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私のおいたちと部落民としてのアイデンティティ

松岡 とおる

Q.生まれは?

  1951年、大阪の西成で生まれ、西成で育った。

Q.前年のジェーン台風で西成の部落も大変な被害にあった?

  木津川と長橋の13間堀川が氾濫し、床上浸水どころではなかった。屋根がすこし見える程度だったらしい。氾濫した川の水が部落に集まるという問題も、被害を大きくした。

  隣は豚小屋で、4畳半1間に家族6人の生活。共同便所、共同水道だった。まわりがみなそうだった。

  困ったのは小学校にいったとき。教科書は隣の兄ちゃんか姉ちゃんの教科書を新聞紙でカバーして持っていった。先生が何ページをあけなさいといってもページが合わない、古い教科書だった。それでものすごく嫌な思いをした。

  また、給食費が払えず小学校の1年、2年生のときは食べられなかった。小学校3年生頃に教育闘争で補助制度ができ、まず教科書が支給され、給食費も補助されるようになり、3年生の終りころから食べられるようになった。

Q.当時、給食費を忘れた児童に「給食費を忘れました」などというプラカードを持たす「プラカード事件」がありましたね?

  4年生のときプラカード事件があって、経験者だ。プラカードをつけて校庭を10周する。みんな授業しているなかで。紙のとんがり帽子をかぶらされて廊下に立たされたこともある。先生に、給食費はと聞かれると「忘れました」と答えていた。親が「忘れましたといえ」という。それで、プラカードを持たされる。

  それが2か月、3か月つづくと先生は家に「取りにいってこい」という。家に帰っても給食費はないことはわかっているので、1日中、学校にもどらない、ということもあった。

Q.高校進学は?

  ちょうど高校にいくときに「浪速育英資金」ができた。いまの大阪市の奨学育英資金の前身。それで進学することができた。2歳上の姉は制度がなく、いけなかった。そのときに「高校友の会」が生まれた。第1回の奈良全奨(1967年)に参加したのを覚えている。

Q.1950年代の末頃から、西成では大衆的な運動が高まってきますね?

  西成では住宅闘争が始まった。矢田とか日之出の部落では教育闘争が始まった。大阪ではじめて部落向け住宅ができたのは、西成と矢田だった。小学校3年生のとき引越した。それが「同和向け市営住宅」だった。親が住宅要求闘争に参加していた。

Q.部屋といっても、4畳半と6畳ですね?

  トイレもついているしベランダもある。
  夢みたいな住宅だった。3年生の新学期からだった。いまでも忘れない。

  運動に入ったきっかけは、高校奨学金をもらってからだ。これで高校に行けた。大学へもいきたかったがいけなかった。

Q.経済的な問題で?

  そう。弟と妹がいるし、靴職人をはじめ職を転てんとしていた親父は体を悪くして働けなかった。浪人してでもいきたかったので、高校の就職指導は受けなかった。自分の力で大学へいこうと思っていたが、そんな訳にはいかなくなった。

  卒業間近の3月に新聞広告を見て就職試験を受けにいった。そのとき露骨な差別を受けた。住所を聞かれて「西成」といったら「あそこは汚いところ」といわれ、試験を落とされ、大きなショックを受けた。卒業後、同族会社で少し勤めたが、そのあと仕事を転てんとした。

Q.勤まらなかったのは……?

  自分のやりたいことではなかったということだろうな。

  最初の仕事が決まったとき、就職支度金をもらった。あのとき6万円位くれた。それで母親と背広を買いにいった。しかし、就職しても経済力がなかったらついてゆけないことがわかった。夏も冬も同じ背広でとおした。ほかの背広を買う余裕がなかったからだ。ほかの職員は、またあいつ同じ背広を着ているということで離れていくんやな。そのことは肌身で感じた。あのとき思った。就職支度金というのは大事な制度だったということを。

そのころ高校友の会の1期生が青年部を再建した。就職していたから1年遅れで青年部に入った。

Q.外へでて差別に出会って、自分自身のアイデンティティは部落民である、ということを感じたからですか?

  そう、青年部に入ったということは。自分が部落民であることから逃げられないというか、それと悔しさというのをずっともっていた。青年部は、その気持ちを共有できる、落ち着くことができる場だった、仲間がいる、という。青年部の申込書に名前を書いたときに、やっと吹っ切れたという思いがあった。

  その後、青少年指導員を3年やった。また、市内ブロックのオルグが不在になり、私がなった。75年、24歳だった。

  75年というのは行政闘争が盛んだった。大阪市内の各支部の要求がどんどん高まり行政交渉がつづいた。支部ごとに対市交渉をし、徹夜の交渉が連日つづいた。体はきつかったが、市内の各支部の実情、運動のあり方などの全体が理解できるようになってきた。

その頃の府連は、生まれ立ての支部がたくさんあったが、市内ブロックの運動が府内の各支部、市町村に影響を与えていた。だから市内ブロックでの論議は、きわめてシビアだった。これもええ勉強になった。こうした組織の関係の裏方で20余年やってきた。

Q.府連と支部で活動しながら吉田信太郎さんのあとを継ぐということで、91年の市会議員選挙に望んだわけですね?

  91年の選挙で大阪市議会議員となった。このとき、支部の体制も大きく変わり、府連の執行部にはいった。同時に書記次長になった。それから書記長になり、現在の府連委員長になった。

Q.府連書記長のとき中央執行委員になったんですが、そのときの抱負は?

  組織を長く見てきたので、組織部をつくって組織活動を強化したいと思っていた。主張の対立が組織対立にならないように議論をつくす重要性を感じていた。組織がまとめられなかったら希望を与えることができない。

Q.府連時代にあちこちにオルグなどにいった経験を豊富化し、普遍化し、いろいろな人にもっと理解してもらいたい。多様性の時代にあった形態、論議をとことんやろう、ということですね。ところで、継続審議になった「人権擁護法案」については?

  この法案は、17年間の「部落解放基本法」制定の闘いの到達点から出てきたものだ。われわれは、部落問題解決のために、国が責任をもった法律をつくること、責任をはたすことができるような法案にしろ、という闘いをしている。それと、同時に、国際社会にたいする日本の責任をはたすことでもある。

  法案は、第154回通常国会では、1度も審議されていない。今回は11月7日と14日に審議し、議事録にも残された。委員会論議のなかでも、抜本修正ということの正しさが、明らかになったと思う。われわれは着実に、政府を追い込んできている。2003年の大きな闘いの中心はこの「人権擁護法案」をめぐる闘いだ。これからの日本の人権擁護制度、部落問題の解決を占う意味でも大きな課題だ。

Q.狭山再審闘争に関連しては、昨年末に「証拠開示のルール化を求める会」の準備会ができました。闘いの方向について考えを聞かせてください。

  昨年(2002年)1月の棄却決定は、徹底的に批判しなければならない。寺尾判決の枠から少しもでていない。新証拠も含めてさまざまな論点を出しているのに、不合理な原判決の内容を踏襲した。この不当性を訴え、世論を高める必要がある。合わせて世代が変わってきており、総学習のとりくみが必要になってきている。

  狭山闘争は部落解放運動にとってきわめて大事な、生命線といえる。狭山闘争が部落解放共闘をつくり、住民運動のひろがりをつくり、運動の原動力になってきた。それは何かといえば明らかに、司法、警察による部落差別があったからだ。

  狭山の勝利の目標というものを見定めていく必要があり、狭山闘争は勝たなければならない。勝つためには何が必要かということだ。

  そのためには、ほかのさまざまなえん罪事件との連帯をすることが必要だ。いまの司法制度改革論議を逃すと50年後でないと議論の見直しにならない。このときに有利な状況をつくっていく闘いが必要だ。すでに証拠開示のルール化がテーブルにのっている。ぜひとも実現させ、司法民主化の大きな闘いの流れに合流していきたい。

  具体的には今年1、2月から署名活動を開始したい。この闘いをとおして狭山の再審勝利に結びつけたい。

(『解放新聞』第2101号(2003年1月6日)「松岡中央本部書記長に聞く」、解放新聞社、より)