九人目の出産で亡くなった実母
私には母が四人いたのです。実母と、後添いの母二人と、もう一人「おばさん」と呼んでいた父の愛人です。ずいぶん、こみ入った家庭と思われるでしょうね。でも、それが、一向に苦になりませんでした。被差別部落に生まれ育った女性と、部落外で生まれ育った女性が、それぞれ二人ずつでしたが、四人とも良くできた人だったからです。
私を産んだ母は二一歳の時、今のJR土讃線のトンネル工事現場で働いていた父と知り合って結婚しました。父はまだ一九歳でした。祖父母は息子が年上の女を連れ帰ったのが気に入らず、母に辛く当たることもあったようです。その状態は私が小学校に上がってから、父の妹から聞かされました。母はそんなことはみじんも見せず、両親を大切にしていました。ある日、母から浪曲の券を祖父に持って行ってと言われた時、祖父に「昔、母さんをいじめたろう」といったことがありました。
もと住んでいた五〇戸ほどの部落では、私が三歳の時六割ほど焼ける大火事があり、うちも類焼しました。父は、これを機に近くの三〇〇戸ぐらいの部落と部落外の境目に小さな家を建て、散髪屋を始めました。器用な人でしたので、あちこちに働きにいっているうちに、いつのまにか見よう見まねで技術を覚え込んでいたのです。
しかし、お客さんは、たいがい生活が不安定な部落の人たちで、現金で散髪料を払う人は少なく、貧乏暮らしは相変わらずでした。冬場などは、父も母も山から採ってきたシダでかごを編んで売り、家計の足しにしていました。
子どもだけは確実にふえてゆき、実母は私が二一歳の時、九人目の出産に異常があって亡くなりました。一九三七年、昭和でいうと一二年のことです。三七歳でした。母子とも助からず、医者は「早くわかっていれば手の打ちようもあったが…」と言いました。同じ母から無事に生まれた八人のうち、姉をはじめ三人が誕生日までに世を去っており、三歳上の兄、私、妹、弟二人と父が残されました。
二人目の母との出会いと別れ
つれあいを失った父は、まだ三五歳でした。散髪にくるお客さんたちに、「子どもが五人もいては、後添いにきてくれる人などあるはずもないし…」と嘆いていました。あるお年寄りがそれを聞いて、「賢い男やと思うていたが、存外にあほうやのう。正(しょう)のことを正と言うて、だれが来るものかや。二人ばぁと言え、ばぁと」と知恵をつけてくれたそうです。ばか正直にほんまのところを言わずに、ぼやかして子どもは二人ばかりと言うて話を持ってゆくもんや、と教えてくれたのですね。
それで、一二、三キロ離れた部落の女性と見合いをし、くどき落として、その晩に家に連れて来ました。しかし、二階六畳間だけの住まいに五人の子どもが寝ています。父は「隣の子たちが泊まりに来ている」とごまかしましたが、朝になっても食膳に五人の子どもが顔を並べるのですからね。うそは、たちまちにばれます。
義母の実家では、娘をだまして連れ去ったと怒り、七人ほどの男の人たちをよこして、その日のうちに義母を取り返していきました。父は何度も使いを立てて謝り、ようやく、許してもらって、義母を正式に後添いに迎えることができましたが、再婚に反対だった兄は、ふんがいして大阪に働きに行ってしまいました。
続いて私も高等小学校を中途でやめてK製糸に勤め、寄宿舎に入りました。また、下の弟は子どもがいなかった親戚の養子に行きました。さらに一年ほどたって、妹も小学校六年を終えてKに入り、寄宿舎暮らしになりました。家に残った子は上の弟一人だけ、ということになったのです。
義母は私が休暇などで帰宅すると、お互いに気を遣わずにすむように、「益ちゃん、まかせたよ」と言って、実家に出かけました。私は、そんな配慮がうれしくて、会社から夏冬、ボーナス代わりに支給される反物をほとんどみな義母の着物にしていました。
ところが私は、Kに勤めて三年目に肺浸潤になって家にもどり、妹も「姉さんが辞めるなら私も…」と言って帰ってきました。そのうえ、大阪から兄が脚気になって帰り、下の弟も養子先に実子が生まれたためもどってきました。これで、たちまち、元のもくあみです。義母は「五人もの母親はとても務まりません。私には無理です」と言い、父と別れることになりました。
そうと決まってから、急病で入院し、手術を受け、病院から実家に帰りました。父は入院から退院後の養生までの費用すべてを義母に送りました。それに私たちがKで働いていた間、家に入れていた給料とたりない分を借金して送ったのです。
そのとき父は、次のように言いました。「出会いなら、たとえ、けんかから始まったとしても、あとから仲良うなることがいくらもある。しかし、再び会うことのない別れは、それっきりで、やり直しがきかない。嫌な別れ方をしたら一生、悔いが残るやないか。それで、あんたらが稼いだお金まで送ってしもうた。わかってもらいたい」
なるほど、と思いました。私は今、よく周囲の人たちに「出会いより別れを大切に」と申しますが、それは、あの時の父の言葉が忘れられないからです。
三人目の母から新たな妹二人
父がいろいろな現場で働いていたころは、日本の労働運動が急速に発展した時期で、その波は高知にも及んできていました。また、私が生まれる二年前には全国水平社が結成され、京都で開かれた創立大会に参加した人々が高知でも部落解放運動に力を注ぎ始めました。父は、このような労働運動、解放運動の息吹きに触れ、指導的な人々と交際していました。その一人が戦後、長らく高知市長を努めた氏原一郎さんでした。
氏原さんは、父が後添いに去られて困っているのを見るに見かね、お宅の近くの女性を紹介してくれました。夫と死別し、着物やふとん地の洗い張りで、養父と親子二人の生計を立てていた部落外の人でした。父は部落の出身であることをはっきりと打ち明けたのですが、クリスチャンだった先方のお父さんは、「神の前にはみな平等です」と言って、娘との結婚をゆるしたということです。
三人目の母と父の間には女の子が二人生まれました。この母も穏やかな人柄で、義理の子である私たちとの間柄も良く、腹違いの妹たちも私たちに親しんでくれました。今、私は、この義妹の一人と隣合わせに住んでいます。彼女は仕事で家にいないことが多い私に代わって、良く孫たちの面倒を見てくれます。
もっとも、三人目の母は晩年、がんで入院したとき、やはり入院していた近所の人に、「益子さんが毎日のように見舞いに来てくれるのはありがたいが、そのために看護婦さんやお医者さんが私を同和地区の生まれと勘違いしているらしい」とこぼしていたそうです。
このことを近所の人から聞いた義妹は、実母の差別意識に腹を立てて私に知らせてくれました。義妹に対しては感情の高ぶりを押えて、「お母さんは重い病気なんやから、怒らないで」と言うたのですが、「義理の親子とはいえ、四〇年近く信じあってきた仲なのに」と悲しくて、解放同盟の事務所に仕事で出て行くと涙があふれます。ところが居合わせた大先輩二人に「そんなことなら、もう見舞いに行きなや」と言われると、「先輩なら、『余命いくばくもない年寄りのことじゃきに、こらえてあげや』とさとしてくれるのがほんまやないか。それなのに、私にまだ腹を立てさす気かね」と猛烈に反発しました。
その後、二か月ほどで義母は亡くなりましたが、私は結局、最後まで見舞いを欠かしませんでした。義母は自分自身に差別意識を残したまま世を去ったのかも知れません。しかし、実の娘なのに母の差別意識を許そうとしなかった義妹との信頼関係は、このことがあって、かえって強まったように思います。
戸惑いつつ親しんだ四人目の“母”
腹違いの妹たちが、まだ六歳と五歳のころ、兄が「親父に愛人がいる」と怒って帰ってきました。三人目の母はいい人でしたが、父にとっては穏やかすぎて、物足りなかったらしいのです。そのとき二六歳の私は、三歳の次男をおんぶして父の愛人を訪ね、後添いの母や幼い妹たちのことを話して、別れてほしいと頼みました。その人は「お兄さんが私をたたいて無理に別れさせようとしたので、意地になって別れるものかと思うていましたが、話を聞いて事情はようわかりました。私の方から身を引きます」と言って、数日後、姿を消してしまいました。
しかし、父は、その人をあきらめきれず、九州の親類に身を寄せていたのを捜し当てて高知に連れもどしました。そして、お酒を飲んで私に「生涯をかけて愛する人が、家庭の外にできてしまったしんどさをわかってくれ」と言って泣きました。父の男泣きなんて初めてみる姿です。どうやら、ほんとうに愛しているのだと考えるほかなく、それ以上は反対できませんでした。
それでも父の正式の妻は義母ですから、その人を「お母さん」と呼ぶわけにはいきません。「おばさん」と呼ぶことにしました。おばさんには、私より少し若くて、すでに警察に勤めていた息子さんがいました。この息子さんは母親を許すことができなくて親子の縁を断ってしまいました。他に頼れる人がいなくなったおばさんと父の仲はますます深まり、それこそ相思相愛で、約一〇年後、父の最期を看取ったのも、この人でした。
私はおばさんを四人目の母と思っていましたから、父の遺産は四等分して義母、おばさんと弟二人に分けました。二一年後におばさんが亡くなるまで、つきあいは絶えず、最後の入院先の集中治療室でも出張ったから帰ったら必ず三、四日ほど看病する約束をし、上京しましたが、出張中に亡くなりました。
私は「四人の母」に恵まれたというべきなのでしょう。母が一人だけだったら、決してわからなかったと思われる人情の機微を知ることができたからです。
独特だった父の子育て
父のことは、すでにだいぶ触れましたから、どんな人だったが想像がつくでしょう?そうなんです。進歩的で社会の新しい動きに敏感なのに、反面では昔気質で一徹でした。三人目のつれあいがいるのに、愛人をつくってのめり込んだのも、その表れでしょう。
私が小学校五、六年のころ、「男だったら進学させるところだが、女が学問をしても嫁にもらい手がなくなるだけだ」としばしば言っていました。世間一般の男性が、まだ、そういう感覚の時代でした。労働組合や水平社の運動に早くからかかわっていた父も、この点では例外でなかったのです。でも、古い人間と一面的に決めつけるなら、それはまちがいでしょう。
父の村上亀義という名前が、高知市民図書館から一九七一年に出た『高知県人名辞典』に入っていると聞き、その書物を開いてみると、経歴が次のように記されていました。
「理髪業を本職としたが、早くから無産運動に志を寄せ、昭和四年(一九二九)社会民衆党に入り、翌年、氏原一郎が同党から除名されて結成した勤労同志会に参加。昭和九年、総同盟に入り、主事として各種争議、選挙運動の指導・応援に終生活動した」
ここに出てくる氏原さんは、さきほど触れたように、父に三人目の母を紹介した方です。戦後、長く高知市長を務めて革新市政の信用を高め、後継者にも恵まれて、高知市では現在もなお革新市政が維持されています。これまで、父のことを語ることは、あまりなかったのですが、この事典のような歴史的評価があることを知り、娘としては、やはりうれしく感無量です。
父は私を女学校などにやろうとはしませんでしだか、女は何も知らなくていいのだ、と考えていたのではなかったようです。小学生の時から、いろいろな仕事を私に言いつけました。近くのNセメントの原石山で働いている人たちの給料日に、ツケの散髪料の集金に行くのも、当時の私の仕事でした。
この山の石割りと原石運びの荷車引きが、当時の部落では一番いい仕事だったので、私は小さい時から、おとなになったら石割りか荷車引きをする、と言っていました。むろん、男の仕事ですが、自分にもやれると思っていました。
父は知り合いの土砂採集業者から、火薬使用許可を取る書類の作成を再々頼まれていました。でき上がった書類を警察署に持って行くのも私の役目でした。勉強は好きで、級長もしていましたから、父は書類運びぐらいなら任せられる、と思ったのかも知れません。しかし、それ以上に、普通こわいところと敬遠しがちな警察にも、当たり前に出入りできる強さを育てようとしたのだと思います。
子どもが言うことを聞かないと、たいがいの親は「巡査さんに来てもらう」とおどかしたものですが、父は労働運動に加わって警察の弾圧も体験していたせいか、そういう叱り方は決してしませんでした。日ごろ、「聞け万国の労働者」のメーデー歌を口ずさみ、私たちも歌詞を自然と覚えました。そんなでしたから、娘を警察へ使いに出したのも、警察を恐れる必要はない、恐れてはならぬ、と教えるためだったに違いないのです。
製糸工場で働き、胸を病む
私の家は三〇〇戸、一〇〇〇人ぐらいの部落の出入り口に位置していたのですが、そのころは、前の道を背広姿で前を通る人など、ついぞ見かけなかったんです。小学校の高学年になったころ、ようやく一〇歳ぐらい上の青年が職業紹介所の職員になりました。この人が、その部落の公務員第一号で、それまでサラリーマンは皆無という状態でした。この公務員第一号さんが、困り切って父に相談に来たことがありました。私が六年生の時でした。N生命からの求人に対して、五、六年後輩の部落の青年を紹介したところ、「エタの子を採れとは何ごと」と言われた、と言うのです。
父が事情を調べると、役場の戸籍係が会社に身元を教えたことがわかり、村長の責任を問う大がかりな抗議集会が開かれました。ことが大きくなってN生命も驚き、「紹介通りに雇うので、村長退陣の要求は降ろしてほしい。ただ、勤務地が高知では本人もしんどかろう。大阪で働いてもらう」と妥協を申し入れてきました。
就職差別を受けた当人は、部落出身と知られて採用されても職場に居づらいだけではないか、と心配しましたが、父に「後輩のためにがんばれ」と励まされて入社し、よくがんばって定年まで勤務されました。幼いころ、こういったでき事を通して、差別と闘う父の姿を見ていたことは、その後の私の歩みに大きな影響を与えたといえます。
実母が亡くなる直前、六年生の三学期早々に、また家が焼けました。今度は私の責任でした。近所の子どもたちを集めて勉強を教えていた時、天井からぶら下がっている電灯が邪魔なので推し入れに放り込んだのです。時間給電の契約で、夕方六時ごろから送電されることになっていたのを知りませんでした。その後、妹と弟を連れて、例のように散髪代の集金に出かけていた間に、送電契約の時間が来てしまい、電球が加熱して出火したのでした。
「あんたとこが焼けよる」と言われ、あわてて帰ってくると、見物人が騒いでいます。「見てないで消してやー」と叫びました。後で近所の人たちから「腰も抜かさずに、見てないで消せというから、みんなが、あ、そうよと気づいた。おんし(お前)は、なかなか元気者じゃ」とほめられました。
父がたばこの不始末ということにして責任をとり、私の失敗が原因であることは伏せられていましたから、ほめられても何ともはや、複雑な気持ちでした。
高等小学校の途中からK製糸に勤め、女子工員をしていたことは、前に言った通りですが、就職差別はなかったのか、と不思議に思われる向きもあることでしょう。むろん、あったのです。会社といえば、部落出身者は雇わないのがごく普通の時代でしたが、とりわけK製糸は絶対に雇わない、と言われていました。
そこに私が採用されたのは、高等小学校二年の夏休みに、アルバイトに行った製紙会社の経営者が、もとK製糸の工場長で、「よく気のつく子だ」と紹介してくれたからです。今から二〇年ほど前に身元調査の差別性が問題になるまで、日本の企業は採用手続きの中でも特に身元調べを重視していました。ところが、その工場長さんはKに絶大な信用があったので、私については、あらためて身元調べをする必要はない、ということですんでしまったのです。
無事に採用され、工場の寄宿舎に入りました。しかし、その後が大変でした。勤務時間は朝六時から夕方六時まで。外へ手紙を出すのは禁じられており、外出の時、帯の間にはさんで、ひそかに持ち出していました。中国との戦争が長引き、人手不足がひどくなっていたころで、新しい働き手を連れてきたら手当をくれるということでした。
そこで、部落の親友二人を会社に紹介したところ、まもなく人事課に呼び出され、七、八人のお歴々から、「由緒あるKに、あんな地区の子は困る。普通の地区の子を頼みます」と言われました。
これで、私が部落の生まれであることも、おのずから明らかになってしまったようでした。それを理由に解雇することは、さすがのKもしませんでしたが、そのころ事務員をしていた女性から後年、「あの時は、次第に、みずから退職するように仕向けることになっていました」と聞きました。会社のずる賢く、巧妙なやり方を知って驚きました。寄宿舎で物がなくなると、すぐ疑いをかけられ、実際に盗んだ人がはっきりするまで悩み続けました。採用されてから二年半後、検診で肺浸潤と診断され、家に送り返されました。父は「大事な娘を大資本に使い捨てにされた」と嘆き、怒りました。
牛と同居の新婚生活
一年ほど療養して回復し、散髪の仕事やかごづくりの内職を手伝いながら理容学校に通いました。理容師修行の半ばごろ、一七歳の私に縁談が持ち込まれました。相手は私の家の隣にあった荷馬車屋さんの弟で二三歳。大阪で働いていましたが、片方の目が不自由なので軍隊に行かずにすみ、兄さんの仕事を手伝いに帰郷していたのです。家が隣どうしですから顔見知りだったことは確かですが、それ以上のつきあいはしていませんでした。
縁談を取りもった近所のおばさんは、彼と私が似合いの夫婦になると信じ込み、早く添わせようと思って、どうやら父に「二人はもう深い仲だ」と言ったんです。部落外の人で、とことん親切なのですが、時として、いきすぎることがあるのです。
父は、信じていた娘なのに、ふしだらな!と、かんかんになって怒り、私に「明日、ちゃんと結婚せよ」と命じました。おまけに、顔も見たくないから、近くに住むな、と申し渡しました。一徹というか、一本気というか、土佐の「いごっそう」には、こういうところがありますねぇ。
そんなわけで、結納も抜きであわただしく、山間部の夫の郷里に住むことになりました。新居は何と戸板一枚を境に牛と同居の小屋でした。三畳の部屋で新婚生活が始まりました。私はシダかごを編み、夫は石炭石運びの馬車引きや山林の日雇い仕事に出て暮らしました。でも、山あいでは仕事の量が限られており、夫は三日ほど働いては失業という状態が続きました。そんな苦しい生活の中で長男が生まれました。
そこは二〇戸ほどの小さな部落でしたが、生活の苦しさはどの家も大同小異で、私たちが住んでから七、八戸が旧満州に移住しました。夫の兄の一家も、敗戦の年の五月に行きました。
そのころ、私たちは「近くにおるな」という父の怒りも静まったため、実家に近い祖母の家の軒先に、四畳ほどの部屋を継ぎたして移り住んでいました。夫は「自分たちも満州に行こう」と言いましたが、父が「向こうに着くころ、日本は無条件降伏だ」とまっこうから反対したので取りやめました。父には、もう戦争の結末が見えていたのでしょう。実際、五月に出発した兄たちは、現地に着くとすぐ敗戦となり、一家はばらばらになって、兄自身はついに帰ってきませんでした。一番下の子は中国人に育てられ、いわゆる残留孤児の一人として数年前に、ようやく帰国しました。
戦後しばらくたって次男が生まれました。市内に移っても、夫の日雇い仕事がいつもあるとは限らず、しかも戦後の混乱期のインフレがはなはだしく、どん底の生活でした。私は散髪の手伝いや、かごづくりを続けていました。夫は富山、長野のダム工事やスキー場のリフト建設に出稼ぎに行くようになりました。
失対の運動から解放運動へ
一九四九年から失業対策事業が始まり、就労できるのは「主たる家計担当者のみ」ということでしたが、私は「夫が肺結核で働けない」ということにして応募しました。同じようにして、近所の仲間の女性五、六人が応募したのですが、採用されたのは私だけで、翌年三月から就労することができました。
ただ、困ったのは、以来、保健婦さんが毎月、夫の健康状態を定期的に調べに来るようになったことです。そのたびに適当に取りつくろって無事にすみましたが、人によっては夫婦のままでは一緒に就労できないため、形式的に離婚届けを出して応募するなど、ずいぶん苦心したものです。
だんだんわかったことですが、こんなにまでして失対で働こうとするのも部落差別のためだったのです。部落外の人たちは、定職を失って不本意ながら失対に「落ちぶれて」くるので世間体をはばかり、手ぬぐいで顔を隠したりしていました。ところが、安定した職場から締め出され続けてきた私たちにとって、失対は就労適格者と認められれば赤飯を炊いて祝うほど実に得がたい仕事でした。
失対では道路の修繕や、戦災復興都市計画に沿った焼け跡の整地、競輪場建設などをしていました。都市計画事業の現場は楽だが、競輪場などの現場は仕事がきついと言われていました。条件のいい現場に振り当ててもらうには、朝六時に家を出て高知城のそばの職安の労働出張所まで徒歩六キロの道を急がなければなりません。七時ごろには着いていないと、就労先選びは先着順ですから、きついところしか行けなくなってしまうのです。
工事用の川砂を採取していた現場などトイレがなく、女性の就労者は本当に困りました。失対労働者の組合ができ、このような問題に取り組みました。私も組合に参加し、次第に活動家になって行きました。日雇い健保なども要求して実現することができましたが、とりわけ誇らしく思うのは高知市の失対について男女同一労働・同一賃金を勝ち取ったことです。失対労働者の全国組織・全日本自由労組(全日自労)の運動の中でも、他に例のない成果でした。
この間、一九五六年に部落解放同盟高知県連合会が発足し、五九年には県連書記長だった藤沢喜郎さんが高知市議会議員選挙に革新系無所属で立候補しました。その時、初めて高知にも解放同盟があることを知り、藤沢さんの選挙を応援しました。しかし、実を言うと私自身は全日自労と密接な間柄だった共産党候補に投票したのです。幸いにして、藤沢さんは私の一票がなくても当選しました。近年、日本共産党は部落解放同盟を憎むあまり、私のような者まで目の敵にし、私を被告に仕立てた訴訟まで起こしていますが、もう少し冷静になってほしいものですね。
全日自労では、男性の幹部たちが男女同一労働・同一賃金の要求にいい顔をせず、解放同盟でも女性活動家を一人前に扱わない傾向がありました。労働運動も解放運動も男性本位で、不当な差別と闘っているはずなのに、組織内では女性差別が横行していたのでした。
しかし、藤沢さんは違っていました。高知市議になった後、解放同盟中央部の婦人対策部長を務め、女性活動家にどんどん仕事を任せて、おのずから解放運動の担い手に育つようにしました。私もそういうふうにしてきたえられ、藤沢さんが中央本部の副委員長になった後、七八年から七九年まで中央婦人対策部長を務めました。その後、中央本部の婦人対策部長は再び男性のポストとなり、近年になってようやく女性の手にもどりました。いくら何でも、もう逆もどりすることはないでしょうが、これからも女性活動家たちを育て、いっそうがんばってもらわなければと思います。
「子育てに失敗」の苦悩を超えて
私も解放運動から身を引こうと思ったことがあります。一九七〇年一月、長男に二五歳で先立たれ、続いて三歳下の次男が刑事事件で逮捕されるというショックを受けて、「まともに子を育てられなんだ者が、ふとい顔して人権とか解放とか言えたことか」と自己嫌悪に陥った時です。
ちょうど、その三月、高松市で部落解放第一五回婦人集会が開かれることになっており、私はその実行委員長として準備を進めていました。それを中途で放りだすわけにはいきません。しかし、それ以上、指導的な地位に居続けることはできない、と思いました。集会を無事に終えたら運動の第一線を退いて家庭に帰ろう、長男の遺した嫁を助け、孫二人を保育所に送り迎えして暮らそう、と考えました。
ところが、全国から約二〇〇〇人の仲間が参加した集会は、すばらしく盛り上がりました。前年の同和対策事業特別措置法制定などをきっかけとして解放運動が大きく広がり、めざましい成果をあげているとの報告が相次いだのです。私は考えが浅かったことを教えられました。私と同じような思いを味わう人を再び出さないために、生き恥をさらしても仲間とともに闘い続けるべきだ、という勇気がわいてきました。
五年後、高知市議を四期一六年にわたって務めた藤沢さんの後継者として市議選挙に出ました。私のような者では、と逃げ腰だったのですが、藤沢さんに「だからこそ出るべきだ。恥をしのんで自分の体験を率直に明かし、教育や福祉がどんなに大切かをうったえればよい。それが選挙闘争いうもんやないか」ときびしく励まされ、対立する勢力からは予想どおり、さんざんに攻撃されましたが、投票箱のふたが開かれると、思いがけないことにトップ当選でした。
以来、市議選には四回連続高位で当選し、八九年の高知県議補欠選挙でも当選。九一年の統一地方選挙で県議に再選されました。でも、県会議員四一人中、女性議員はまだ二人だけです。補欠選挙で当選し、初めて議会に出て行った時は、事務局の人が議員バッジを私の洋服のえりにつけるため千枚通しで穴を開けようとしました。あわてて止めてもらいましたが、背広のえりにねじで取り付ける男性用しかなかったからなのです。
七五年の国際婦人年を機に、解放同盟などは生活保護費の男女格差解消を厚生省に要求しました。厚生省の生活保護課長は、「男女の必要とするカロリーに差があるのだから、保護費に差がつくのは当然。現に僕の食べる量は女房よりはるかに多い」と言いました。ところが、昼休みになって一緒に職員食堂に行ったら、彼が買ったのはラーメンの食券。私たちが買ったのは定食。午後の交渉に出てきた社会局長にそのことを言うと、「うちの家内も僕よりたくさん食べます」とあっさり認めました。
こんなやりとりを重ねて七七年の夏、局長から「男女格差には問題があるとの指摘は正当だ。中央福祉審議会にはかり、来月四月をめどとして改正に努める」という一札を取りました。その後、格差解消は段階的に実行され、完全に解消されたのは八五年でした。
厚生省も私たちも、この間、いろいろと勉強しましたが、この男女格差はもともと生活保護法の前身の「恤救(じゅっきゅう)規則」という法令が一日の米の支給量を「男三合、女二合」としていたのを受け継いでいたのですね。この規則が制定されたのは一八七五年なので、私たちは男女格差を一一〇年ぶりになくすることができたわけです。衆議院の予算委員会で土井たか子さんが早急是正を要求して下さるなど、多くの女性が力を合わせた歴史的な闘いでした。
七〇年代の後半には、お産をする権利の保障を要求する闘いにも取り組みました。
児童福祉法第二二条は、出産の費用を払えないから子どもを生めないという妊産婦がいれば、知事や市町村長は助産施設に入所させ、お産ができるようにしなければならない、と定めています。ところが、近くに助産施設がない時は、この限りではない、とも付記しており、これが抜け穴となって、せっかくの規定が空文化していました。
そこで、このような妊産婦が利用できる助産施設を明らかにすることを県や高知市に要求し、市民病院、県立病院、国立病院を助産施設に指定させました。これも部落だけを対象とする制度ではありません。お産に困る経済的理由があると申請して認定された妊産婦なら、部落の内外を問わず利用できます。以来、私はおなかの大きい女性に会うと、「費用は大丈夫?」と声をかけます。「そんな制度があるの」と、ほっとした顔になる人が少なくありません。こうして、多くのお母さんたちと知り合い、親しくなりました。
ある時、四階建の改良住宅が手狭なので増築したいとの声が上がり、市役所に要求すると、いったん受け入れながら、「家賃の滞納者がいる。未払い分を完納するまで増築計画は立てられない」と断ってきました。「それなら完納しちゃろ」と呼びかけて一〇〇%納入を達成し、増築計画を実現することができました。そうしたら、水道料の滞納解消にも協力してほしい、と市役所から要請してきました。これも、同じようにして完納を果しました。
差別行政を追及し、解放行政を要求するとともに、勝ち取った住宅の家賃支払いや生業資金の返済をきちんと実行することは、部落解放運動の大原則でしょう。行政のやるべきことを運動が請け負い、代行するのは誤りでしょうが、同盟員は解放運動によって勝ち取った入居条件などの義務を当然に果すべきで、それ自体が解放運動だと思うのです。高知の部落解放運動が、対立勢力からさまざまな攻撃を受けても発展してきたのは、このような点を重んじてきたからだ、と私たちは自負しています。