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近代日本のマイノリティ |
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「終わっていた歴史」と新自由主義再考
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アメリカ合衆国発の金融恐慌が世界に波及し、同国では大統領がジョージ・W・ブッシュ・ジュニア氏からバラク・オバマ氏に交替、日本でも小泉純一郎内閣の時代に推し進められた「構造改革」路線の見直しが始まり、かつて一世を風靡した新自由主義の「終焉」が叫ばれるようになりました。しかし、それは本当なのでしょうか。私は、かつて自由主義が社会主義に「勝利」することで「歴史が終わった」と言われた時期があったことを懐かしく思い出します。ベルリンの壁崩壊をブラウン管越しに目撃してからの2~3年間、私はまだ小学生で、むろん当時は『歴史の終わり』という書物も議論も知りませんでしたが、それでも、「これからはきっと世の中はよくなっていくのだ」という漠然とした時代の空気がはちきれるように感じられたことを覚えています。その期待が幻滅へと変わり、そのような希望に満ちた瞬間があったという事実すら歴史のかなたに忘れ去られるまで、さほど長くはかかりませんでした。そのためか、「悪の帝国」ソヴィエト連邦を倒して歴史を「終わらせた」はずの(新)自由主義が、ブッシュ氏や小泉氏といった「悪役」の退場によって今また「終わった」と言われても、実感が湧きません。まして今回の「終わり」には、前回の「終わり」に伴っていた前向きな情熱も昂揚もなく、ただただ不安と裏合わせの捨て鉢な怒号がこだまするばかりです。 私は今こそ、定かならぬ新たな「終わり」を連呼するのではなく、歴史はとうの昔に「終わっていた」という感覚を持つことが、正しい現状認識と将来への展望を持つ上で、必要であると考えています。現在の世界を歪ませている「悪い国家」の支配力が衰え、「悪い政治家」がいなくなり、「悪い政策」が撤回されれば、確かに人類社会は本来あるべき定常状態へと戻るのでしょう。しかし問題は、その「定常状態」というものがいかなる形をしているのか、ということです。私は、世界史全体のレベルで議論する限り、それはむしろ新自由主義のレジームに似ていると判断せざるを得ないと思います。これについては別稿をものしましたので、詳しい議論はそちらを参照していただきたいのですが、結論のみ引用すれば、「歴史は自由主義の社会主義に対する勝利によって『終わった』のではなく、産業資本主義もナショナリズムも福祉国家も経由せずに新(真?)自由主義的な中華<帝国>が成立した時点で、既に『終わっていた』」[1]のです。歴史を終わらせたのは、現在危機に瀕しつつあると言われるアメリカの(ネオ)リベラリズムの帝国ではなく、1000年以上前に成立した宋朝以降の近世中華帝国だったのであり、アメリカニゼーションという(それなりに見栄えのした)皮膜が毀れ落ちたとしても、そこに現れるのはより剥き出しのチャイナイゼーションの地金であって、どちらも新自由主義には変わりない。実際、欧米で標準的とされる概説書『新自由主義』は、冒頭から「ボルカー、レーガン、サッチャー、鄧小平」を対等の歴史的位置づけで列記し、「『中国的特色のある』新自由主義」として中国の改革・開放政策に一章を割いていますが、日本を扱う章はありません[2]。1970年代末から英米と中国とで「同時」に開始された新自由主義の時代とは、中国が日本に対して「先進国」であるという、かつての「前近代」と同様の状態へと回帰した時代だったのであり、今日もまた日本と世界は「中国化」に向かいつつある[3]――この認識に立てるかどうかが、マイノリティと差別の問題も含めて、公共・公益事業のあり方に対する有効な処方箋を書く上でも、決定的に重要であると考えます。 例えば新自由主義の教祖として、世界中で熱烈な礼讃と怨嗟の的になった経済学者ミルトン・フリードマンは、「人ではなく学校に補助金を出すやり方」よりも「人に補助金を出す制度の方が公正である」[4]と述べて、(私自身が現在勤務しているような形の)公立大学は不必要である、という提案をしていました。地域住民が廉価に進学できる地方公立大学を地元に作るというやり方よりも、同じお金を奨学金として個々人に配布し、他地域の大学や私立大学も含めてどこの大学に入学しても使える形にする方が、住民自身に選択の自由が与えられる点で、より望ましいのだと。また職業教育に関しても、「必要な教育資金を貸し与え将来の所得から一定比率を返済してもらう、一種の出世払い」形式の教育ローンを、「株式ポートフォリオを組むようにして、いろいろな投資相手を組み合わせ…出世した借り手から投資資金を十分以上に回収し、身を結ばなかった投資の分を埋め合わせる」[5]という形で運用することで、公営の職業学校や専門学校は不要になると考えていました。日本でも安倍晋三政権下で論議を呼んだ教育バウチャー制は、基礎教育とこのような新しい教育システムとのいわば橋渡しとして、フリードマンが考案したものです。 このような「大胆な提案」は、しばしば感情的かつ本能的、すなわち条件反射的な追従や反発を招きがちです。しかし知性ある議論において重要なのは、この新自由主義的政策の権化ともいうべきフリードマンの構想が、歴史的に見れば実際には少しも「ラディカル」ではないこと、決してリバタリアンのまだ見ぬユートピアの夢ではないことを、認識することなのです。世界最初(そしておそらく最大)のメリトクラシーである「科挙」とは、まさしくそのようなものに他なりませんでした。戦後、日本人に最も広く読まれた歴史書のひとつである、宮崎市定の古典的著作において既に、「科挙の特長は、何よりもそれが教育を抜きにした官吏登用試験であるという点にある…金のかかる教育をすっかり民間に委譲して、民間で自然に育成された有為の人物を、ただ試験を行なうだけで政府の役に立てようというのである」[6]と、明確に指摘されているではありませんか。もちろん科挙時代の中国には「株式ポートフォリオ」こそありませんでしたが、その機能を代替していたのが父系血縁で繋がる宗族の相互扶助でした。均分相続の原則によって全土に散らばる一族から、優秀で見込みのありそうな子弟を発見して集中的に教育資金を投資し、めでたく科挙に合格すれば「出世した借り手から投資資金を十分以上に回収し、身を結ばなかった投資の分を埋め合わせ」て、宗族全体が繁栄を謳歌する仕組みだったのです[7]。そして、宋朝中国で確立されたこの科挙と宗族の組み合わせからなる政策パッケージの持続期間は、たかだか100年、200年の歴史しか持たない西洋近代の国民皆教育体制よりも、よくも悪くも遥かに長かった。橋下徹大阪府知事が昨年末、文部科学省との論争中に「大阪府教委は義務教育から撤退する」と口走った際[8]、それでしたらこういう実例がありますよといって宮崎の『科挙』を手渡してあげるブレーンなり批判者なりが出なかったらしいことを、私は残念に思います。 それでは、このように1000年も前から「真」自由主義を実践してきた近世中国において、マイノリティの問題はいかなる様相を示し、そこから今日いかなる示唆が得られるのでしょうか。興味深いのは、他の多くの論点については非常にあっけらかんと「市場化すれば(公営よりは)すべてよくなる」と断言する「新」自由主義者のフリードマンが、教育行政と人種差別解消という課題に関しては――彼自身がユダヤ移民の息子だったこともあってか[9]――やや屈折のある筆致を採っていることです。まず公立学校においては、「個人の好みや自由は認めなければならないと考える私のような人間は…ジレンマに直面する」と認めた上で、公権力による「強制的な人種分離か強制的な人種融合[か]という二つの悪のうちのどちらかを選ぶとなれば、それはもう融合以外の選択はあり得ない」として、多人種の共学制を主張します[10]。当然ながらフリードマンの論理としては、だからこそ教育も民営化して、人種分離と融合の別も含めて「子供を通わせる学校を両親が自由に選べるようにすること」が最善であるという自説が続くのですが、しかしその後でも「もちろんそれだけでなく、人種融合を掲げる学校が当たり前になってそうでない学校は村八分になるように、行動と言葉でもって訴えていかなければならない」[11]という留保をつけています。マイノリティに対する差別の問題は、市場化によって個々人の選択の自由を拡大するだけではなく、「行動と言葉」がなければ解決しないことを認めていたのです。 今日の日本においても、「国家政策が、すくなくとも建前としてはあったはずの福祉国家から、グローバリズムのもとの新自由主義へとおおきく切りかえられつつある。そのなかで行政闘争路線のもと同和対策事業を主たる課題としてきた戦後部落解放運動も、日本社会と部落民自身にたいして部落問題をあらたな語りで説明せねばならない」[12]という指摘がなされているように、行政の裁量によって(例えば公共事業の分配といった形で)マイノリティの共同体に対する公的補助を行うという、従来の差別解消政策の正当性が揺らぎ始めています。多文化共生の理念やアファーマティヴ・アクションの手法が十分に根づかないまま、「あらゆる個人が自らの能力によって競争している社会で、既存の組織化された特定の集団だけが公費による支援を受けるのは公正でない」というフリードマン型の(それ自体としては一定の合理性を持つ)政治倫理が普及したことで、差別の歴史を省みることもないままマイノリティの運動体をひとしなみに「利権屋」呼ばわりするような、かなり稚拙なバックラッシュさえ見られます。やや理論的な表現を借りれば、レイシズムの議論でいうところのいわゆる「新しい人種主義」[13]、ないし「差異を非公定的なものと捉えることで、差異から生ずるあらゆる帰結は、その差異を負う諸主体が、一種の自由競争市場で負う自己責任のようなものに転化する…『差異の管理の民営化体制』」[14]が生まれつつあるのです。 しかしここでも、歴史が「終わっていた」ことを思い出すことが重要です。公的な制度としては身分差別のない社会、したがって組織化されたマイノリティの共同体(というよりも、共同体一般)を内部に有さず、すべては個々人の才覚次第とされていた社会であった、近世中華帝国において、差別解消の問題はいかに取り組まれたのか。おそらくそこでの武器は、やはり「行動と言葉」であったと思われます。ここで想起するべきなのは、長く夷狄として蔑まれてきた満洲族の愛新覚羅氏が皇帝として即位した清朝において、華夷変態と呼ばれたかかる事態の正統化が、中国社会の伝統的な政治思想である儒教的な普遍主義の徹底化によって行われた、ということです。つまり、近世中国がそれまでずっと掲げてきた朱子学の教えというのは、全人類に遍く通用する(べき)世界普遍的な規範なのであるから、その儒教の徳と礼儀を身につけた人物なのであれば、「夷狄」が帝位についても何ら問題はなく、むしろ天理にかなった当然のことなのである、と[15]――これは、自由と(機会の)平等、多様性の間の連帯と絶えざるフロンティアの夢というアメリカ社会の伝統的理想の体現者であれば、マイノリティ出身者であっても米国の政治的指導者にして文化的象徴たり得るというのと、同じ論理です。黒人初のオバマ大統領の誕生を、私は心から喜ばしいと感じますが、しかしそれは人類史にとって何一つ「新しい」ことではありません。それはむしろ、アメリカ文明(そしてその背景にある近代西洋文明)が、400年近く遅れてようやっと、中華文明に追いついたということを示しているのです。 社会の実態においても、そこで語られる規範においても、「共同体」や「集団」の解消と「普遍」および「個人」への移行が不可逆的に進行していくであろう、今日の(ポスト)ネオリベラリズムすなわち「中国化」の世界。そのような社会がいかなる困難と苦痛に満ち、そしてそれに対抗し得るのがどのような「行動と言葉」であるのかを知るための指針は、かつて停滞的と見なされた前近代の中国の歴史のなかにあるといえるでしょう。ある研究書の一節をもじって言えば、「現代社会における共同体の不在を理解し難い人々は、中国社会を観察するのがよい」[16]。前近代の中国は、おそらくは遅れていたがために近代化に失敗したというよりも、進みすぎていたのです。そして、他ならぬここ日本の将来を考える上では、隣国にありながら日本の近世=伝統社会が中国のそれとはあらゆる面で正反対の構造を持ってきたこと、現在はその最終的な解体の局面にあることを認識し、日本列島上でこれまで幾度となく繰り返されてきた「中国化」のプロセスを見つめなおすこと――例えばマイノリティ研究の文脈でも著名な網野善彦の一連の著作なども、新たな光の下に見えてくることになるでしょう[17]――が、必須の作業になるだろうと思います[18]。皇帝専制の下で徹底した自由放任経済が採用された近世中国に多分に似通った、「独裁型市場経済」と呼ばれるチリのピノチェト政権を支援したことで非難を浴びながら、よもや歴史が1000年前の中国で「終わっていた」とは気づかず[19]、その後も伝統中国に酷似した社会を新自由主義の理想として語り続けたフリードマンを越えていく道は、東アジア史の中にこそあると確信するのです。 |
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[1] 拙稿「再近世化する世界? 東アジア史から見た国際社会論」大賀哲・杉田米行編『国際社会の意義と限界』国際書院、2008年、268頁。 [2] デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』渡辺治監訳、作品社、2007年(原著2005年)、9-10頁・5章。そのために、邦訳書では日本の事例は監訳者が「付録 日本の新自由主義」を執筆して補わなければならないほどだったのです。 [3] 専門家でもないお前にそんな突飛なことを言われても信用できない、という方がいらしたら、例えば下記の文献をお読みください。足立啓二『専制国家史論』柏書房、1998年、序・終章。野田宣雄『二十世紀をどう見るか』文春新書、1998年、7章。深尾葉子・安冨歩「市場と共同体」『歴史と地理 世界史の研究』202号、2005年、56頁。渡辺浩「トクヴィル氏、『アジア』へ」『UP』423号、2008年、25-27頁。園田茂人『不平等国家中国』中公新書、2008年、176-178頁。 [5] 同書、198頁。 [7] 科挙制度と宗族形成の影響関係については、井上徹『中国の宗族と国家の礼制』研文出版、2000年、75頁。一般向けのより簡明な解説としては、高島俊男『中国の大盗賊 完全版』講談社現代新書、2004年(初版1989年)、203-205頁。 [9] ラニー・エーベンシュタイン『最強の経済学者ミルトン・フリードマン』大野一訳、日経BP社、2008年(原著2007年)、17-19頁。 [10] 有言実行というべきか、フリードマン自身、自分の子供を黒人との共学校(より正確には、多人種・多宗教の統合学校)に通わせていたようです。同書、106頁。 [11] フリードマン、前掲書、222頁。 [12] 廣岡浄進「アジア太平洋戦争下の被差別部落における皇民化運動」黒川みどり編『<眼差される者>の近代』解放出版社、2007年、51頁。なお、同書に対する私の書評は、『大原社会問題研究所雑誌』596号、2008年、をご参照ください。 [13] この概念については、本ホームページ掲載の、戸邉秀明「歴史研究における『レイシズム』概念の活用可能性」(2008年)が最良の解説論文となっていますので、ご覧ください。 [15] 岸本美緒「東アジア・東南アジア伝統社会の形成」『岩波講座世界歴史13 東アジア・東南アジア伝統社会の形成』岩波書店、1998年、47-50頁。 [16] 足立啓二、前掲書、278頁。ただし、「現代」と「中国」を原文と入れ替えています。また、実際に中国社会(および中国思想)に対する観察の成果から、現代社会論における「共同体」概念の弊害を取り除こうとする議論として、安冨歩『生きるための経済学』NHKブックス、2008年、6章、が必読の内容です。 [17] 具体的にどう見えてくるのかについては、東京大学東洋文化研究所『東洋文化』89号(2009年3月近刊)に掲載予定の、安冨歩「communisからの離脱」、内田力「無縁論の出現 網野善彦と第二の戦後」、拙稿「無縁論の空転 網野善彦はいかに誤読されたか」をご覧ください。 [18] 現時点での私なりの見通しとしては、やはり近刊予定の、拙稿「中国化論序説 日本近現代史への一解釈」『愛知県立大学文学部論集』57号(日本文化学科編11号)、2009年3月、をご参照ください。 [19] 死の前年、2005年のインタヴューでフリードマンは、中国においても経済発展に伴って近代西洋的な「政治の自由化」が進むという展望を楽観的に語ったほか、「歴史の終わり」という概念自体を否定しています。エーベンシュタイン、前掲書、321・326頁。 |