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芸者に売られたこと

田中 カネ子

 私は、大正十三年、この日之出で生まれた。父親は、安定所の仕事をしていて、毎朝、仕事に出かけたが、よう、仕事にあふれて帰って来とった。母も、朝からマッチ会社へ働きに行った。

 上に兄ちゃんがおったけど、みんな男ばっかりで、私ひとり女の子やった。それで、物心ついたころから、用事は全部、私がやって来た。子もり、家の用事、そんなんを、ずっとして来た。弟をおんぶし、ごはんを食べさせながら、用事をみんなして来た。

 水道がなかったから、井戸で、弟をせおって、米を洗った。水かげんは教えてくれていたので、米を準備し、まきわって米をたいた。ある日、三時ごろ、マッチのくずが燃えてけむりがいっぱいになった。いおうが燃えて火事になりかけたんで、梅ちゃんのお母さんを呼んで消してもらったことがあった。……十才くらいのころとちがうかな。

 ちょうど遊びたいときや。弟をおんぶして、私も、おじゃみになるような布を買うて来てぬうたよ。ぬい方も、友達に教えてもらってぬった。私だけが、子もりをしたり、家の用事をして、学校に行かしてもらわんで、なんで、こんなことせなならんのかと思った。そして、家の用事だけでなく、おばあちゃんの家の水くみも、その家の用事もよくした。

 弟(二才下)は、小学校に行った。兄ちゃんも学校へ行っていた。私は、家がびんぼうやし、行きたいと思っても行かれへんかった。弟が、学校の本を読んでいたのを聞いて、「そこちゃうやろ」「こうやろ」と言ったりしていた。そうしているうちに、本に書いてあることばをおぼえていた。

 友達とは、夕方、いっしょに遊んだ。遊ぶ友達は、夕方にたくさんいた。昼の間は、友達がいなかった。みんな、学校へ行ったり、家の用事をしたりしていた。会社へ働きに行っている友達もいた。

 お母ちゃんは、朝から夕方まで帰って来ない。よう、会社に、ちち飲ませに行ったわ。よう通ったわ。毎日、朝一回と昼一回、ちち飲ませに行った。

 私が、用事せなんだら、家のものがこまるから、しょうことなしにやっていた。自分だって学校へ行きたかったよ。

 父親は、かせいで来たお金で、酒や自分の好きな物ばかりを買っていて、家には一銭も入れなかった。そのために、家はびんぼうで借金もふえていった。父親は、いつも、「女は学校へ行かんでもええ。家のために働いとったらええねん」と言っていた。

 私が十二才(今の小学校六年生)になったとき、父が私に、「奉公へ行け」と言った。私ぐらいの年になると、ほとんどの子が、奉公や会社に働きに行ってた。だから、私も、奉公に行くことを、最初は、いややなあと思ったが、どうしようもなかった。

 親は、奉公に行く先からもらったさき銭で借金を返したり、父の酒代にしていた。そのために、さき銭もすぐになくなってしまっていた。

 私が部落やというのを知ったのも、奉公に出たときだった。

 芸者屋のおとうさんが、家に来た。そして私は、住吉に奉公に出た。むこうで問われた時、「日之出です」「青物商売です」と言った。部落やというのは、親と芸者屋のおとうさんとの話でわかった。はっきり言わなくても、私は、小さいころから、家のことをいろいろしてきていたので、かんで、ピーンとわかった。部落やいうても、そこでは、差別されるわけではないので、別にどうも思わなかった。

 ことばが、日之出まる出しやから、よく注意されたし、大へん苦労した。その家の子が、「ションベンしよった」と言って、「ションベンてなこと言うたらだめ」と注意されたことがあった。だからことば使いや、れいぎさほうを、きびしくしつけられた。

 ほかの奉公に来てる子も、ほとんどが、部落出身やなと思った。うちの親と同じように親が、よく、金を借りに来たりしていた。みんな、私みたいに、びんぼう人の子やった。 奉公に行ったらすぐに、そうじ、洗たくをさせられた。ちょう面を持って買い物にも行った。

 そんなにしもって、半年ほどたったら、三味線の手ほどきを受けた。

 十五才になるまで、けいこをしたわ。そのとき、よくしかられたもんだ。三味線の糸がなみだで、三本が、五本にも六本にも見えた。はよう上達するように、人のねているまに起きて、毎日毎日、住吉さんにお参りした。  店のお母さんは、私が芸者になるのを楽しみにしてたんや。この子は、芸一本でやって行けるようにする言うて、歌やおどりや三味線をおぼえさせられた。習いごとは、大へんきびしかった。私が泣いていたら、「なんで泣いてんねん。そんななみだがあったら、ションベンでもこいとけ」言うて、しかられた。

 私は、字が書けないので、お客の注文や買い物のメモは、家のボンに書いてもらったり人の字をまねして書いていた。字は書かれへんけど、歌の練習の時に読み方をおぼえた。字が書かれへんゆうて、いつもはずかしい思いをしていた。

 芸者になるまで、お金は取られへん。仕込みのうちは、お客さんからチップをもらったり、お姐さんに、ときどきもらうお金を、私は、こづかいにしていた。

 親が来るゆうたら、銭取りや。私が少しずつためたこづかいを、せびりに来るんや。ほかの二人も同じようなびんぼう人やった。親が、よう、せびりに来とった。

 私の親が前借りした二百円は、私が一人前(芸者)になってから、五年間、働かな返されへん。その金も全部、お父つあんが持って帰って、はよう使ってしまっている。結局、身売りといっしょや。私は、早く芸者になろうと、ひっしやった。そして、前借りの分は、はよう返さなあかんと思っていた。

 そんなときに、母が病気だから、すぐに帰って来いといって、つかいの者が来た。帰ってみると、母は病気なんかでなく、ピンピンしていた。もうすでに、次の店へ行く話が決まってしまっとった。次の店とは、五百円で話がついていた。

 行った先は、今里のお茶屋だった。その時は、十六才になっていた。行った次の日に、三味線と踊りの試験を受けた。合格したので、芸者としてつとめることになった。

 初めての芸者である。大へんうれしかった。心がうきうきしていた。まげをゆって店へ出るのである。ねるときには、箱まくらだった。まくらをはずして、姐さんによくおこられた。気をつかって、最初は、なかなかねられなかった。

 ところで、芸者になったといってよろこんでいても、姐さん方の三味線に合わせて踊るだけだった。家では、毎日毎日、三味線の練習はするけれども、なかなか、ひかせてもらえなかった。

 こんな日が、二、三か月つづいた。ある日、知らないおくさん(次の店のおかみ)の座しきによばれ、そこで三味線をひかされた。

 しばらくすると、家へ帰って来いということで、帰ってみると、もう、次の所へ行く話になっとった。前のしゃっ金は、新しい所から前借りしてはらっていた。

 また、多くのしゃっ金をせおって働かなあかん。いつまでたっても、私は、自由にならない身なのである。大へんさびしくて、かなしかった。でも、しかたないと思ってがまんしとった。

 行き先は、京都府の丹後だった。館には、その時、芸者は、私一人だった。いなかなので、おししょうさんを大阪からよびよせて、三味線や踊りをならった。

 行ったやさきに、父親が、お金を取りに来た。そして、父親から、「満州へ行け」と言われた。私は、「死んでも行かん」と言ってことわった。いくら家のためだといっても、満州にまでは、よう行かなんだ。今、考えてみると、行かなくてよかったと思う。

 一年後に、父がなくなった。なくなるまでは、母親が何回も、何回も、お金、お金ゆうて、よく取りに来た。しまいには、父親が取りに来た。その時、「お金がいるので、妹も芸者にする」といったが、「きびしいしゅぎょうと長い年月をかけなければ芸者になれないし、自由にならない身になってしまうのは、私一人でけっこうだ」といって、やめさせた。そして、お金を店のお父さんから、百五十円借金して帰らせた。父親は、家に帰って、母親に、「あんな遠い所へ行かせて……」と言って、ないておこったらしい。てて親なりに、若い女の子をあんな遠い所へ行かせて、かわいそうだと思ってくれていたのだろう。

 母親も、むすめが、腹をすかさないようにといって、かげぜんをして、いのってくれたらしい。

 生活が苦しいため、しかたないけれど、親の子を思う気持ちは、どこの親でもいっしょなんだ。今になって、しみじみとわかってきた。

 てて親が死んだときには、親方は、そう式にも帰らせてくれなかった。一度帰ると、もう帰って来ないと思っていたのだろう。店にしゃっ金が多くあるので、むりを言わずに、汽車ちんをせつやくして、こづかいから三十円を送ってやった。

 今から思うと、親のそう式にも出られないなんて、残念でたまらない。どこの世界に、こんなむごいことがあろうか。そんな世の中に腹がたってしかたがない。部落差別のきびしさは、ここにもあるのだと、ひしひしと思う。

 てて親が死んだ後も、母親が、子どもを三人も四人もつれて、さいさい、お金を取りに来た。父はいないし、子どもも多いし、家がまずしいのでしかたがないと思って、お金をくめんしてやった。そのたんびに、自分のしゃっ金がふえて、自分自身が苦しくなっていった。

 いつまでたっても自由の身になれない。いっそのこと海にでもはまって、死んでしまおうかと思ったことさえあった。検番の主人が、「苦しいのは、あんただけではない。がんばらなあかん」と、よくはげましてくれた。こんなのは、私だけではなかった。友だちの中には、しゃっ金がだんだんかさみ、どうしようももなくなって、満州へ行ってしまった人もいた。

 自分は、ひっしで働いた。働いても、働いても、しゃっ金はへらなかった。五年の年きが明けても、けい約したお金しか返したことにならないのだ。座しきに出ても、花代はみな親方のものになってしまう。

 年きが明けたときは、まだ、しゃっ金がたくさん残っていた。これは、昭和二十年のことだった。

(『胸いっぱいの思いを』部落解放同盟中央本部編、解放出版社、1985年11月、より)