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村の子

村上 昭子

あの頃を思い出すと、怒りのこぶしの一つも二つもあげたくなります。

夏も過ぎ秋風が肌寒く感じられる日、中学二年の時担任が来た。母と話してる。「学力の方もしたらよくできるし、できればお母さん、進学させてやってほしい。もしさしつかえなければ相談もさせていただきますから」という進学の話だ。

うちは上の学校もいきたいが、家のこと思うと心がとざす。先立つものは金や。それに父が八百屋の行商をしているが、病弱のためよう休む。

いろんな内職も手伝った。冬なんかも、糊はりで手もしばしばや。あかぎれもできる。子守りもせなあかん。勉強どころやあれへん。

中三になっても勉強してもどうせ……あきらめと迷いが一つになって、試験も0点とるようになった。一人ずつ何点と言わされる。くやしい気持ちと、どうにもなれへん気持ちがいっぱいや。先生は「はい次は何点や」と順々に聞く。人の気持ちもわからんと、よけい学校がいやになる。

小学校の時もそうやったなー。皆いっしょうけんめい先生の話聞いている。地域の子だけ、かためて座らされている。勉強できても、でけへんでも見て見んふりや。

友達は、わざと「あんたどこの辺から来てんのや」と意地悪く聞く。「あの子らは村の子よ」と友達同士で話してる。きたないなーくさいなーと朝礼の時もはなれて並ぶ。じろっと冷たい目が注ぐ。くやしさで家まで走って帰ったこともある。

うちは、なんで村の子やったらあかんのやろかと子ども心に思った。家へ帰ってもだあれも教えてくれへん。その日の生活が精いっぱいで母は内職にはげむ。うちは長女で家の事全部せなあかん。

朝おかいさんを炊く。一合あまりの米、水でしゃぶしゃぶや。何人分も食べる。おかずは漬物や。すぐに腹がへる。洗濯や洗いものをする。洗濯ものもいてついて手が冷たさでかじかむ。からけしの炭があかぎれの切れ目に入り、手が黒ずんでいたい。

夕方、父が青果市場へ仕入れに行っているのを、高燈籠の方まで母とむかえに行く。冬の木枯らしが肌をつく。坂道を力いっぱい押さな荷車が後へ戻る。冬の日は暮れるのが早い。家々の灯がさみしげに照らしてくれるようや。

毎日がくり返し。父がねこむ。ある日、母が「ほうめんもらうようになったで」と小声で父に言った。今で言う生活保護である。父は「わしがたっしゃやったら、家族に苦労させへんのになあー」とぽつんと床の中に細い体をよこたわらせながら言った。うちが男やったら親孝行して金持ちになって、らくさせてやるのに……。

お母ちゃんが、気があかんので、民生委員のとこへ金もらいにいくのに心臓がどきどきしてこわいなーと言っている。うち行ってきたるでと古い昔の保健所までいく。長い長い列を並び、やっと順番がくる。近所の子、同じ学校の子がじろっと見る。「お母ちゃんがぐあい悪いんや」とにらみかえす。皆ぺこぺこ頭をさげて帰る。まるでものもらいみたいだった。

正月が来てもよその子は晴着を着て、こっぽりこぽこぽいわせながら、うれしそうに通る。いいなーいっぺんあんな着物着てみたいなーと心の中でつぶやく。母の心づくしの作ってくれた服を着る。大きくなって早よう親の手助けをしたかった。

アルバイトもした。中三の時、大丸のハム売り場。十二月三十一日夜おそくまで働き、ハムをもらって帰る。初めてハムを食べた時、今年はごちそうが一つふえたなーと、おいしい味が舌にいつまでも残っていた。

(『胸いっぱいの思いを』部落解放同盟中央本部編、解放出版社、1985年11月、より)