1963年(昭和38)5月に埼玉県狭山市で発生した女子高校生殺害事件。当時は〈善枝ちゃん殺し事件〉と呼ばれた。通常は、この殺人事件で、被差別部落の青年、石川一雄【いしかわかずお】さんが犯人にデッチ上げられた冤罪事件として〈狭山事件〉と呼ばれる。
[事件の経過―冤罪とその背景]
1963年(昭和38)5月1日、狭山市内にある川越高校入間川分校1年生中田善枝さん(当時16歳)が下校後行方不明となり、その夜身代金20万円を要求する脅迫状が中田家へ届けられた。5月2日深夜、脅迫状に指定された食料品雑貨店の佐野屋前で、被害者の姉が現金に見せかけた紙包みを持って犯人が現れるのを待った。埼玉県警は、県警、狭山署あわせて40人の警官を張り込ませたが、犯人は3日午前零時すぎに現れ、姉と約10分問答したが、逃走。警察は犯人逮捕に失敗した。
県警は翌3日、現地に特別捜査本部を設置、同日朝から機動隊、消防団も動員して大々的な〈山狩り捜査〉を行ない、4日善枝さんの死体を被差別部落に近い畑の農道で発見した。この事件の1カ月ほど前の3月末に東京都台東区で発生した村越吉展ちゃん事件でも、警視庁は身代金を奪われながら犯人を取り逃がしており、その直後だけに各新聞は警察の失態を非難し、警察は世論の厳しい批判を受けた。5月4日、柏村警察庁長官は辞表を提出。参議院本会議で警察のミスを追及された篠田弘作・国家公安委員長は、記者会見で〈何としても生きた犯人をつかまえる〉と発言した。5月10日、自民党治安対策委員会・早川崇委員長は現地の捜査本部を訪れ、捜査員に〈是が非でも事件を解決して警察の威信を高めてもらいたい〉と激励。県警・捜査本部はなんとしても犯人を検挙しなければならない窮地に追い込まれたが、そのメンツをかけた捜査は行き詰まった。
そもそも、この事件が下校後の白昼の事件でありながら目撃者がいないこと、被害者が高校1年生であり、抵抗傷がないことなどから、〈顔見知り犯人説〉が事件当時の新聞でも有力視されていた。また、脅迫状の当て字についても、稚拙を装ったものであり、〈友だちが車出いく〉といった偽装工作で警察の張り込みを道路中心に行なわせておいて、実際には畑の中を徒歩で現れて裏をかくなど、計画的な知能犯との見方もされていた。
一方、地域住民の被差別部落に対する根強い差別意識を反映して、事件発生直後から、市内の被差別部落民を犯人視する声が広がっていた。とくに、警察は、被害者の自宅と佐野屋の間に位置した被差別部落出身者の経営する養豚場の関係者に見込み捜査を集中させた。5月3日には、この養豚場経営者への聞き込みを行ない、出入りの部落青年の5月1日の動静や血液型を調べ、筆跡鑑定資料を集めた。
警察は、同年2月まで養豚場で働いていた被差別部落の青年、石川一雄さん(当時24歳)にねらいをつけ、5月23日明け方、石川さんを自宅で逮捕した。逮捕の容疑は〈善枝さん殺し〉そのものではなく、友人の作業着を盗んだという窃盗、暴行容疑などと脅迫状を書いて届けたという恐喝未遂容疑であり、いわゆる別件逮捕【べっけんたいほ】であった。捜査本部は逮捕後、石川さんを狭山警察署の留置場に勾留、すぐにポリグラフ検査にかけるなど〈善枝さん殺し〉で連日追及。石川さんは友人の作業着を借りたまま返していなかったことなどについては認めたが、〈善枝さん殺し〉はまったく関係ないと無実を訴えつづけた。石川さんを犯人とする決め手もなく勾留期限を迎える6月13日、浦和地検は別件の窃盗などについて起訴するにとどまった。保釈決定が出されると警察は、本件で逮捕状をとり、6月17日の保釈直後に狭山警察署内で石川さんを再逮捕した。今度は、川越警察署の分室に石川さんを一人だけで勾留し、取り調べを続け、この間、検察官は弁護士との接見を制限または禁止した。
石川さんは6月20日、ついに〈三人による犯行〉という〈自白〉を始め、6月23日には〈単独犯行〉という〈自白〉を始める。石川さんは連日の取り調べ、保釈直後の再逮捕というなかで、取り調べの刑事から〈弁護士は嘘つきだ。しゃべらなければ家族とも会えない〉〈認めれば10年で出られるようにしてやる。認めなければ兄を逮捕する〉といった嘘の約束や脅しによって虚偽の自白をさせられた。石川さんは連日、多数の自白調書をとられ、7月9日〈善枝さん殺し〉で起訴され、浦和拘置所に移された。
地元紙の『埼玉新聞』は〈石川の住む《特殊地区》〉〈環境のゆがみが生んだ犯罪――用意された悪の温床〉などと被差別部落を犯罪の温床であるかのように書いた差別的な記事を掲載した。また、〈死体が4丁目に近い麦畑で見つかったとき、狭山の人たちは異口同音に《犯人はあの区域だ》と断言した〉(東京新聞6月24日付夕刊)というように、根強い住民の差別意識を反映していた。こうした地域住民の差別意識や間違った犯罪報道のなかで、別件逮捕、*代用監獄【だいようかんごく】での長期勾留、弁護士との接見禁止など、*冤罪を生む捜査と取り調べが行なわれていった。
[裁判の経過]
1963年(昭和38)9月4日、浦和地方裁判所(内田武文裁判長)で1審公判が始まったが、石川さんは、〈10年で出られる〉という警察官との〈約束〉を信じ、1審公判を通じて、犯行を認める自白を維持した。弁護人は自白の不自然さや証拠の発見経過のおかしさを指摘したが、翌64年3月11日、浦和地裁は、わずか半年のスピード審理で死刑を宣告した。
石川さんは東京拘置所へ移され、そこで、三鷹事件の被告・竹内景助などと話をするようになり、警察にだまされていたことに気づき、64年9月10日、東京高等裁判所における控訴審第1回公判において、無実を主張。こうして、虚偽の自白をした経過が法廷で次々に明らかにされるとともに、脅迫状は当時の石川さんには書けないとする筆跡鑑定書や、自白のような殺害方法ではないとする法医学者の鑑定書などが提出されたが、74年10月31日、東京高裁の寺尾正二裁判長は、無期懲役判決を行なった。石川さんはただちに上告し、さらに筆跡・足跡等の鑑定書を提出。しかし最高裁は事実審理を行なうことなく、77年8月9日、上告を棄却した。これによって2審の無期懲役判決が確定し、石川さんは同年9月8日、千葉刑務所に移された。
同年8月30日、弁護団は東京高裁に対して再審請求を行なった。とくに、脅迫状の日付訂正個所が自白と食い違うことが明らかになり、新証拠として提出されたが、東京高裁第4刑事部・四ツ谷巌裁判長は、証人尋問や現場検証などの事実調べをまったく行なうことなく、80年2月5日付で再審請求を棄却。弁護団はただちに異議申立をしたが、東京高裁第5刑事部・新関雅夫裁判長は81年3月25日付で、やはり事実調べを行なうことなく異議申立を棄却した。続いて弁護団は最高裁に特別抗告を申し立てた。証拠開示によって小名木証言が明らかになり、新たな法医学者の鑑定など、自白の信用性を揺るがす新証拠が次々に明らかになったが、最高裁第2小法廷(大橋進裁判長)は85年5月27日付で、事実調べを行なうことなく抗告を棄却した。
弁護団は86年8月21日、東京高裁に対して第2次再審請求を行なった。だが東京高裁・高木俊夫裁判長は、13年を費しながら鑑定人尋問など事実調べをいっさい行なわず、99年(平成11)7月8日付で、請求を棄却。弁護団が異議申立を行ない、現在に至っている。
〈刑確定〉から17年4カ月を経た94年12月21日、石川さんは再審請求中に*仮出獄【かりしゅつごく】した。無実の石川さんの仮出獄を一刻も早く実現すべきだという幅広い世論と部落解放同盟を中心とする大衆的な運動、国会議員、弁護団の積極的な取り組みによって実現したものである。石川さんは、63年5月の別件逮捕以来31年7カ月ぶりに故郷に帰り、再審で無罪をかちとるまで闘う決意を明らかにした。
[裁判の争点]
〈自白の信用性〉【じはくのしんようせい】
多くの冤罪事件と同じく、狭山事件も安易に自白に依存した誤判である。石川さんの自白には、多くの矛盾、疑問点を指摘することができる。とくに、殺害方法、殺害現場、死体の処理など、自白の核心部分について、客観的事実との不一致や不自然さが数多く存在する。
再審段階に入って、検察官から小名木武関係供述調書などが開示された。開示された証拠と弁護団の調査によって、小名木証言【おなぎしょうげん】によれば、彼は事件当日、犯行現場とされた雑木林に隣接する桑畑で午後1時50分頃より約3時間にわたって農作業に従事していたことがわかり、その間、〈悲鳴も聞いていないし雑木林に人影もなかった〉という事実が明らかになった。自白では、〈被害者は雑木林内で悲鳴をあげ騒いだので、手で首を締めた〉ことになっており、悲鳴も人影もなかったという小名木証言【おなぎしょうげん】は、自白の虚偽架空性を示すものである。
さらに確定判決は、殺害方法を〈扼殺〉(手などで首を絞めて窒息死させた)と認定し自白と食い違いはないとして自白の信用性を認めたが、弁護団は、殺害方法は〈扼殺〉ではなく〈絞殺〉(ひもなどで首を絞めて窒息死させた)であるとする多数の法医学者の鑑定書を提出している。弁護団は、このほかにも自白のような死体の運搬や逆さづりがありえないことを明らかにする鑑定書も提出している。
再審段階で、脅迫状のカラー写真撮影によって、日付訂正個所の訂正前の日付が自白の〈28日〉ではなく〈29日〉であることが判明した。このほかにも脅迫状にかかわる自白には客観的事実との食い違いが多数存在し、自白の虚偽性を示している。
また、脅迫状(封筒)、万年筆、被害者の自転車など犯人が手にしたとされる証拠物が多数存在するが、石川さんの指紋はまったく検出されていない。とくに脅迫状および封筒からは、被害者の兄および警察官の指紋が検出されているにもかかわらず石川さんの指紋は発見されておらず、筆跡の違いや脅迫状作成にかかわる自白の不自然さと相まって、自白の信用性を大きく揺るがす事実である。
さらに、白昼、道で偶然出会った見知らぬ女子高校生を誘拐することをとっさに決めたという自白も、荒唐無稽というほかない。白昼であるにもかかわらず、目撃者がまったくいないことや、スポーツ好きの活発な女子高校生であった被害者が、見知らぬ男に突然自転車を止められて雑木林の中までついていったというような自白のストーリーは、常識的にみて合理的疑いがある。
〈筆跡〉【ひっせき】
狭山事件で真犯人の残した唯一の物証は脅迫状である。確定判決も脅迫状を証拠の主軸とし、筆跡の一致を有罪の決め手とした。脅迫状の筆跡が大きな争点である。脅迫状はボールペンで書かれたもので、大学ノート1枚に脅迫文が横書きで書かれている。30字余りの漢字が使われており、当て字はあるが誤字はなく、句読点も正しく打たれているといった特徴がある。一方、当時の石川さんは、被差別部落に生まれ育ち、小学校から奉公に出るなどして、教育も十分に受けることができず、ほとんど漢字も書けなかった。日常生活で文字、文章を書くこともなかった石川さんの筆跡資料がなかったため、警察は、逮捕直前の5月21日に石川さんに上申書を書かせて、県警鑑識課および科学警察研究所の筆跡鑑定を作成した。確定判決は、これら警察の2鑑定と2審段階で行なわれた高村巌鑑定人(元警察技師)の鑑定を根拠として、犯人と石川さんの筆跡は同一であるとし、有罪の客観的証拠の主軸とした。
弁護団は、有罪の根拠とされた3鑑定が、明らかに相違のある筆跡を鑑定対象から外したり、稀少性(その人だけの書き癖かどうか)を検討していないなど誤った鑑定であることを指摘した。また、大野晋・学習院大学教授をはじめとする多くの専門家の鑑定書を提出し、漢字の使用、句読点、作文能力など国語能力の違いという観点から筆跡の違いを明らかにするとともに、文字形態の違いから筆跡が異なるとする元警察鑑識課員の鑑定書なども提出している。
〈万年筆の疑惑〉
被害者のものとされる万年筆【まんねんひつ】が自白にもとづいて石川さん宅から発見されたとして、有罪の根拠の一つとしてあげられている。この万年筆は、1963年(昭和38)6月26日に3人の警察官が石川さん宅に行き、勝手場入口の鴨居に万年筆があると言って、指紋保全の措置もせず石川さんの兄・六造さんに素手で取り出させたものである。それ以前に警察が2回にわたって家宅捜索をした後の発見であった。石川さんが逮捕された5月23日に1回目の家宅捜索が12人の刑事によって2時間17分にわたって行なわれ、6月18日には2回目の捜索が14人の刑事によって2時間8分にわたって行なわれている。しかも、2回目の家宅捜索の目的は被害者のカバン、万年筆、腕時計等を発見することであった。万年筆の発見場所は石川さん宅の勝手場入口の鴨居の上(床からの高さが175.9cm、奥行き8.5cm)であり、警察官らが捜索で見落とすとは考えられない。
さらに、押収された万年筆が被害者のものであるか否かについても疑問が指摘されている。上告審段階で検察官から開示された被害者の日記およびペン習字清書によって、被害者が事件当日まで使用していたインクがライトブルーであることが明らかになった。しかし、押収された万年筆のインクはブルーブラックであり、被害者使用のものとは異なっていた。また、万年筆からは被害者の指紋も石川さんの指紋も検出されていない。弁護団は、こうした経緯からみて、万年筆は証拠ねつ造の疑いがあり、自白にもとづいて発見された〈秘密の暴露〉とはいえないと主張している。
第2次再審段階で、第1回家宅捜索に加わった元狭山署刑事が〈捜索の際にお勝手を担当した。勝手場入口の鴨居のところにぼろが詰めてあった。ぼろを取って穴の中も捜した。鴨居に手を入れて調べたが何もなかった。あとで万年筆が発見されたと聞いて不思議に思った〉との証言を行なった。この証言は、本人の署名・捺印を得て供述調書として提出されている。
警察が二度の徹底した家宅捜索で勝手場入口の鴨居上に置かれた万年筆を見落とすことが考えられないことは、鴨居の検証を実施すれば一目瞭然である。石川さん宅は95年(平成7)に火事で焼失したが、98年には、鴨居を含む勝手場部分が部落解放同盟の現地事務所内に正確に復元された。弁護団は東京高裁に対し、復元された鴨居の検証を要求している。
[再審闘争の現状と弁護団の活動]
狭山事件再審弁護団【さやまじけんさいしんべんごだん】(山上益朗主任弁護人、中山武敏事務局長)は、新証拠の発見、再審請求の書面の提出とともに東京高裁の担当裁判官との折衝など積極的に再審の実現と雪冤のための活動を行なっている。
*再審【さいしん】制度は〈無【む】辜【こ】の救済〉(無実の人を誤判から救済する)のためにあるといわれる。また、〈《疑わしきは被告人の利益に》という刑事裁判の鉄則を再審においても適用〉し、〈新旧証拠の総合評価〉を行なって、確定した有罪判決に合理的疑いがないか検討するという考え方が最高裁判例(白鳥事件、財田川事件の決定)として示されている。狭山事件においても、こうした刑事裁判の原則、再審制度の理念に立って、弁護側の提出した新証拠と旧証拠を総合的に評価すれば、石川さんを有罪とすることはできず、再審開始は不可避であるというのが弁護団の主張である。
弁護団は東京高裁に対し、鑑定人尋問、証人尋問、現場検証などの事実調べを行なうよう求めてきた。この点については、1991年(平成3)8月に、81人の刑事法学者の連名になる〈狭山事件の事実調べを求める署名〉が東京高裁に提出されている。また、日本弁護士連合会編『続・再審』(1985)も〈鑑定人尋問や現場検証などの事実調べが不可欠のケース〉として狭山事件をとりあげ、事実調べの必要性を指摘している。
また弁護団は、東京高等検察庁に対し、狭山事件にかかわる全証拠の開示を求めている。証拠開示【しょうこかいじ】とは、公判に提出されなかった検察官手持ちの証拠資料を弁護側が入手、利用できるようにすることである。東京高検の担当検事は、狭山事件にかかわる未開示の証拠が相当数あること、ならびに証拠リストがあることは認めているが、開示には応じていない。
この問題は、国会でも繰り返しとりあげられているだけでなく、国連人権小委員会でも、国際人権NGOの*反差別国際運動がとりあげた。98年10月にジュネーブの国連欧州本部で開かれた国際人権B規約委員会は、日本政府に対して〈弁護側がすべての証拠資料にアクセスできるよう法律および実務を改めるよう勧告〉する最終見解を発表している。日弁連も証拠開示立法措置要綱を発表、また、法学者の中からも、再審制度の理念から、また誤判防止のためにも証拠開示の保障を必要とする意見が強く出されている。
[狭山裁判支援の運動]
〈部落解放同盟を中心とする闘い〉
狭山事件で、石川一雄さんが逮捕されるとすぐに、地元の自治会長だった石川一郎は、部落解放同盟埼玉県連委員長で解放同盟中央執行委員でもあった*野本武一に救援を依頼した。野本は東京都連の清水喜久一や群馬県連の清塚幾太郎ら解放同盟の活動家とともに現地を訪れ、家族を励ますとともに、県警・捜査本部に対し見込み捜査ではないかと抗議。同時に、石川さん逮捕とともに被差別部落を犯罪の温床であるかのように報道した埼玉新聞社への抗議も行なった。解放同盟の中央機関紙『解放新聞』(1963年6月25日付)は、万年筆など物証の疑問とともに、石川さんの不当逮捕を部落差別の問題として報じた。野本らは、石川さんの家族の生活や弁護士の活動を支えるために尽力。一方、戦前水平運動にかかわっていた川越市在住の荻原祐介も早くからこの事件に疑問を抱き、家族を激励したり、石川さんに面会したりしていた。
1審死刑判決後、東京拘置所へ移ってから石川さんは警察にだまされていたことに気づき、2審第1回公判で無実を叫ぶ。この無実の叫びに応えて、解放同盟第20回全国大会(1965.10.4〜5)で、埼玉県連が提出した〈狭山事件の公正裁判を要求する決議〉が採択された。また野本らは、解放同盟関東甲信越静協議会でパンフレット『狭山事件』【さやまじけん】を作成、『解放新聞』紙上でも〈石川青年とその家族の救援について訴える〉と題して全国に支援を呼びかけた。
解放同盟第24回全国大会(1969.3.3〜4)では、石川さんの両親が壇上で紹介され、わが子の無実を訴えた。解放同盟はこの大会で〈狭山事件の公正な裁判と無実の石川一雄青年を即時釈放することを要求する決議〉を採択、それまでの石川さん救援運動の取り組みの弱さを総括し、同年6月には、中央本部内に石川青年救援対策本部(本部長・*朝田善之助委員長)を設置、パンフレット『狭山事件の真相』を作成し、全国的な支援闘争を開始した。また国民救援会を中心にした『石川一雄君を守る会』(会長・*難波英夫、1969年11月4日第1回総会)が作られ、活動を始めた。
1969年(昭和44)7月2日には、解放同盟の中央委員会で中田直人主任弁護人が支援強化を訴え、翌3日、全国の中央委員による初めての現地調査が実施された。つづいて解放同盟第25回全国大会(1970.3.2〜3)で〈狭山差別裁判糾弾闘争〉【さやまさべつさいばんきゅうだんとうそう】の方針が提起され、石川さんが狭山事件の犯人にデッチ上げられた背景には、警察の被差別部落に対する見込み捜査、住民の差別意識があり、石川さんの冤罪を晴らすことは部落解放の闘いと一体のものであるとして、5月には〈狭山差別裁判糾弾要綱〉を決定。
解放同盟は、この方針に基づいて〈特措法具体化要求・狭山差別裁判反対・部落解放国民大行動〉に取り組み、狭山事件の真相を全国各地で訴えた。教育から疎外され、文字を奪われてきた石川さんの生い立ちのなかから共通する部落差別の現実を見いだし、狭山事件は石川さん一人の問題ではなく、すべての部落民の問題であるとして、狭山闘争を通して全国の多くの未組織部落の解放運動へのたちあがりがみられた。また、こうした闘いのなかで、〈一人は万人のために、万人は一人のために〉という合言葉が狭山闘争の精神として言われるようになった。
解放同盟は、全国組織をあげての取り組みとともに、当初から労働組合、民主団体への共闘を呼びかけた。とくに、73年に2審公判が寺尾裁判長のもとで再開されて以降、積極的に労働組合や政党へも支援を訴え、74年8月には総評大会での支援決議が確認され、9月10日には、総評主催による〈狭山闘争勝利・部落解放闘争連帯・労働者総決起集会〉が日比谷野外音楽堂で開かれた。狭山闘争を軸とした地域共闘も全国で結成され、こうした闘いが75年の部落解放中央共闘会議結成に結びついていった。
2審における解放同盟を中心とした闘いの広がり、高揚は、74年9月26日の最終弁論、被告人最終意見陳述当日、日比谷公園で開かれた〈完全無罪判決要求中央総決起集会〉に11万人が結集するという裁判闘争史上最大のものとなった。2審・東京高裁の寺尾裁判長による不当判決(無期懲役)に対し、解放同盟は同盟休校の方針を提起。76年1月28日、大阪、奈良で約1万人の小中学生が初めて〈狭山同盟休校〉を行なった。さらに、同年5月22日には、全国19都府県1500校10万人の児童生徒が〈狭山同盟休校〉を行なった。
解放同盟は、狭山闘争を部落解放三大闘争の一つと位置づけ、中央本部に中央狭山闘争本部を設置。再審の段階に入ってからも、東京での大規模な中央集会の開催だけでなく、女性による裁判所を囲む〈人間の鎖〉や裁判所への日常的な要請行動に取り組むとともに、署名活動や要請ハガキ運動などを展開するなど、地域の市民へ向け狭山事件の真相を明らかにし、創意工夫をこらして大衆的な裁判闘争に取り組む努力を続けている。2審段階でも、無罪判決を求める署名は345万人、公正裁判を求める地方議会の決議も273に達した。第2次再審請求にあたって、各界の著名人の呼びかけによる公正裁判を求める署名は120万人に達し、669の地方自治体の首長も署名している。石川さんの無実を訴える署名は解放同盟を中心に繰り返し取り組まれており、提出された署名は950万人を超える(1999年7月まで)。
解放同盟は、早くから石川さんの仮出獄は当然の権利であるとして、仮出獄を求める取り組みを進めてきた。国会でも仮出獄の問題がとりあげられ、再審請求中でも仮出獄は行ないうるとの法務省答弁も引き出し、千葉刑務所長への要請行動などに取り組んだ。こうした闘いと国会議員の取り組み、弁護団の努力の積み重ねの結果、94年(平成6)12月21日、石川さんは再審請求中の仮出獄を果たし、31年7カ月ぶりに故郷の土を踏むことができた。
解放同盟中央本部はまた、狭山事件の冤罪の原因として代用監獄や自白偏重の裁判といった冤罪共通の問題、人権を軽視した刑事司法の問題があり、狭山闘争を、他の冤罪事件の救援運動や司法反動化に反対する運動、刑事司法の民主的改革を求める運動と連携して闘う方針を提起している。また、国際人権B規約をはじめとする国際的な人権基準を根拠にして、国際人権NGOである反差別国際運動などとともに国連などでの狭山事件の真相の訴えも積極的に行なっている。
〈学者・文化人の取り組み、市民運動〉
狭山事件には、指紋や血痕など物証がなく、自白そのものの不自然さや矛盾、代用監獄での長期にわたる取り調べと接見禁止のもとでの自白、自白偏重の裁判といった典型的な冤罪の問題とともに、事件発生直後からの被差別部落に対する周辺住民の差別意識や報道の問題、さらに石川一雄さん自身の生い立ちにみられる差別の現実、とりわけ教育を十分受けられず、文字を奪われた実態など、冤罪の根底にある部落差別の問題に市民一人ひとりが向き合うことが問われている。そうした視点から多くの文化人や学者が支援の取り組みに主体的に取り組んでいる。
作家の*野間宏【のまひろし】は、75年2月から岩波書店の雑誌『世界』に「狭山裁判」の連載を開始、死去する直前まで連載を続けた。79年7月には、野間ら文化人を中心に、〈日付訂正〉にかかわる新証拠をテーマに〈徹夜ティーチイン〉が開催され、広く市民に狭山裁判のおかしさを訴えた。80年には野間宏、日高六郎、針生一郎らが〈狭山事件の再審を求める会〉を発足させ、文化人を中心とする署名運動を展開し、裁判所へ幾度となく足を運んだ。99年11月30日には、庭山英雄、大野晋、灰谷健次郎、鎌田慧らの呼びかけで、〈狭山事件の再審を求める文化人の会〉【さやまじけんのさいしんをもとめるぶんかじんのかい】が発足、〈再審を求める会〉と連携し、あらたに再審支援の運動を始めている。
また、〈*同和問題にとりくむ宗教教団連帯会議〉は、82年以来、毎年、狭山現地調査・研修を行なっている。加盟する宗教教団独自の現地調査や裁判所への要請行動、要請ハガキや署名活動も取り組まれており、宗教者の狭山への関心と支援の取り組みも大きい。
96年に地元の埼玉県内で相次いで結成されたのを契機に、地域住民の市民的な運動として〈狭山事件を考える住民の会〉(〈支援する会〉など、さまざまな名称がある)が全国各地に広がっている。2000年3月現在、全国18都道府県73地区で〈住民の会〉が結成され、独自のスタイルで地域に根ざした狭山支援の市民運動に取り組んでいる。
〈狭山裁判と文化活動〉
狭山事件をテーマとし、真相を広げるための映画が多く作られている。71年に作られた8ミリ記録映画「俺は殺していない」(解放同盟大阪府連制作、脚本・土方鉄)が最初のもので、克明な現地調査の記録と当時高揚しつつあった狭山差別裁判糾弾の闘いの姿を映像におさめている。
73年には、解放同盟大阪府連と〈《同対審》大阪府民共闘〉を中心とした狭山映画製作実行委員会による劇映画「狭山の黒い雨」【さやまのくろいあめ】(監督・須藤久、脚本・土方鉄)が作られた。この映画は73年11月から全国的な上映運動が進められ、2審最終段階の闘いの大きな武器となった。76年制作の解放同盟中央本部を中心とする狭山映画製作実行委員会による劇映画「造花の判決」【ぞうかのはんけつ】(監督・梅津明治郎、脚本・土方鉄)は、一人の司法修習生を主人公に、狭山裁判の矛盾を暴いていくとともに部落差別と向き合っていくドラマである。狭山現地(1975年当時の状況を見ることができる)をたどって有罪判決の認定の矛盾を検証していく映像は説得力がある。100万人上映運動が取り組まれ、上告審の闘いを広げた。この映画はビデオ化され現在も活用されている。
「狭山勝利への道」【さやましょうりへのみち】(1978年、監督・梅津明治郎、脚本・土方鉄)は、最高裁上告棄却への抗議行動、全国行進の姿をおさめた記録映画。「無罪――石川さんは脅迫状を書いていない」【むざい】(1980年、監督・梅津明治郎、脚本・土方鉄)は、解放同盟長野県連の子どもたちが脅迫状の筆跡の違いを追及し、無実を確信していくもの。いずれも解放同盟中央本部制作。82年には、証拠開示によって明らかになった無実の新証拠・小名木証言の真実を広く知らせる記録映画「18年目の新証言――悲鳴・人影はなかった」【じゅうはちねんめのしんしょうげん】(部落解放同盟中央本部制作、監督・松良星二、脚本・近国勝美)が作られた。小名木証言を裏付ける弁護団の実験や再審の取り組みをおさめている。
91年には、解放同盟中央本部・シグロ制作により記録映画「狭山事件」【さやまじけん】(監督・小池征人)が作られた。この映画は、石川さんの兄・六造さん夫妻をはじめ、事件当時を知る人たちへのインタビューを通して、冤罪とその根底にある部落差別、それに立ち向かう各地の闘いの姿をとらえ、〈狭山〉の意味を問うもので、東京では劇場公開もされた。
映画のほかにビデオもいくつか作られている。85年には、最高裁の特別抗告棄却決定を批判するビデオ「真実は勝つ」【しんじつはかつ】(解放新聞社制作)、95年には、仮出獄後の石川さんの訴え、上杉佐一郎・解放同盟中央執行委員長との対談を収録したビデオ「再審・無罪をかちとるまで」【さいしんむざいをかちとるまで】、98年には、狭山事件の経過と現状を30分にまとめたビデオ教材「無実の叫び」【むじつのさけび】も作られた(いずれも部落解放同盟中央本部制作)。
また、狭山事件をテーマとした芝居としては69年5月、京都小劇場で土方鉄作による「闇にただよう顔」【やみにただようもの】が上演されたのが初めてで、解放同盟が狭山闘争に全国組織として取り組む大きな契機となった。75年の第2回部落解放文学賞を受賞した「狭山差別裁判」(戸高恒彦作、のち土方鉄の加筆により「青き布団にくるまりて」【あおきふとんにくるまりて】と改題)が劇団行動座により全国的に上演された。また91年には、解放同盟中央本部が弁護団の協力を得て、「模擬陪審・狭山事件」【もぎばいしんさやまじけん】のシナリオを作成、これをもとに陪審裁判劇の上演が各地で行なわれた。
参考文献=野間宏『狭山裁判』上・下(岩波新書、1976)/同『完本 狭山裁判』(藤原書店、1995)/木山茂『劇画 差別が奪った青春』第2版(解放出版社、1978)/部落解放同盟中央本部中央狭山闘争本部編『無実の獄25年――狭山事件写真集』(同前、1988)/同『知っていますか?狭山事件一問一答』(同前、1994)/佐藤一『狭山事件・別件取調室の30日間』(同前、1995)/浜田寿美男『狭山事件 虚偽自白』(日本評論社、1988)/山下恒男『狭山自白・「不自然さ」の解明』(同前、1990)