住民権原訴訟は、1992年のマボ判決以降可決された先住民権原法1993において、初めて受理されたケースである。[2]連邦裁判所は1996年、ヨルタ・ヨルタの人々の口頭による証言よりも開拓者と宣教師により書かれた書物を歴史的証拠として重視し「伝統が断絶した」という決定を下した。これを受けた最高裁は2002年に5対2で本訴訟を退けた。
運動の成果
18回の闘いの大半は否定されたものの、幾つかの成果も獲得された。まず、1883年よりニューサウスウェールズ植民地政府により設置されたクメラグンジャ・リザーブが1983年に99年リースで返還され、80年代に起こされた運動の結果、バルマ州立森林内にヨルタ・ヨルタの文化を伝えるためのダルニヤ文化センターが設置される。[3]これに加え2つの土地が先住民土地基金により購入された。[4]また、1999年には水資源管理に関し、ヨルタ・ヨルタの代表機関であるヨルタ・ヨルタ・ネイション法人は、近隣9先住民集団と先住民ネイション連合を結成する。さらに先住民権原訴訟に敗れた後、2004年よりヨルタ・ヨルタ・ネイション法人はヴィクトリア州との間で土地と川の資源管理に関する共同管理合意を結んだ。
メルボルン大学にて教鞭を執り、ヨルタ・ヨルタ長老でもあるウェイン・アトキンソン博士は、「これらの成果に加え、先住民権原訴訟を起こしたことで、都市の学生と国際・国内NGO団体がヨルタ・ヨルタに関心を持ったことが上げられる」と語る。
土地と川資源管理に関する共同管理合意
ヴィクトリア州政府とヨルタ・ヨルタ・ネイション法人との間で結ばれた土地と川資源管理に関する共同管理合意は、先ず、ヨルタ・ヨルタの知識を結集し、確定された領域を管理するための政策決定にヨルタ・ヨルタが参画する。その際、ヴィクトリア州政府は、この決定に対し財政支援をする。次いで、ヨルタ・ヨルタとヴィクトリア州政府の相互認識と信頼を促進させる。最後に、ヨルタ・ヨルタに対する雇用や職業訓練及び経済発展の方法を特定し促進させることをその主要目的としている。この目的に反し、2006年の調査より得られたクメラグンジャ・アボリジナル・コミュニティとバルマ地方町に居住するヨルタ・ヨルタの人々の雇用実態は、64パーセント以上の高い失業率を示している。[5]
VEAC計画案を巡る対立
本合意は、オーストラリアで2番目に長いマレー川の一部と、大木レッド・ガムが生息する湿地帯として世界最大のバルマ森林、その州立公園を含んだ約5万ヘクタールを共同管理範囲と定めている。さらに、本共同管理合意では今日、ヴィクトリア州と本合意が定める領域内の森林と川より利益を得ている諸利害関係者との間で相互理解を目的とした会合がもたれている。例えば、2001年に設置されたヴィクトリア環境調査委員会(以下、VEAC)は、マレー川流域を含むその他複数河川の水質・水量並びに周辺州立公園の森林状態と生態系に関する調査をヴィクトリア州政府より委託され、2006年と2007年に調査報告書を出した。[6]2006年報告書では、約122万ヘクタールの調査地の歴史的、社会経済的、政治的状況さらに自然状態や生態系に関する報告がなされている。2007年報告書では、河川と土地の共同管理に関する計画案と勧告(以下、計画案)が具体的に示されており、先住民との共同管理に関し多くの紙面が割かれている。また、この報告書の内容を大衆に広めるための公開ミーティングが2007年夏、調査領域内を中心に9回にわたり開催され、筆者はこの内4つのミーティングに参加し、諸利害関係者の意見の相違について調査した。結果、製材業者、大牧場主、大農園主を中心とする地域住民とヨルタ・ヨルタ、さらには国際、国内環境NGO団体や都市の知識人との間の対立が明らかになった。
当該計画案に関する錯綜する見解は、合意による地域社会形成の際の困難さを示している。これは9月27日に労働党から選出されたヴィクトリア州首相によるVEAC計画案に対する反対表明からも明らかである。また、筆者は2005年1月から2008年3月まで4地方新聞(Riverine Herald, Shepparton News, Country News, Kyabram Free Press)より290のVEAC計画案に関する記事を集め、それに対する諸利害関係者(地域住民、先住民、その他(個人・団体))が持つ異なった見解について賛成、反対、中立という意見に基づき分析した。[7]
2005年と2006年の計画案に対する反対と中立意見は、地方住民を中心に見られる。また2007年には先住民の計画案に対する賛成意見が増えるのに対し、地域住民からの反対意見がどの新聞を見ても増加していることが分かる。これに加え、地域住民の反対の矛先はVEAC計画案のみでなく国際、国内環境NGO団体にも向けられている(2005年から2008年までの反対記事は29)。意外なことに、ヨルタ・ヨルタに対する反対は、それほど多く見られない(2005年から2008年までの反対記事は7)。この理由として、「環境問題」という人類共通のテーマに本義論を位置づけ、先住民としての権利を要求することで主流社会の承認を得る、というヨルタ・ヨルタ知識人の戦術をみることができる。一方、ヨルタ・ヨルタ・ネイション法人を構成する16家族の一つバンガロンが地域住民に賛同していることも挙げられる。前者の戦術については、ヨルタ・ヨルタの人々が巧みに都市の知識人や国際、国内環境NGO団体を本議論に巻き込み、これら団体が、地方新聞などのメディア媒体を活用し、その議論に介入していることが、その1つの例としてあげられる。
結果、国立公園化と生物の多様性や自然の保護を勧告するVEACの見解。経済的基盤となる職の損失危機に瀕するため国立公園化に反対する地域住民の見解。VEACと先住民双方に理解を示し国際条約や州法などに関心を寄せる国際、国内環境NGO団体や都市在住の学生を中心とする知識人の見解。バルマ森林の世話人であるTOとしての承認を求めるヨルタ・ヨルタの見解と、それぞれに異なる考えが明らかになった。VEACは最終勧告を2008年7月31日にヴィクトリア州政府の持続可能な環境に関する省およびヴィクトリア州政府へ提出し、現在本勧告が決議および可決されている。
変容する環境管理のための運動と実践
これまで、ヨルタ・ヨルタ土地権運動の歴史を概観し、さらに近年の事例に基づき、その運動を考察した。次に、本運動の内実をヨルタ・ヨルタの人々の語りより明らかにする。
森林管理のためのモニタリング
ヴィクトリア州の持続可能な環境に関する省の下で、州立公園の管理を任されているパークス・ヴィクトリアが設置されている。本機関が中心となり、バルマ森林内のバルマ湖周辺に9正方形用地を設置し、人為火付け、除草剤並びに人手による草刈りと、それぞれ3用地に分け、それらを比較検討するモニタリングが開始された。現在、大干魃に見舞われている調査湿地帯において、水分が少なくても生息可能な固有種である巨大イグサが大繁殖し、その他の固有種である草が育たない現状にある。こういった状況を改善し、その他動植物にとって最適な環境を回復させるため、本モニタリングは2010年まで継続される。
本モニタリングは、2004年にヨルタ・ヨルタ・ネイション法人とヴィクトリア州政府の間で結ばれた共同管理合意の1プログラムでもあり、当該地域のヨルタ・ヨルタ集団との関係を重視している。殊に、当該地域を管轄するパークス・ヴィクトリアの部局には3名(女性2、男性1)のヨルタ・ヨルタ職員が働いており、本モニタリングにおいて主要な役割を担っている。更に、ヴィクトリア州の持続可能な環境に関する省より、アボリジナル青年層の雇用改善と促進を目的としたローカル・ランド・マネージメントという半年間のプログラムが組まれており、終了者は、国立公園のレンジャーになる資格を取得できる。本コースを受け持つ団体はグリーン・コープスと呼ばれ、その指導者と8名の学生も当該モニタリングに参加している[8]
植民地化以前のヨルタ・ヨルタの先祖にとって、火付けは伝統的な慣習として欠かせないものであった。しかし、今日の火付は、この慣習の通り実践することはできない。ヨルタ・ヨルタ長老で74歳のコリン・ウォーカー氏は、その原因を次のように語っている。
私たちの先祖は春と秋を中心にして火付けによる森林管理を行っていました。炭素に湿り気があり、火のまわりが緩やかになるためです。ですから、夏に実施しなかったのです。何年もの間、バルマ森林では、雨が降らず、洪水が起こっていません。その結果、大地が乾燥し、飛び火による森林火災が起こるのです。このため、洪水があった時期に実施していた火付けは、今日の環境破壊も重なり、実施することができないのです。[9]
従来、冬期から春期にかけて起こっていた洪水が1919年以降、主に家畜と農作物への灌漑用水を貯蓄するダム建設により夏季から秋期にかけ起こるようになり、このため1830年代以前にバルマ森林内に生息していた固有植物の分布量が激減している。このような現状で、ヨルタ・ヨルタの先祖が実施していた人為火付けが注目されるようになってきた。しかし、その内実は、従来の方法ではなく、科学的な手法に基づく人為火付けとなっている。
余暇を中心としたフィッシング
また、休日を中心に2007年7月下旬から9月下旬にかけて3名のアボリジナル男性(2名はヨルタ・ヨルタ女性をパートナーに持つバーカンジー男性、1名はヨルタ・ヨルタ男性)とマレー川での釣り(竿未使用の釣り糸による釣り)や仕掛け漁(自作の鉄製編み仕掛けと釣り糸に針と重石、えさを付けた仕掛け)に同行し、その実践方法をビデオに収めることで日常の川資源利用に関する調査を実施した。当該地域におけるアボリジナル個々人の日常生活において、河川との関わりがいかに重要な部分を占めているかについて、ヨルタ・ヨルタの長老コリン・ウォーカー氏は次のように語っている。
私が生まれ育った保護区では福祉局の役人が食卓をチェックするのが常でした。そこには食材が無く、多くの子どもが親元から引き離されたのです。しかし、これは大きな偏見です。私たちの食卓はテーブルではなく川と森であり、私たちにとって川と森は豊富な品が揃ったマーケットなのです[10]
またヨルタ・ヨルタ女性で78歳の長老フランシェス・マシッセン氏は川の記憶を次のように語る。
7歳の頃、友人、いとこ、妹たちと一緒に川で遊んだことを良く憶えています。川岸まで歩き、そこに鉄製の缶を2日間放置するのです。その缶を上げてみると小魚、ザリガニ、川エビが入っていました。それらを川岸にあげ、確保したあと、ムール貝を捕るため沼地へも行きました。それらは素晴らしい記憶として残っています。当時は、川が透明でして川遊びのときに川底までのぞき込めたのです。今日、こういった光景を目にすることはできません。[11]
これらの思い出とは対照的に、現在は、固有種の魚の数が激減し、川の水質も40年前と比べ悪化している。この現状を目の当たりにする、ヨルタ・ヨルタの人々にとって、川と森の意味をウォーカー氏は次のように語っている。
バルマ森林はオーストラリアでレッド・ガムの大木が生息する最大の森林です。ここは我々、ヨルタ・ヨルタにとって重要な森です。今日においても、私たちは食べ物や薬草となる植物を採集しています。川は多くの恵みを私たちに与えてくれる提供者であり、私たちはこの川の恵みのおかげで、豊かな生活が営めるのです….この森林には、2つの湖があります。バルマ湖とモイラ湖です。先祖は川が何かに例えられると考えました。そして、川の両側にある2つの湖を腎臓に例え、湖の間を流れる川を背骨に例えました。さらに注意深く観察してみると、これらがヒトの体のように見えます。また、湖や川から分岐した小川は、体内を流れる動脈に例えられます。血を浄化させる腎臓と同じく、湖は川の水を綺麗に浄化させているのです。[12]
ヨルタ・ヨルタにとっての環境管理とは、まさに、先祖より受け継がれてきた「生きるための糧」を供給してくれる森と川を、世話することである。
ヨルタ・ヨルタの言説から見る運動の意味
伝統的な要素を失ったとされるヨルタ・ヨルタにおいて土地権運動がいかなる意味を持つかについて、前述した聞き取り調査に基づけば、20代、30代、60代が故郷と認識されるカントリーの決定を困難に思う一方で、多くはバルマやクメラグンジャをカントリーとして認識していることが明らかとなった。また、全ての語り手が、過去、現在において土地権運動に参加した経験があることも明らかになった。長老の役割についても、多くの語り手が今日でも個人として集団として学ぶことが多くあると答えている。次世代への伝承に関しては、全ての世代でアイデンティティの強化と先祖から伝えられた狩猟・漁労・採集や儀礼などの伝承が強調されている。このことから推測されるヨルタ・ヨルタにとっての土地権運動に関する意味付けは、次の40代男性ネビル・アトキンソン氏の言葉に集約されているといえる。
われわれにとって大地の回復は、これまで権利回復のため尽力してくれたエルダー達への報酬であり、また次世代がヨルタ・ヨルタとしての誇りを強く持てるための勇気づけに繋がるものである[13]
おわりに
本稿では、ヨルタ・ヨルタの土地権回復のための闘いに注目し、先住民と地方住民の対立の内実に迫った。これにより、現在のヨルタ・ヨルタにおける土地と河川の資源管理を巡る運動とその実践は、その他諸利害関係者との植民地期より続く対立関係の渦中にあることが明らかになった。さらに、ヨルタ・ヨルタにとっての運動の意味は、「先人たちへの報酬と次世代への誇り」として継続され、それは、先祖から受け継がれてきた「命の糧」となる資源をもたらしてくれる大地と河川の管理、すなわち「環境管理のための運動」であるといえる。
近年のヨルタ・ヨルタの運動形成の内実は、これまでの先住民、地域住民、政府といった形式化された集団間の対立構造ではなく、国際、国内環境NGO団体や都市の知識人たちを巻き込み、このため、これまでの対立が二極化したものから重層化したものへと、さらにその戦術や価値観も多様なものへと転換している。共同管理合意によって生み出されてきた、様々な意見が錯綜する対立は、これら植民地期より継続するものの、ここで興味深いことは、国際、国内環境NGOや都市知識人が介入することで、当該地域の敵対する矛先が法制度の下で一枚岩に括られた「特定コミュニティ(Identifiable Community)」の先住民ではなく「都市の知識人や、国際、国内環境NGO団体」と協働する「資源管理の権利を有する先住民ネイション」となってきていることである。70代ヨルタ・ヨルタ女性マーガレット・ウィルパンダ氏は先住民権原訴訟の際に「証拠を集め、先住民権原を有する先住民であることを証言する必要があるのは、いつも私たち先住民側であり、その決定は常に、白人社会の規則に委ねられている」と語っている(Atkinson 2000 p99)。しかし、近年の先住民ネイション連合や土地と川資源管理に関する共同管理合意を巡る運動の内実は、先住民が先住民であることの証明を必要とする運動ではなく、むしろ、先住民と非先住民が接触する度に相互に変化する非対称化した構造、すなわち「コンタクト・ゾーン」の中に位置づけられる。今後、このような事例をヨルタ・ヨルタとその他諸利害関係者の人々の日常実践に見ていくことが必要となる。
杜 真矢
筆者がフィールドとするA地域は、京都府下にある150世帯にも満たない非都市部の部落コミュニティである。A地域は、筆者自身の生まれ育った土壌であり、筆者の母の生きてきた故郷である。祖父母の代まで、農業と庭づくりを生業とし、1443年の『康富記』(やすとみき)に記される佐伯荘隼人保内(さえきのしょう・はやとのほ・ない)に暮らす二条殿御庭清目丸(にじょうどの・おんにわ・きよめまる)の系譜をもつ部落民のひとりである。父方の祖父は、日本の植民地支配時に16歳で、台湾から日本へ労働のため移住。福岡の炭鉱町で首長をしていた曽祖父のもとに生まれた祖母と出会い、祖母は、戦後の混乱期に子どもを産んだ。そして、社会の中で、その子どもは、在日2世の無国籍児として育った。それが筆者の父である。
筆者は、複合的な歴史性を身体に感じながら、日常を生きてきた。大学では、社会学を学び、その中で、画一的な部落コミュニティ・部落民表象やアイデンティティ研究の制約、社会学領域における部落差別問題の現状と課題についての興味が増した。日本の社会学領域において、部落差別問題が、学会のテーマとして位置づけられたのは1980年代に入ってからである。
1980年、日本社会学会に参加した敷本五郎(当時・部落解放同盟神奈川県連合会副委員長)は、次のような言葉を残している。「部落差別をなくすという展望につながらない学問があるということを見届けさせてもらった。議論のための議論をしている。人間解放という視点からは、学問の世界は、はるかに遠く、遠く、遠くにいる(福岡安則引用: 1980)」。この言葉は、日本における部落という文脈に関わり研究を進める者に対し、重要な示唆を与えている。
学問領域における「実践」が、人間解放の思想や部落差別をなくす展望をもつ人々の実践と距離があるということである。これは、学問における主観と客観の問題としてではなく、生きている人々の存在が織りなす実践を、研究者がいかなる観点をもって捉えているのかという主体が問われる問題なのである。
筆者は、大学院に進み、自らが暮らしの拠点とするA地域の歴史性や住民の語りを手がかりにした生活史、また、地域を通過する人々が語るA地域の姿に、実践から生み出された人間の知恵と知識を語り継ぐ重要であると考えるようになった。
本シンポジウムでは、学問や理論の領域こそを、人々の日常生活の「知」に引き寄せるための提起を、ある被差別部落の生きられた歴史と具体的な実践を事例とし、それらが、「部落問題の今」を議論する際に重要なポイントとなることを強調する。また、それぞれの具体的な生活の土壌における実践をマイノリティ当事者同士あるいは研究者が、相互に共有することの可能性を広げる為に、さらに、次世代の部落解放運動を担う責任ある若者として本シンポジウムへパネラーとして参画する。
はじめに
先の友永雄吾によるオーストラリア南東部ヨルタ・ヨルタ先住民のコミュニティが環境管理を実践するバルマ森林は、ラムサール条約に登録され、渡り鳥の生息する豊かな土壌が広がっている。A地域を囲む田や川にも、渡り鳥が降りたち、豊富な生態系が維持されていることがわかる。A地域の東側に、「B川」という中規模河川が流れている。また、地域から、10数キロ離れたところにA解放林という森林があり、さらに、2005年に一般上水道に編入されたA簡易水道が地域の資源として現存する。
A地域における部落解放運動は、河川、森林、土壌の環境管理を省いては、語ることのできない歴史性をもっており、さらに、子どもたちと親たちによる教育闘争は、A地域における解放運動の原点である。本報告では、「被差別部落の現在」を、<1>河川、<2>水道、<3>森林の環境管理の事例をもとに概観する。
1. B川~私たちの本当の名前とは何か~
1844年(天保15年)、亀山藩士(かまやまはんし)の『桑下漫録』(そうか・まんろく)では、「此村の東に北に流るる小溝有 天の川として ふるくよりの名所なりと 穴太村の人いいき」と、A地域の隣村である穴太村の聞き取りが残っている。現在の「B川」は、A地域の名称の由来でもある「天の川(あまのかわ)」と呼ばれていたのである。A地域の暮らしの中心を流れるB川は、なぜ、かつての名前を失い、また、どのようにして、人々はその"本当の名前"を取り戻すのだろうか。
近代以降、「B川」の氾濫を繰り返し、上流の水が流れ込み、A地域は水浸しになっていた。その大水の影響で、泥が田んぼに流れ込み、稲が育たず、小作料を払えないという悪循環を繰り返し、それが、A地域を流れる川が、「B川」と呼ばれているいわれである。1960年、A地域に部落解放同盟の支部が結成され、1965年(昭和40年)、「同和対策審議会答申」が出され、「B川の改修」工事が、当該市町村に対し要求され、同和対策事業のひとつとして、B川の改修工事が1970年に施工されている。
それから、20年あまりを経て、1989年に発刊された『いのち輝かせて』(創刊号)の序文「みんなの願い」の一節には、行政による川の改修工事が始まった時の村人たちの歓喜の姿を回想しながらも、同和対策事業によって、Aの村人が何を失っていったのかを、A地域の部落解放運動のオーガナイザーである杜恵美子は、次のように綴っている。
「広い道やりっぱな建物と引き換えに、なけなしの土地を差しだし、村人の生命線である村の共同体をも解体してきてしまった。狭くとも豊かに黒光りしていた田の土が農薬づけにされパサパサした赤土にかわり、魚やホタルが群れをなし、たわむれていた川が地域の改善のためにと冷たいコンクリートに変わっていった。私たちは自然の恩恵と共存してきた生物の営みを忘れてしまっていた。いや心にも留めていなかった。物が無いから貧しいのではなく、人が心を無くしてしまうから貧しいのである」。
川の改修工事は、まぎれもなく、そこに暮らす地域住民によって<要求>されたものではあったが、その計画の細部において住民が参画し、全体としても考えつくされたものではなかったかもしれない。これらの社会動向と、彼女の語りは、フランツ・ファノンの「橋をわがものにする思想」を想起させる。
「ひとつの橋の建設がもしそこに働く人びとの意識を豊かにしないものならば、橋は建設されぬがよい、市民は従前どおり、泳ぐか渡し船に乗るかして、川を渡っていればよい。橋は空から降って湧くものであってはならない、社会の全景にデウス・エクス・マキーナ〔救いの神〕によって押しつけられるものであってはならない。市民の筋肉と頭脳から生まれるべきものだ。…市民は橋をわがものにせねばならない。このときいっさいが可能となるのである」。(フランツ・ファノン: 1961)
2. A簡易水道~温故敬水・生命の水の物語~
A地域には、亀岡市の『解放運動の原点』と言われる簡易水道がある。1955年、A地区は、75戸の集落で、区内には4箇所の浅い井戸があった。しかし、水質的にも不安定な状態であり、伝染病の恐怖におびえながらの生活をしいられていた。「A地区で『水道設置』の声が上がったのは、女性の井戸端会議の声と、歴史の中で米騒動の発端が大きな教訓となったものです。…地区の苦しい水汲みと苦しい生活から、解放するためにという一部の声が地区全体の声となり、集団行動へと発展した」と、A地域の古老・前田譲は、語っている。
さらに、当時、小学校の教員であった廣富靖海さんは、次のように語っている。
「今までの日課が一変して、ほとばしる玉のような水を全身に浴びる喜びが、どれだけ子ども達の生活に展望を持たせたことか、目の輝きとはずむ声がそれを物語っているといえるのである。まさに命の水なのである。子ども達にとっては、水との闘いの育ちの中で、その変遷が歩みを好転させたといえるのである。解放運動の組織化の中で、現実にはビニールホースを接ぎ合わせて水を引くポンプアップの取り組みの最中であり、その以前から子ども達は、水を引くことに参加し、自然の恩恵から疎外されてきたことを体験し、親と共に苦しんで来たのである。そのような歴史の歩みの中で、地域の親たちの取り組みは碑文にあるように『涙ぐましい労働奉仕のもと、血と汗と涙の結晶として簡易水道が発足した』そして『後世に伝え 先人の努力と命水に感謝し』とあるように、地域の悲願である"誰もが同じように幸せに暮らせる""皆が力をあわせたら何でも出来る"ことを、水という媒体を借り、感謝して町づくりに継承する心意気が足跡として感じられるのである」。
毎日の飲み水を確保するにも大変な状態の中、住民による水道闘争がはじまり、1959年、水道補助金制度を制定。1960年、A簡易水道が発足。2005年3月に、上水道に編入されるまでの半世紀、Aの人々の生命を守ってきた水道である。
A地域における「水を求める運動は、単に水道闘争だけでなく、大正時代における『共同井戸』の設置においても、地区全員が寺の本堂に集まり、毎夜毎夜協議を重ねて設置が決定」されたという歴史がある。A地域の水問題の解決は、『人間の生命』を守るための大きな運動であり、「子どもや女性の苦しい労働をうたい、家族の生命を支えるために、雨の日も、寒い日も、水との闘いを続けた」として、現在も語り継がれる「生命の水の物語」であると言える。
3. A解放林闘争~環境概念の深化と継承~
A地域は、1972年、明治の廃藩置県の際、採炭採草の目的で分配された配分が不公平であったため、山林解放闘争の中で、平等な再配分を要求し、1974年6月、亀岡市議会の決議を経て、解放林の管理運営の権利を獲得している。同年、A解放林森林組合が成立。この組合の規約の中には、A解放林をめぐる権利と義務が明記されている。
解放林の主旨は、適正な管理と保全をおこない、組合員の生活の向上と、福祉の増進をはかり、解放の認識を高めることを目的とすることにあり、そして、所有権の一切は、山林解放闘争に積極的に参加し、要求の意義と目的を正しく理解したA地区住民による共有権であること。さらに、所有権の加入条件は、A地区に永住の目的をもって、2箇年以上部落解放運動に謙虚に挙し、総会で決定した加入金・出資金を納めなければ加入することができないとある。
2008年現在、若干の改正箇所があるものの、A解放林は、A地域に暮らし、部落解放運動に積極的に参画する住民によって、環境管理が続けられている。年に幾度かの山行きがあり、山の下草狩りや、枝落しが行われている。同和対策事業の縮小により生活苦を訴える一部の住民や、シャドーワークを担わない一部の住民からは、解放林を産業廃棄物処理場や、火葬場にしようという声が、たびたび上がる。A地域の部落解放運動の歴史性、現在の同地域における部落解放運動の実践のヘゲモニーが、それらを許すことはないが、今後、その声が沈静化する保障はない。先に紹介した、1989年発刊の『いのち輝かせて』(創刊号)の序文「みんなの願い」には、次のようにも綴られている。「人を人で無くならす物のために、村人の心を売り渡すのはもうやめよう。差別の恐ろしさは、その為に自殺する人が出るからだけではない。日常生活において何の抵抗もなくごく自然に身につく、その世界でしか通じないものの見方、考え方、価値観がつくられていき、生きているつもりで殺されていくことにある。地域のこと、仕事のこと、教育のこと、みんなのことを考えなくなる村人がつくり出され、生きていくための展望を奪いとられてしまった。苦しくともこつこつと積み上げの人生を生き抜いてきた老人達のうしろ姿がいっそう小さくうつる」。
ここまで、A地域の歴史と実践を辿ってきたが、女性達の暮らしから発せられた声が地区全体の声となり、集団行動へと発展した歴史、水との闘いの育ちの中で、子ども達の育ちがあり、皆が力をあわせたら何でも出来るという実践を継承してきたことを紹介した。苦しくともこつこつと積み上げの人生を生き抜いてきた古老の姿に学び、かつての子どもたちが、成人し、部落解放運動の担い手となる1980年代、経済的・物質的な指標に基づくのみの「貧困」概念の転換を、「物が無いから貧しいのではなく、人が心を無くしてしまうから貧しいのである」として、せまってくる。1987年、B川の改修工事に続いて、公営住宅の立替工事が施工されているが、亀岡市のスローガンが、「緑一杯の街」であったのに対して、「私たちは緑の中に暮らしていることは確かだ。だけど市行政はなんでもコンクリートにしていく。これでよいのだろうか。わたくしたちの思いをこめて、『上から道ゆく人に声が掛けられる街、下からあいさつの声が届く温かい村へ』の思いを込めた街づくり」が、提起されている。持続可能な地域の「環境」を、村という社会関係、自然環境と、地域住民相互の関係、そして、地域を往来する人々の関係性の概念にまで押し広げているものである。2008年現在のA地域における持続可能なコミュニティづくりに流れている思想の一部であると言える。さらに、今後、地球環境の崩壊に加え、経済的貧困はますます加速すると考えられる。安全な「食」の確保が急がれる中で、A地域を拠点とするNPOでは、地域で流通可能な農産物のネットワーク化の取り組みが試行されている。これらの思想を継承し、発展させているA地域のリーダーは、どのように育ったのか。その背景には、A地域における地域教育の取り組みがあった。A地域で継承され、展開されている地域"共育"の実践については、別稿で報告することにする。
部落コミュニティにおける人々の実践は、具体的土壌に生きる人々の、日常の生活の中から生まれてきたものである。近年、持続可能な部落解放運動の発展が、環境問題への意識化によってなされると指摘されている。しかしながら、個々の部落コミュニティによって、その歴史性や部落解放運動の成り立ちは相違するものである。A地域のように、水という媒体を通じ、生命の尊さを、その思想と身体のうちに刻み込まずには生きてこれなった地域における部落解放運動が、現在においてもなお環境管理の実践を継承できることは、その他の部落コミュニティにおける持続可能な実践がなされていないことを強調するためにあるのではない。さらに、都市部の部落コミュニティの共同性や部落解放運動を展開する当事者組織が、その構成員の自治によって環境管理できる土壌を、合意もなく奪い取られ、肥沃な土壌から荒涼な土壌へ強制移住させられた歴史性を保持していることを忘却するものではあってはならない。
はじまりのためのおわりに
「部落のアイデンティティ変容」が論じられる際、人口の流出入や通婚、境界の錯綜化による揺らぎが並列され、部落の地域概念の縮小傾向が指摘される。しかしながら、現実を生きる人々は、部落コミュニティに留まらず様々な社会変容とともに、その揺らぎを生きてきた。
A地域における環境管理と部落解放運動の実践は、むしろその揺らぎをテコとして、部落コミュニティに暮らす人々、コミュニティを通過する人々が共に育つ基盤としての地域環境概念を深化させてきたものであると言える。
今後、学問領域における「部落のアイデンティティ」研究の観点が、その画一的な部落コミュニティ・部落民・部落解放運動表象の制約を認識し、新たな主体形成のプロセスを始動させることを期待する。また、部落コミュニティにおいては、個々のエンパワメントプロセスと、コミュニティの構成員における自治の権利を保障するために、自分達の本当の名前を取り戻し、これまでの日常実践を、新たな解放理論として位置づけなおし、伝承する活動が求められる。
[1] 2005年より当該地域において大干魃が続いており、田畑が枯れ第一次産業は衰退している。
[2] 1993年先住民権原法では次の 3点が討議された。1.特定できるコミュニティや集団の存在、2.伝統法と慣習法に基づいた土地との伝統的紐帯とその占有、3.土地との紐帯または占有の維持。
[3] 2007年5月以降、シロアリの被害にあい業務停止に追い込まれている。
[4] 2000年にイェルモア農地とベンダリー・バンドを購入
[5] The State Government of Victoria 2004? Co-operative Management Agreement between Yorta Yorta Nation Aboriginal Corporation and The State of Victoria, the Victoria Government, MelbourneThe Victorian Environment Assessment Council
[6] The State Government of Victoria
2006 River Red Gum Forests Investigation: Discussion Paper, The Victorian Environment Assessment Council, Melbourne
2007 River Red Gum Forests Investigation: Draft Proposals Paper for Public Comment, The Victorian Environment Assessment Council, Melbourne
[7] これら4地方新聞は親会社で、その他9地方新聞を編集するマクファーソン・メディアにより発刊されている。殊に、前者2新聞は1877年より発刊され地域住民を始めインターネットのオンラインサービスにより国内外に広く購読者を有する(http://search.sheppnews.com.au/story.asp?TakeNo=200204262045643, 2008年7月10日アクセス)。
[8] 全てヨルタ・ヨルタ・ネイション法人に属する個人
[9] Walker, C. 報告者とのインタビュー、クメラグンジャの自宅、March 24 2008
[10] Walker, C. 報告者とのインタビュー、クメラグンジャの自宅、August 23 2007
[11] Macissen, F. 報告者とのインタビュー、バルマ地方町ヤラプナ・ロッジ、March 23 2008
[12] Walker, C. 告者とのインタビュー、クメラグンジャの自宅、March 24 2008
[13] Atkinson, N. 報告者とのインタビュー、職場のオフィス、September 14 2007
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