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2008.03.03
書籍・ビデオ案内
 
Human Rights 2007年11月号(NO.236)
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『長吏文書』の世界

第2回 「垣外番」の権利

中尾 健次(なかお・けんじ 大阪教育大学教授)

悲田院長吏をはじめとする四カ所長吏は、大坂町奉行の支配にあって、市内のさまざまな治安対策の職務に従事していました。

大坂町奉行所には、「盗賊吟味方」という役職があります。東町奉行所・西町奉行所からそれぞれ2人ずつ、計4人の与力が配属されて、殺人や盗賊など刑事事件のほとんどを担当しています。これは、天明7年(1784)に正式の役職となりました。

四カ所長吏は、盗賊吟味方に小頭や若キ者を派遣し、犯罪の捜査や犯罪人の逮捕、また犯罪防止のための巡回などを行いました。おそらく、大坂町奉行所の与力だけでは、町々の末端まで吟味しきれなかったのでしょう。しかし、そのうち四カ所長吏だけでもまかない切れなくなり、各町々の「垣外番」が、しだいにその末端を担うようになっていきました。

また、大坂町奉行所の「定町廻り方」とともに、大坂の町々を毎日巡回する仕事にも付き添いました。「定町廻り方」は、東西の町奉行所から与力4人・同心4人が配属され、与力1人・同心1人が各町々を毎日巡回します。四カ所長吏は、この巡回に小頭1人・若キ者1名を付き添わせます。この「定町廻り方」は、「盗賊吟味方」より1年遅れて、天明8年(1785)からスタートしました。当時、大坂では、盗賊が横行し、大坂町奉行所では、その対策に追われていたといいます。

ところで、大坂町奉行所の職務への協力としては、この二つがもっとも基本的なものでしたが、その職務を、より綿密にこなすために利用されたのが、すでに各町々に置かれていた「垣外番」でした。「垣外番」は、四カ所長吏の支配下にあって、大坂三郷(「大坂市内」のこと)の町々に派遣され、現在の「交番所」に当たる仕事をおこなっていました。犯罪防止や道案内、町内の連絡係や、はては捨て子の世話など、その仕事は町内の隅々におよんでいます。したがって「垣外番」は、町の雑用係でもあり、また情報通でもありました(この「情報網」が、のちに重要な役割を果たすことになります)。

「垣外番」がいつごろから置かれたのか、じつははっきりしたことは、まだわからないのです。しかし、宝暦6年(1756)の『万代大坂町鑑』には、四カ所が「垣外番」を派遣している大坂三郷の町数が記されており、悲田院が214町、道頓堀が150町、鳶田が109町、天満が110町、その他が2町、計585町に「垣外番」が置かれています。つまり「垣外番」は、少なくとも宝暦6年(1756)まではさかのぼれることになります。大坂三郷の町数は、元禄13年(1700)が601町、天明2年(1782)ごろで620町といわれていますから、ほとんどの町に垣外番が置かれていたわけです。

ただ、各町々にすでに置かれていた「垣外番」が、しだいに四カ所長吏の支配下に組み込まれたのか、それとも、四カ所長吏が支配下の者たちを各町々へ派遣して、しだいに拡大していったものか、その関係はまだはっきりしません。しかし、「長吏文書」の研究によって、その起源についても、徐々に明らかになっていくものと思われます。

「垣外番」には、町からさまざまな収入が見込まれました。本来の職務である「垣外番」に対しては、「垣外番賃」が支給されました。もっとも、町が豊かか貧しいかによって、その賃金にはおおきな差がありました。

たとえば、年不詳の史料ですが、津村南之町(現在の大阪市中央区備後町)では、垣外番賃と飯料で1カ月に銭2貫900文、拍子木番賃として1カ月に4貫500文、垣外番の油代として1カ月に148文、計7貫548文が支給されていました。年収は銭90貫576文になります。金1両を銭4貫とすれば、22.6両。1両を20万円とすれば約452万円に相当します。これなら、現在の平均的なサラリーマン程度の生活水準となりますが、これを固定給に、さらにさまざまな臨時収入が付け加えられます。

たとえば、町で冠婚葬祭があったときには、吉凶祝儀の「こころざし」が支給されました。また、もともと「非人」の仕事とされていた門付け芸(節季候・大黒舞・鳥追い。年末や正月に各家々をまわり、祝儀をもらう)の代わりに、米や銭を受けとって「四カ所札」と呼ばれる札を家に張り、その家からは祝儀はもらわない決まりになっていました。

各家々も、暮れや正月のいそがしいときに門付けに来られて、祝儀を渡すより気が楽ですので、札を買う家がほとんどでした。これらの臨時収入を加えれば、かなりの収入になったのではないでしょうか。

その基本給が、「垣外番」に伴う収入ですので、「垣外番」の権利は、しだいに「株」(番株)として売買されたり、相続の対象ともなっていきました。

「長吏文書」では、寛政7年(1795)以降、「番株」に関する史料が残されており、この段階ですでに、「番株」が権利として成立していたことがわかります。

ここでは、文化9年(1812)の史料を紹介します。安堂寺町(現在、大阪市中央区安堂寺町)1丁目の「番株」は、若キ者の三平が持っていましたが、いろいろ勝手な行いがあるとのことで、萬屋甚助が、銀2貫目で譲り受けることになりました。銀2貫目といえば、金で約33両になります。現在の貨幣価値で660万円ですから、萬屋甚助にすれば、それだけの金を支払っても値打ちのある買い物だったのでしょう。バブルの時代のゴルフ場会員権を思い出します。

長吏には、こうした「垣外番」から上納金が納められ、その収入がさらに膨大なものとなったことは、容易に想像できます。

その結果、長吏の地位をめぐって、さまざまないさかいが起こります。とくに「長吏文書」では、明和6年(1769)の悲田院長吏・善十郎の家督相続をめぐるいざこざがあり、長期にわたってもめ事が続きます。

これについては、前回も紹介しました高久智広さんの「近世後期天王寺長吏林家における相続をめぐって」(『部落解放研究』168号・169号)で、くわしく紹介されておりますので、ご参照いただきたいと思います。