全国水平社・部落解放全国委員会の後身。〈部落民の自覚にもとづく自主的な解放運動の唯一の大衆団体〉。*部落解放全国委員会は1955年(昭和30)の第10回全国大会の決定に基づいて、組織名称を〈部落解放同盟〉に改めた(以下、解放同盟)。改称の理由は、〈広汎な部落大衆が闘争に立ち上がって〉いる状況下で、〈名実共に部落大衆を動員し、組織し得る大衆団体としての性格〉を明らかにするためであった。
*部落解放運動【ぶらくかいほううんどう】の流れは、第1期:〈吾々に対し穢多及び特殊部落民等の言行によって侮辱の意志を表示したる時は徹底的糾弾を為す〉とした全国水平社創立大会(1922.3.3)の決議を受けて、各地で糾弾闘争を展開し、社会に存在している差別の不当性を徹底的に明らかにした糾弾闘争主導の時代、第2期:*オール・ロマンス事件糾弾闘争(1951)以降、全国的に展開された*差別行政糾弾闘争の延長線上で*同和対策審議会答申(1965)、*同和対策事業特別措置法制定(1969)をかちとり、劣悪な部落差別の実態の改善が、一部に問題を残しながらも住環境面を中心に大きく前進した行政闘争主導の時代、第3期:2期の闘いを包含しつつ、部落の完全解放を明確に展望した運動の展開、〈世界の水平運動〉をめざす反差別国際連帯闘争の展開などを柱とする国内外での*共同闘争主導の時代の3段階によって特徴づけることができる。
ここでは、55年以降の部落解放同盟の運動について、…@55〜59年、地方での差別行政糾弾闘争の高揚期、…A60〜64年、政治的共同闘争期、…B65〜69年、同和対策審議会答申完全実施、同和対策事業特別措置法制定期、…C70〜75年、狭山闘争、同対法具体化闘争期、…D76〜87年、狭山・同対法・*部落地名総鑑糾弾の3大闘争期、…E88〜、〈*反差別国際運動(IMADR)〉の結成以降、現在まで続いている第3期部落解放運動の模索期の6期に分けて述べることにする。
〈1955〜59年〉
解放同盟は,この時期,差別行政糾弾闘争【さべつぎょうせいきゅうだんとうそう】を積極的に闘った。56年の兵庫県南光町,小野市の闘いをはじめ,和歌山県内での住宅要求闘争,御坊市,京都府八木町,三重県津市,松阪市での仕事よこせ闘争などがある。55年以降,鳥取県内では,山林解放を中心とした*入会権闘争が積極的に闘われた。これらの闘争は,従来の〈町村における差別行政反対〉から〈全県的な〉闘争へと発展している。このことが,解放同盟組織の拡大をもたらし,56年までに21府県連の確立と6県の組織再建の動きとなった。大衆的影響の拡大は,56年に第1回*部落解放全国婦人集会,57年に第1回*部落解放全国青年集会を成功させた。この時期には,*福山結婚差別裁判をはじめ,いくつかの差別裁判闘争が闘われた。
またジャーナリズムに対する糾弾闘争も強化され,ボイコットなどを含めた朝日,読売新聞への糾弾は,のちの諸新聞による部落問題への取り組みの原動力となった。行政闘争を中心とした各地の闘いも,56年の第11回大会では,〈地方自治体に対する闘いが活発におこなわれたが,中央政府に対する全国闘争〉にまで発展しなかったと総括されている。解放同盟は,大阪府*金属屑営業条例反対闘争,福岡県*鉱害補償要求闘争,滋賀県分町運動糾弾闘争など各地での闘いを広めながら中央政府への闘争を開始した。58年1月に,部落解放国策樹立要請全国会議を開催し,内閣に部落対策審議会の設置,国会に特別委員会の設置,解放予算の計上を要求した。この中央政府闘争を進めるために,第12回大会以後,解放同盟は中央本部を京都から東京に移した。中央闘争の強化は,国会内での部落問題論議を活発化させ,58年3月,岸首相の審議会の設置明言となり,60年同和対策審議会設置法の制定実現に至る。
一方,57年以降,勤評,警察官職務執行法などに示される政治反動が進み,警官による差別暴行事件を多発させている。57年7月の大阪府富田林事件をはじめ,高知,山口などで警察への糾弾闘争が展開された。これらは,同年1月の*ジラード事件とともに権力に対する怒りを培い,政治反動に対する闘いとしての砂川闘争など軍事基地撤去闘争,58年以降の*勤評反対闘争への解放同盟の参加となり,高知・奈良・京都などで部落児童への*教科書無償交付をかちとり、憲法第26条具体化への突破口となった。59年には,解放同盟は〈安保改定阻止国民会議〉に参加し,60年以降の政治的共同闘争を闘うことになる。自民党の融和政策から60年に生まれた*全日本同和会に対する闘いも部落内の政治的反動の動きとの闘いとして開始された。組織面で解放同盟は,55年から59年までの間に会費制の原則と財政確立を訴え,13回大会以後,東北地方の組織化に着手した。
〈1960〜64年〉
59年以降の*安保闘争への解放同盟の参加,*三井三池闘争での共闘は,60年代初期の政治的共同闘争期を象徴するものであった。政治闘争の高まりのなかで60年に*綱領【こうりょう】が改定された。その後,鳥取県美保ジェット基地,*板付基地撤去闘争,政暴法粉砕,農基法反対など民主勢力との共闘のもとで政治闘争を展開した。共同闘争のなかで部落大衆にとって特別の意義をもったのは,*全日本自由労組(全日自労)との共闘による失対打ち切り反対闘争と福岡での炭鉱労働者との共闘である。政治闘争の一方で,解放同盟の独自闘争としての中央政府に対する部落解放要求貫徹請願運動が61年から取り組まれた。この運動は,50年代後半の行政闘争を発展させたものであり,解放運動40年間の集約として提起された。61年9月に部落解放要求貫徹請願大行進隊を組織し,福岡―東京間を1カ月かけて行進,宣伝活動を続けた。65年の同和対策審議会答申を引き出すまでの4年間,秋季全国闘争など中央闘争が行なわれた。
この間,地方でも,大阪での住宅・生業資金要求闘争,*義務教育無償要求闘争などが闘われた。とくに,教育をめぐる要求は,勤評闘争の延長として,全国的な*学力テスト反対闘争,大阪*八尾中学校事件などが果敢に闘われた。*教育闘争の高まりは,解放運動の隊列に子どもを引き入れた。この結果,64年の8月には,第1回子ども集会が開かれた。この時期に全国的な闘争として闘われたのは,高知県*興津事件と大阪*信太山自衛隊差別事件である。解放同盟の政治的共同闘争が活発に展開されると,警察権力は解放運動へ意図的・強権的に介入を行なった。大阪西郡事件をはじめ,山口,岡山,鳥取,高知などで弾圧事件と闘わねばならなかった。60年代に入ると組織面における解放同盟の不備が明らかにされ,オルグ集団の組織化,財政確立が訴えられ,解放新聞社の独立もはかられた。
62年には,本部執行部体制の整備,従来の地方分散主義の克服と組織の近代化をめざし,中央本部を運動の拠点である大阪に移した。同年,組織の3倍化をめざし,財政確立のための150万円カンパが提起された。しかし,組織整備が進むなかで,運動を進めるうえでの意見の相違から組織的不統一が問題化した。〈統一戦線の一翼〉としての政治闘争と〈独自闘争〉としての行政闘争・糾弾闘争のいずれに重点を置くかをめぐっての意見の相違であった。この相違は,62年の参議院選挙の際にも,政党支持問題とからんで,独自推薦候補・*上田音市の敗北をもたらした。第18回大会,第19回大会では,スケジュール的な政治闘争と統一闘争への批判と独自闘争の強化を訴える大会への意見書が提出され,対立が表面化した。
〈1965〜69年〉
〈統一戦線の一翼〉を担う解放運動を主張したのは,*日本共産党【にほんきょうさんとう】系同盟員であった。大衆団体としての解放同盟の独自性の保持と独自闘争としての行政闘争の強化を主張した同盟員と共産党系同盟員との間の対立は,65年の参院選における松本治一郎委員長支持問題にも現れ,同年7月の第9回部落解放全国青年集会【ぶらくかいほうぜんこくせいねんしゅうかい】では,公然たる物理的対立となって,集会の流会をもたらした。流会は,日本共産党系諸団体の主導下で開かれようとした,いわば〈共産党のひきまわし〉への反発であった。同年10月に開かれた第20回全国大会は,共産党の影響下にある同盟員の行動に対し,厳しい批判を行なった。批判点は,部落問題の民主主義一般への抽象化,共産党の政策に従った政治闘争,階級闘争偏重,同盟外の要求別階層別組織への組織化などであった。
大会は,共産党系の*三木一平,*中西義雄など3人の中央執行委員を再任しなかった。大会以後,共産党は解放同盟内での影響力を失い,逆に,同盟と対立し批判を公然と展開した。共産党は,同盟の実践上の諸問題,すなわち〈参議院選挙問題における政党支持の自由〉〈同対審答申の評価〉〈要求別階層別組織のあり方〉をめぐってことごとく解放同盟方針を批判した。共産党と解放同盟の対立は,京都府連をはじめ各地の組織問題,*文化厚生会館問題,映画*「橋のない川」(第二部・今井正監督作品)上映問題などを引き起こしたが,決定的対立をもたらしたのは*矢田教育差別事件であった。共産党との論争は,解放同盟内での解放理論への関心を高めた。解放同盟は,66年12月に〈理論委員会【りろんいいんかい】〉を設置し,60年綱領,現状分析,組織問題,闘争方針に及ぶ検討を開始した。
65年8月に出された同対審答申を受けて,解放同盟は,同年11月,*同対審答申完全実施要求国民運動方針を決定,66年8月,同対審答申完全実施要求国民大行進を組織,これを機に〈*部落白書運動【ぶらくはくしょうんどう】〉,部落綱領づくりを再度提起した。68年の第23回大会は,特別措置法即時制定を決議し,翌69年に法制定を実現させた。対中央行政闘争による法制定を実現させた解放運動への権力の弾圧は,65年2月の*田中織之進書記長恐喝事件のデッチ上げにみられるように露骨になった。68年5月の高知県での差別暴行殺人未遂事件,69年の徳島県*小松島差別弾圧事件など,依然として警官による弾圧・差別暴行事件が各地で引き起こされた。解放同盟は独自課題を重視し,66年以降,続発したマスコミによる差別事件,68年の〈差別と屈辱の明治百年〉糾弾,*壬申戸籍糾弾,商業興信所をはじめ興信所差別調査糾弾,就職差別糾弾闘争など積極的に差別糾弾闘争を取り上げた。69年の24回大会では〈*狭山事件の公正な裁判〉を要求する決議が行なわれた。
組織面では第23回大会で,同盟が全国単一組織であり,民主主義の原則と集中性の2つの原則を組織運営のなかで正しく統一し,中央本部に結集することを訴えた。特別措置法制定要求運動は,組織のいっそうの大衆化をもたらした。68年以後,徳島県連の再建,広島,滋賀県での組織拡大,大阪における部落内中小企業者,経営者の要求に基づく企業連組織建設などに結実した。66年11月22日,〈解放の父〉*松本治一郎【まつもとじいちろう】委員長が死去,第22回大会は,*朝田善之助【あさだぜんのすけ】を委員長に選んだ。なお奨学金制度の確立とともに地域における奨学生の活動が始まり,69年11月に第1回部落解放奨学生全国集会が開催された。
〈1970〜75年〉
1970年代に入って解放同盟は,69年に制定された同対法具体化要求闘争と狭山差別裁判糾弾闘争を結合させた部落解放国民大行動を展開した。同対法具体化要求闘争は,各地で行政闘争を本格的に前進させ,〈要求綱領〉づくりから〈*部落解放地区総合計画〉の運動へと発展させた。この結果,各地で大幅な同和対策予算の拡大をかちとっている。同時に,第26回大会は,〈今日なお中央政府の姿勢を大きく変えることに成功をみていない〉として,中央闘争の強化を訴えた。しかし,政府の壁は厚く,怠慢・欺瞞的施策に加えて,74年以後の経済不況が,民生福祉・同和予算の削減さえもたらした。狭山差別裁判闘争【さやまさべつさいばんとうそう】は,差別されている部落民の社会的立場の自覚を同盟員に促した。解放同盟は,70年5月に〈狭山差別裁判糾弾要綱〉を発表。糾弾闘争を開始し,12月には『狭山差別裁判』を発行し,大衆的狭山闘争の構築をめざし公判闘争,100万人署名などを闘いぬいた。74年9月の第81回公判には,11万人集会を成功させた。狭山闘争は,総評をはじめ労働組合,民主団体との共闘を実現した。
日本共産党との対立は,いっそう深刻になり,70年6月には,共産党の支持のもと,分裂組織〈*部落解放同盟正常化全国連絡会議〉が結成された。対立は,共産党の組織的介入にまでエスカレートしたが,このことは,〈*窓口一本化〉問題を生じさせた。74年の*八鹿高校差別教育事件における共産党のキャンペーンは,対立を頂点にまで発展させた。解放同盟は,71年を〈全国水平社創立50周年記念年間〉として,解放運動の歴史に学び,強固な組織建設を訴えた。狭山,特措法具体化の2大闘争の発展は,真に大衆的組織としての解放同盟を実現した。このことは,〈正常化連〉との競合のもとでの広島県連の組織拡大,73年の兵庫県連の解放同盟への正式加入に示されている。
組織的発展は,74年に〈被差別統一戦線【ひさべつとういつせんせん】〉の提起をもたらし,被差別諸層の先頭に立つ解放同盟の決意を示した。運動の発展と,とくに共産党との論争は,部落解放の理論的発展をもたらし,部落差別の本質,その社会的存在意義,社会意識としての差別観念という三つの概念(*三つの命題【みっつのめいだい】)を規定した。要求闘争の発展,組織の拡大強化,部落問題への理解水準の向上は,埋もれていた差別事件を表面化させた。大阪茨木結婚差別事件(*中城結婚差別事件),*住吉結婚差別事件,69年から引き続き,*難波別院差別事件,雑誌*『大乗』別冊差別事件で,西本願寺への糾弾闘争が闘われた。75年,第30回大会は,新委員長に*松井久吉【まついひさきち】を選出,〈最高裁段階の狭山闘争,中央政府交渉,共同闘争の強化のため〉に本部事務所の東京移転を決定した。
〈1976〜87年〉
第30回大会後の75年11月に〈部落地名総鑑【ぶらくちめいそうかん】〉の存在が発覚した。解放同盟は,*部落地名総鑑糾弾の闘いを含めた狭山,特措法具体化闘争を3大闘争【さんだいとうそう】として闘うこととなる。地名総鑑糾弾の闘いは,*プライバシー保護などを含めた人権擁護闘争としても発展し,*国際人権規約,*人種差別撤廃条約,*女性差別撤廃条約批准運動,戸籍の閲覧規制,*身元調査お断り運動など広範な市民を巻き込んで展開された。
75年以降,東京・兵庫に代表されるように,*同和行政の後退が顕著になった。解放同盟は,第32回大会で同対法強化延長方針を打ち出し,行政闘争本部を設置。78年,同対法打ち切り攻撃をはね返し,その延長を闘いとった。狭山闘争においては,74年10月の無期懲役判決以後,全国網の目行動,*同盟休校戦術などで長期的闘争を闘う態勢を整え,77年8月の最高裁上告棄却,80年2月,東京高裁再審請求棄却など司法の反動攻撃に屈することなく闘いが続けられた。
しかしながら、運動の発展による同盟組織の量的拡大は,質的な低下をもたらし,いくつかの県連における組織対立さえ引き起こした。しかし,第32回大会以後,同盟員の再登録,総学習運動,支部組織の再編が行なわれ,35回大会では,組織建設3カ年計画と重点10項目課題を決定し,80年代の〈部落解放運動にとって戦後最大の試練の時代〉を乗り切る組織建設を訴えた。同対法延長後,同対事業をあてこんだ〈*エセ同和団体〉がはびこり始め,部落解放運動に新たな問題を投げかけた。日本共産党との対立では,〈部落解放同盟正常化連〉が76年3月に*全国部落解放運動連合会(全解連)を結成し,名実ともに解放同盟から離脱した。矢田教育差別事件,*吹田二中事件,映画「橋のない川」(第二部),八鹿高校差別教育事件の公判闘争も闘われた。
75年12月の*部落解放中央共闘会議の結成,被差別統一戦線から*反差別共同闘争【はんさべつきょうどうとうそう】への発展など,共闘関係では,大きな成果をあげた。また,*世界宗教者平和会議差別発言事件糾弾闘争を契機に,宗教者の部落問題に対する理解も深まり,解放運動の影響が宗教教団にも及び,81年には〈*『同和問題』にとりくむ宗教教団連帯会議〉が結成された。解放同盟は,82年に地域改善対策特別措置法の実現の原動力となった後,〈*部落解放基本法〉制定に向け闘いを始めた。また、82年の第37回大会で新委員長に*上杉佐一郎【うえすぎさいちろう】を選出。84年の第41回臨時大会で綱領改定を行なった。
〈1988〜〉
解放同盟は人権問題を国際的視野で取り組むため、88年1月、〈*反差別国際運動【はんさべつこくさいうんどう】(IMADR)〉を結成、オール・ロマンス事件糾弾闘争(1951)以降展開されてきた行政闘争主導の第2期段階を発展させ、…@〈部落解放基本法〉制定要求【ぶらくかいほうきほんほうせいていようきゅう】を中心的な課題に据え、〈部落の完全解放〉を明確に展望した運動を展開、…A部落の周辺地域との連帯強化および国内に存在するさまざまな差別を撤廃する運動との連帯強化、…B〈反差別国際運動〉の強化、〈*アジア・太平洋人権情報センター〉の設立・強化などを中心的課題とし、〈世界の水平運動〉をめざす反差別国際連帯闘争【はんさべつこくさいれんたいとうそう】の展開、…C以上の課題を担うことができる主体の形成に向けて、新たな時代と課題に対応できる組織改革と建設、および運動団体の諸潮流を統一していく大胆な政策を打ち出す、などを柱とする*第3期の解放運動【だいさんきのかいほううんどう】へと移行。〈反差別国際運動〉の国連NGO承認(1993.3)、アジア・太平洋人権情報センターの発足(1994.8)など、着実に成果を上げている。
反差別国際連帯が前進した半面、人権問題をめぐる国内情勢は年々厳しさを増していった。おりしも88年秋の裕仁天皇重体、翌89年1月7日の死去と、それに続く〈天皇の代替わり〉をめぐって、マスコミを中心に皇室賛美一色の報道が行なわれ、〈開かれた皇室〉という共同幻想が国民の間に流布される一方で、〈皇室タブー【こうしつたぶー】〉も強まっていった。そのようななかで〈天皇の戦争責任はある〉と発言(1988.12.7長崎市議会)した本島等・長崎市長に対し、さまざまな形で言論弾圧が行なわれるなど、日本国憲法の根幹を揺るがすような事態が次々に発生した。また、93年(平成5)6月の徳仁皇太子の結婚をめぐって相手の家系図〈家柄〉が新聞や週刊誌で大きくとりあげられたり、宮内庁が4代さかのぼって〈家系〉を調べるなど、差別意識を増幅するような事象が続発。これらの動きに対し解放同盟は繰り返し抗議声明を発表、*天皇制に連なる部落差別の問題と、広範に根づいた差別意識の払拭を世論に訴えた。
また、マスコミ報道における差別事件や*差別落書き、結婚差別事件が各地で多発する一方、近年のコンピューター社会の進展を反映してインターネットやパソコン通信を利用した悪質な差別事件も発生しており、21世紀に向けた人権啓発の推進に、大きな課題を投げかけた。94年12月21日、石川一雄が仮出獄、63年5月の不当逮捕以来31年ぶりに社会復帰の一歩を踏み出した。再審請求は棄却された(1999.7.8)が、石川一雄は解放同盟とともに運動の先頭に立って闘いつづけている。95年1月17日に発生した*阪神・淡路大震災に際して解放同盟は、災害対策本部を設けて被災した被差別部落への支援に全力をあげて取り組んだ。上杉佐一郎委員長の死去(1996.5)を受けて、96年9月の第53回大会で上田卓三【うえだたくみ】を新委員長に選出。97年5月の第54回大会で綱領・規約の改定を行ない,98年5月の第55回大会で組坂繁之【くみさかしげゆき】を新委員長に選出した。99年現在、34都府県連、5準備県連を組織している。中央本部は東京都港区六本木の*松本治一郎記念会館内に設置、また大阪市浪速区に大阪事務所が置かれている。
→部落解放全国委員会・・・・・・・資料編F-3、G-3
参考文献=部落解放研究所編『部落解放運動基礎資料集』全4巻(部落解放同盟中央本部,1980〜81)/部落問題研究所編『資料戦後部落解放運動史』(1979)/部落解放研究所編『部落解放史 熱と光を』下巻(解放出版社、1989)