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私と部落解放運動

塩谷幸子

はじめに

 今日は、私が部落解放運動に入りました経過と前の講義のテーマであった寝た子を起こすなという考え方とそれに対しての私の思いをお話できればと思います。

 誰もそうですが、自分が差別者であみと思って生きている方はいないと思います。

 例えば、日本ではスカートをはくのは女の子という意識があります。私たちはこのような先入観で育てられてきており、実はこのことが女性差別のはじまりです。それが差別だと気づいていないのです。私がこういうことを言えるようになったのは、私自身が部落差別を体験して、部落解放運動との出会いがあって差別を見抜く力をつけさせてもらったおかげです。

 部落問題とは何か、部落差別とは何かということと部落差別を体験した人間がどういう思いでどういう晦しさを持ってきたのかということを、私の生きてきた道を聞いてもらうことによって部落問題をより身近な問題と理解していただけるという期待を込めて私の過去をさらけだしていきたいと思います。

生きてきた道

親を恨んで

 一九四五年、三月十四日に私は生まれました。両親が婚姻届を出していません。私が大学入学のときに戸籍謄本が必要になり取りにいったところ、そのときはじめて両親が婚姻届を出していないことがわかりました。父方に認知された戸籍上は非嫡出子という戸籍を引きずっているということを知りました。結婚式を挙げたら社会的に認知されたという思いがあって、婚姻届という法的な制度をとっていない人が両親を含めてムラの人の中には何人かいます。両親は文字を読むことも、書くこともできません。また、手紙というのは、文字の読めない者にとっては。恐怖の便りです。内容によっては誰にでも見せられるものではありません。両親は、はじめから見なければよいと思ってすぐに捨てていました。入学通知も同じです。近所にいる私と同じ頃に生まれた子が学校へ行っている姿をみてあわてて私を学校へ連れて行きました。学校で、生年月日を聞かれ「入学年齢です」と言われ次の日から学校に行くことになりました。四十日ほど遅れての小学校入学です。今から五十二年前のことです。

 私が初めて社会にデビューしたこの日の出来事を忘れることはできません。それは何かというと、学校で初めて会話した隣の席の女の子に「どこから来たん」と聞かれたので「M」と答えると、「良い方のM、悪い方のM」と聞くのです。誰も自分が住んでいるところは「良い所」だと思うでしょう。私が「良い方のM」と答えると、「牛を殺す所があるとこ」と聞くのです。私の地域には、と畜場があります。そこを指して言っていると思ったので、「あるよ」と言いました。すると彼女は「あんたは悪い方のMの子やで」と決めつけられたのです。いま思えば「良い方のM、悪い方のM」の違いは何かといえば、M地域には一丁目〜二丁目まであって、一丁目は一般地域です。今でも、一丁目の方は、住まいを尋ねられると「M一丁目です」と言います。差別をしようと思っていなくても無意識にこう言うのです。番地をいうことによって違いを意味していると思うのです。

 その言葉によって、泣いて家に帰りました。「早く家に帰りたい」その思いだけで帰りました。「明日から学校にはいかん」という私を見て親は驚きました。学校での出来事を話し、親は学校の役員さんのところに相談にいったりしました。何日か経って、あるおばあちゃんが家に来ました。その人は私の家では大切な人でした。当時、私の家は肉の卸しをやっていて、祖母は肉の行商をしていました。訪れたおばあちゃんは一番の得意先でした。お肉でも買いに来てくれたのかなと思っていたら、「うちの孫がおたくのお孫さんによけいなことを言うたらしい」と、「これからもたくさん肉を買わせてもらうから辛抱したってや」という言葉で、私の親はころっと変わるのです。大事なお客さんということで大人は変わるのです。いまだにその場面を忘れることができません。大人はそれで納得したかもしれないけれども、私と彼女の間では何も変わっていません。また言われるのではないかと恐怖感があるのです。

 両親は、「良い方のMの顔をしろ」つまり勉強をしなさいと言うのです。そのために親は苦労をします。部落の子は学力が低いとバカにされるので、勉強をしてあの子に勝てと言うのです。親は教えることができないので、家庭教師をつけます。また、服装もきちんとさせます。親は外見に良い物、高価な物を身に着けたら良い方のMと見られると思い、革靴や指輪、時計を私につけさせ学校に行かせました。

 家では、家事をする人は別におり、小学校には温い弁当を毎日、届けてくれるというような家で育ちました。親は「部落の人は行儀作法がなっていない」と言い次々と習い事をさせました。駄菓子屋は何を食べさせるか分からないと言い、家で買ったお菓子を食べさせました。小学校五年生のころです。隣校区の小学校は越境受け入れ校であることを、親は見聞きして、そこの学校へ行かせようと住所を移し転校して、越境しました。これで「良い方のM」の顔になれると私は思いました。でもそうではありませんでした。

 六年生の図工の授業で葉脈を教材に絵を描くこととなり、私はそれに大好きな赤い絵の具で四箇所塗りました。すると、クラスの男の子が私の絵を持って教室の中を、「牛殺しの娘やから、こいつは血の気が多いから赤をたくさん塗った」といって走ったのです。私だけが赤を塗っていた訳ではありません。他の子と同じメーカーの絵の具を使い、同じように色を塗っただけです。家が肉屋であるということで、血の気が多いと、自分の大好きな赤色を塗ったのになんでこんな目に遭わないといけないのかと思いましたが、そのときは「そんなのやめて」とは一言えませんでした。クラスの友だちに「それはあかん」と言ってくれる仲問もいなかったことも悔しかったです。そのときから、大好きな赤色が解放運動に入るまで恐怖の色にかわりました。一番怖かったのは答えあわせで赤鉛筆を持って来いと言われたことです。

 今一番会いたいのはこの二人です。二人にこの話をしても忘れていると思います。けれど、「あんたの一言で私の人生がどれだけ変わったか、どんな思いだったか」と言いたいです。何気なく言った一言が相手をどれくらい傷つけているか。こういうことがあったので今日の私があるのだなという思いがあります。

 六年生の三学期に担任から放課後に職員室へ来るようにと言われました。家族の方から私学に進学させたいという話があり、その学校には親子面接があって家の仕事を聞かれるので、聞かれた時は肉屋であるとは言わないようにと教えられました。私は、親から警察官と学校の先生には絶対に逆らわないようにと言われていました。先生はたぶん入学させたいという思いで言ってくれたのだろうけれども、その頃の私は、「親の仕事は、学校にも行けないほどの仕事なのか」とショックでした。

内なる差別意識

 入学試験に合格しました。電車通学ですからやっとふるさとから離れたところに行けると思ってほっとしたのもつかの間、同じクラスにMのFさんが座っていて、私は彼女とは卒業するまで必要なこと以外は語さないということを決心しました。

 高校一年生の時でした。部落問題を特集した『週刊朝日』日付も九月二十六日号とはっきり覚えています。その週刊誌は、関西の同和地域の「地名総鑑」のようなものでした。

 新聞部の友だちが私を呼び、雑誌をみながら、「うちのクラスのFさん、ここにあるところから来てるよ。牛を殺す所と書いてある。どうやって牛を殺すんやろ」と私に聞くのです。写真を見ると母の実家であり、家では本家が雑誌にまで載ったと自慢をしていたのに次の日には、恐怖の週刊誌になっていました。自分を守るためにFさんを差別する立場をとりました。そうしないとFさんが言われていること以上のことを言われるのではないかという怖さがあったからです。

 「気持ち悪いわ、そんな所から来ているなんて知らなかった」と相槌を打ち、親を差別する、自分のふるさとを差別する立場をとりました。

 彼女は次に何をしたかというと、その週刊誌の横に生徒の住所録をもって来て、赤鉛筆で部落民狩りのように誰が部落から来ているかをリストアップしはじめましたが、誰も止める子はいません。その雰囲気にドキドキしながら合わせなければいけない怖さ、明くる日は、クラスの集合写真を持ってきて、Fさんの所だけ鉛筆で丸をつけてありました。「見てごらん、やつぱり部落の子の目つきはおかしい」と言うのです。Fさんと私は、両親が部落出身で、Mに生まれて、肉屋でと条件は同じです。住んでいる所が部落というだけで目つきがおかしいと言ったのです。おかしいということ自体が私はおかしいと思うのです。おかしいと思いながら、指摘できない自分がいました。しんどい部落出身であるということを誰かに言いたいと思うけれども言えない。学校の雰囲気やクラス集団はそんな感じではないから言えません。友だちは浅く広く作ろうと、そういう生き方をすることに決めたのです。

隠し通すしんどさ

 学校でいやな思いをしたときは、親に当たるしかありませんでした。「ただいま」と同時にかばんを投げつけます。その時私は、「なんで私を産んだんや」「なんでこんな差別をうけるんや。金で物事を解決できると思うのは大問違いや。私の心どないしてくれんねん」と親にあたりました。けれども、「昔からこうやって我慢してきたんや。人に迷惑をかけないようにせんと、また部落の人やと言われるから迷惑さえかけなかったらいいんやで」としか親は教えてくれませんでした。

 私が年頃になってくると、「恋愛は自由にしてもいい。だけど結婚だけは限られているんやで」とお風呂で母に告げられました。その時の場面は今も忘れられません。言う母もつらそうでしたが、私はすごくショックを受けました。Mで生まれたということで、どうして人生の大事な節目でこんなに問題にならなければいけないのか。私は大学時代に恋愛をしていましたが、一人娘なので肉屋の卸を継いでほしいということも言われていました。一般の人と結婚をしたら、相手に迷惑をかけるから、本当に相手のことを愛しているのなら自分から身をひくことが一番の愛情表現だと親に教えられました。私は親の言うことが一番正しいと思い、親が進める相手と結婚しました。彼はしばらくして「わしは今、肉屋をしているけどもわしは一般や。お前はええ格好しても部落や」と言って蒸発しました。このことを親に言うにはかなりの日数がかかりました。なぜなら、部落差別から守るために、見込んだ相手からかわいい娘が結婚差別を受けたと聞けば、私以上にショックを受けると思っていたからです。

 いつまでも言わない訳にいかないので、母に家に来てもらい、一緒に風呂に入って実は彼はこういうことを言って蒸発したことを告げました。私の個人的な理由で、私が努力して改善できることならどんなことでもするけれど、私がMで生まれたということはどんなに努力しても変えることはできない。私が変えるのではなく、相手が変わってくれない限り私たち夫婦はうまくいかないので、離婚しようと思っていることを母に告げました。

 そして、誰にも迷惑をかけたことがないのにどうしてこんな目にあうんだろうなと二人で抱きあって泣きました。

 私は部落差別に対する悔しさは、ずっと親が悪いと思って生きてきました。部落解放運動に入ってそれは部落差別であるとはじめて知ったのです。それまでは、私を産んだ親が悪い、肉屋をしている親が悪い、Mが悪いと、親や親戚や地域を恨んで生きてきました。

 私は部落出身であることを隠していたので、通学途中で親戚や地域の人が電車で声をかけてくるのではないかという恐怖心がいつもありました。だから電車に乗るときは、声をかけられないように、隙をつくらないようにと工夫をしていました。絶えず英語の本を読むか、数学の勉強をしていました。電車に乗るたびに部落の人から逃げていました。自分を隠し通すということは並大抵のしんどさではないのです。絶えず緊張と背中合わせに生きていかなければいけないということは言い表しようのない苦しさです。

部落解放運動との出会い

見えてきたこと

 私は、運動に対してあまり良い印象はありませんでした。「部落、部落というから私まで差別されるんや。部落、部落と言わないで欲しい」とずっと思っていました。

 ある日、経営していた肉屋に働きに来ていた青年に、ポスターを書くので手伝ってくれと言われ手伝うことにしました。書き終えたら、今度は、漢字に振り仮名を打ってくれと言うのです。私は「最近では、漢字に振り仮名を打たないと読めない人はいない」と言いました。すると青年は「一番身近な人に字が読めない人がおるやろ」と言うのです。

 確かに私の両親は字が読めません。

 親の体験を知っていながら、自分が意識的に見ようとしていないことを青年に指摘されました。

 青年は立って指示するだけです。私は彼に「立っているだけでなくてあんたも書いたら」と言いました。「俺、教科書がなくて面白くなくて学校に行ってないから字が書けない」と言うのです。私も毎日毎日「牛殺しの娘」と言われていじめられ面白くなかったと言うと、「私の面白くない」と「彼の面白くない」は中身が違うと言うのです。彼は、「姉ちゃんの面白くないには部落差別があったけれども、もっと違う差別があったんや。教科書がなかったんや」と言ったのです。私はそのとき、教科書がないということと部落差別がつながらなかったのです。

 私たちの時代は、教科書は買わなければいけませんでした。「字を知らない親が働きにいける場所は限られており、雇ってくれる所が無い中で、親に本を買うから金をくれとは言えない」と言いました。そこで初めて義務教育は無償だとか、教育を受ける権利を言いながら、教科書が無ければ授業を受けられないのになぜ教科書に金が要るのか。そういう中で教育闘争として高知県の長浜の部落の子どもたちが立ち上がりこの運動が全国に広がり教科書が無償になったことや様々な要求をするために役所へ行ったりして部落解放運動をやってきたことをその青年に教えられました。教科書がなぜ買えなかったのかという中に部落差別が原因としてあったということをしっかりみなさんに訴えていくことが大切で、そのために部落解放同盟があるのだと教えられました。

 当時、桃谷に同和会館という建物があり、生まれて初めて青年に部落解放同盟の事務所に連れて行ってもらいました。そこで部落の歴史を聞いた時、カルチャーショックを受けました。一番大事な歴史を教えてくれない日本の学校教育、先生は何をしているのかと思いました。部落の歴史をしっかりと学ばなかった人たち、寝た子をきちんと起こさなかったが故に自殺していった人も多くいるのです。学校教育の中で、人間が生きていくために身近な人たちの歴史を教えていくべきだと思います。日本に住む一番身近な人たちの、部落の歴史、在日韓国・朝鮮人の歴史、アイヌの歴史、沖縄の歴史を教えなかったということに対して悔しい思いをしました。生きていくために大切な教育、人問らしく生きていく教育というのが本当の意味での同和教育ではないかと思います。

 そう思った時に、部落の歴史を教えてもらえなかった私も被害者であると同時に、部落について誤った知識を教えられ私にいろいろな差別発言をした人たちも被害者です。正しい人権感覚での被害者同土が敵対することは社会として許されないと私は思いました。双方が被害者にならないように、正しく起こすべきだと思います。部落の親たちは怖がって、また、部落の歴史を知らないので子どもたちに正しく教えません。けれども、一般の親たちは、部落の歴史を知らないけれども、差別をすることは子どもたちに教えます。間違った知識を植えつけてしまうと軌道修正に時問がかかります。だから正しい知識を早いうちに教えて欲しいと私は思います。

 部落の歴史を聞いたとき本当にほっとしました。「これで部落差別がなくなるんや」と勇気をもらいました。親からは我慢する、隠す、迷惑をかけないという生き方しか教えてもらっていなかったからです。部落解放運動の先輩たちは、人問が作った身分制度だからその気になって差別をしない人を作っていったら、なくなる。差別をしない人をどうつくるかが大事で、そういう社会を作るためにがんばったらいいと言いました。これを聞いたとき展望が見えました。

 現在の連れ合いと恋愛をしたとき、二回目の結婚差別がありました。両方の親から反対されました。そんな中で、私たち二人を励まし勇気づけてくれた仲間がいて結婚しました。部落の人との結婚というのは、自分も差別を受けるのが怖いから関わりたくないと逃げる人が多いと思います。そのときに支えてくれる社会をどうみなさんで作っていただけるか、これによって結婚差別は解消されていくと思います。職場でも相談できる体制、仲間など支える体制が大事です。

 講座に参加したりして普段熱心な人がいざ自分の子どもの結婚になると、皮対するというケースがよくあります。どうしてかと聞くと、それとこれとは別だと答えます。使い分けせずに同じでいて欲しいのです。一生心のバリアフリーであって欲しいのです。壁をつくることがおかしいのです。絶えず自分との葛藤が必要です。

私の変化

 結婚後に娘が生まれました。そのとき重大決心をしました。自分が親に言ったように「なぜ私を産んだ」と言われた時にどういう態度をとるのか。娘には私と同じような差別される生き方をさせたくない。差別の無い社会を作るのが親の責任であるという焦りがありました。お金儲けも大事ですが、お金に代えられない生き方、考え方を部落解放運動から学びました。部落について学ぶ前からやってきた部落の人たちを差別してきた、親を恨んできた重たい荷物を降ろしたい。荷物を降ろす場所を探したいということで、生まれ故郷のMに帰りたいと思いました。一番反対したのは親でした。

 いやで逃げ出したふるさとMにもどり支部の専従になりました。逃げていったときと同じ人がすんでいるまちです。私の物の見方一つでこんなにも温かいまちであると再認識させられました。

知り合った人々のすばらしさ

と畜場で働く人々

 Mで出会ってすごくよかったのは、と畜場で働く人たちです。

 小学校の仕事の授業のとき、Mの子どもたちは、親の仕事について語らないのです。低学年の頃は、家を自慢していますが、高学年になると肉屋であるというとどう見られているかを感じてとって、授業の時はその事を一切言いません。当時、私は教育対策部長をしていました。これはどういうことかと学校の先生に指摘されました。

 私の子どもの頃と重なり、今でもMの肉屋で「牛殺し」と言われて肩身の狭い思いをしていると思い、教材を作ることにしました。先生が言ったように、厳しさと誇りと苦労話の三つの課題を聞き取りました。

 当時の書記長が私に、「牛を殺すということをどう表現するのか。周りから牛を殺すと言われている、牛から命をもらっているということ、命をもらわないと人間は生きていけないということをしっかりと当てはめた教材を作らない限り、家が肉屋ということに誇りを持っていると言えない」と言われました。書記長にと畜場を見学するように進められ見学をしました。牛の胃袋が出てくる場面を見て私は泣きました。そのときの涙は今も心の財産として大事に思っています。実は感動の涙でした。職人技、巧みな技術があって今日の食肉産業が発展したと思いました。

 このことをもっと早く知っていたら、「牛殺しの娘」と言われたときに言い返すこともできたと思い、すぐに執行委員会でと畜場見学を提案し見学に行きましたが失敗しました。現場の人たちと話し合いをしていなかったのです。彼らから「姉ちゃんのように感動したと言う人もおるかもわからん。でも中にはやっぱり部落の人やから平気で殺している。あんなの見たら肉よう食わん。と言われて帰られたら仕事の邪魔どころか差別を広げることになる。だから見学を受け入れるなら、後のフォローも含めて受けてもらわないと困る。その保障をどうしてくれる。わしらの思いをどこで代弁してくれるのや」と問い詰められました。それから、あとのフォローをきちんとやっていこうということでと畜場の見学をすることにしました。

 私たちは生きていくためにはあらゆる物の命をもらわないと生きていけません。それが当たり前すぎて忘れられがちです。だから私たちはと畜場の見学を通して命の大切さをしっかりと見てもらおうという思いで見学をしようということでやっています。

 それから、牛を解体するためには、生臭い臭いがして当たり前です。この臭いは避けて通れません。自然にはあらゆる臭いがあって当たり前です。違いを認めながらどう生きていくのかも大切です。この仕事は、部落の人の仕事だと決めつけないでください。食肉業も練習することで身につけた高い技術が必要で大切な仕事です。

識字(読み書き)教室の人々

 もう一つの出会いは識字教室の仲問です。私も三十数年間識字教室に籍を置いています。私は部落解放運動に入るまでは、難しい字を使い、難しい言葉を喋る人が偉いと思っていました。それは問違いだということ、人問らしく生きていくには関係ないと思えるようになりました。その物差しを変えたのが識字教室の仲問でした。読み書きができなくても強くたくましく生きてきた生き様を私はしっかりと受け止めて行きたいと思います。

 その識字教室の仲問から良く怒られます。一回目は、十八年前に私が支部の書記長になったときのことです。集会があり準備をしっかりして発表しました。その後、識字教室に行ったとき、「あんたの話は難しすぎて会話になってへん。会語というのは自分の思っていることが正しく伝わってこそ会話の意味が達成する」と怒られました。訴えるということは自分の思いがどれだけ相手に伝えられているか、理解してもらえているかが大事だということです。参加者の思いや期待に絶えず意識するべきだと仲間に教えられました。

 その次が、支部ニュースです。紙面が限られています。熟語で書いて振り仮名を打つと識字の仲問から、熟語への振り仮名は漢字の意味を知り読みがわからない人のためになっても、元々漢字が読めない人は振り仮名を打っただけでは意味がわからない、と言われました。字のわからない人への配慮がどんなものかということが大事だと言うのです。お互いに尊敬する立場でどうつきあって行くかが大事です。そういう生き方を仲間に教えてもらいました。

 そして識字の仲間で今も大事に友だちとしてつきあっている同級生の彼女がいます。その彼女の子どもが保育園に行くことになり、連絡帳には、ひらがなで食べたものが、「魚」「菜っ葉」としか書いていないので、保育士がどんな魚かを書いて欲しいと言うと、「魚は魚やねん」と言ったそうです。もう少し詳しく書いて欲しいと言うことで私のほうに相談があり、私は彼女と話をすることになりました。話を聞いているうちに、六年の時に母が亡くなり、親代わりに兄弟の面倒をみるために小学校中退だということを初めて知りました。それなら識字教室にと誘いました。

 安定した仕事につきたいと言っても、小学校中退では仕事にはなかなかつけません。その後、府教育委員会との交渉や、文部省(当時)にも行きましたが、すべて駄目でした。文部省は認定試験を受けなさいと門前払いでした。勉強して識字教室で試験を受け、文部省から中学校卒業資格認定通知が来ました。

 このためにどれだけ自分の人生を棒に振り、遠回りしたか。そのためには今の学校教育は手抜きさせられない。二度と識字教室の受講生を生まないような教育を願っているという思いを聞きました。

 今でも、字が読めない、書けない人が身近にいるかもしれないということを忘れないで欲しいと思います。その人たちが、読めない、書けないということを言える雰囲気作りも大事だと思うのです。

 そういう人たちの温もりの中で鍛えられ、今日の私があると思っています。

『部落解放 増刊号2005/544号
第35回部落解放・人権夏期講座 報告書』より