個人の素性や身上関係の情報を収集・調査すること。個人や企業の信用情報の収集も含まれる。身元(身許)調査は,特定の調査項目が設定されている場合を除いて,本籍地・家系(血統)・家族構成・居住環境・交際範囲・素行などを,戸籍謄本や*戸籍附票,住民票などの公簿類で確認するほか,聞き込みなどの方法を用いて行なわれる。こうした調査は,信用調査機関(信用告知業)である*興信所【こうしんじょ】や探偵社【たんていしゃ】などによって行なわれるが,
個人や企業などのほか官公庁が自前で行なうこともある。身元調査の一般的な目的は,調査対象者の個人情報や信用の可否を調べることにあるが,とくに問題になるのは,部落出身者の出自を明かすことによって,憲法で保障されている基本的人権(婚姻・就職・思想等の自由)を不当に侵害し,名誉毀損につながるような事態を招くことである。
近現代におけるわが国の身元調査の源流は,明治維新後の藩閥政治時代の密偵政策に求められる。藩閥政府は反対派の監視にもっぱら政府の密偵を多用したが,しだいに民間人がこの役を担うようになっていった。
諸外国でもほぼ同時代の産業革命期に身元調査や信用調査を業とする組織が生まれている。1830年にイギリスで私立探偵社が創業され,アメリカでは41年に世界的に有名なダン興信所が誕生。フランスでは57年,ドイツでは59年に興信所が営業を開始している。わが国では92年(明治25)にできた大阪の商業興信所が最初である。
近代的な産業の発達は都市への人口集中をもたらし,人口の移出入を著しく増加させることになった。それが身元調査の需要を増し,加えて1906年の<戸籍公開制度>の実施が,それにいっそう拍車をかけることになった。戸籍公開制度【こせきこうかいせいど】はその後,公私を問わず身元調査に利用されるようになった。被差別民衆の排除など身元調査の悪質化に伴い,1910年代以降,公権力による身元調査が法的に規制されるようになったが,部落差別に対してはほとんど有効に機能することがなかった。24年(大正13)の<警視庁巡査採用試験差別事件>は,官公庁が職員の採用時に身元調査を行なっていたことを示すものであり,民間人が行なった身元調査による差別事件としては,32年(昭和7)の<岡山県富田村役場養子身元調査差別事件>がある。戦後48年に<滋賀県警醒が井署差別身元調査書事件>が起きているが,これは警察が日常的に身元調査を行なっていることを示している。
現行の戸籍法は47年に制定され,夫婦と子どもで構成する一家庭一戸籍の方式がとられることになったが,差別の記述がある旧戸籍の回収や閲覧禁止の措置は十分に行なわれず,差別的な身元調査に利用されてきた。69年<同和対策事業特別措置法>の制定を契機に,部落解放同盟により〈全国統一・興信所糾弾行動〉が行なわれ,差別的な身元調査に対する批判が全国的に強まっていった。こうした状況のなかで,75年に*部落地名総鑑事件が惹起され,引き続いて9種類に及ぶ同種の出版物が確認された。その後も大阪で調査業者の差別調査事件が発覚、府の行政指導を受ける一方で、この事件では部落解放同盟の要請に基づいて調査業者から依頼企業の顧客リストが提供された。このことは,企業や団体のなかで部落差別の意識が依然として根強いことを物語っている。官公庁を含む企業は,これまでにも就職差別に身元調査を悪用してきたが,やがて履歴書や戸籍謄本の提出で代替されるようになる。しかしその場合も<私の家庭>などの題で作文を書かせるなど,陰湿化した差別による選別が行なわれている。
個人のプライバシー【ぷらいばしー】は,本人の同意なしに利用されてはならない。身元調査のほとんどはプライバシーにかかわる情報である。それが流通することによって個人に計り知れない不利益を及ぼすばかりでなく,調査者の主観による誤ったデータが独り歩きする危険もある。代表的な事例として73年の<*興信所差別身元調査慰謝料請求訴訟【こうしんじょさべつみもとちょうさいしゃりょうせいきゅうそしょう】>があり,原告が勝訴している。
わが国では,興信所など調査業は届け出制とされていて,法律的な規制はほとんどなきに等しい。このような事態の改善をめざして,85年大阪府が<部落差別事象に係る調査等の規制等に関する条例>を制定したのをはじめ、熊本県(95年)、福岡県、香川県(96年)などで同様の条例が制定されている。
参考文献=福島正夫『日本資本主義と<家>制度』(東京大学出版会,1967)/露木まさひろ『興信所』(朝日新聞社,1986)/藤林晋一郎『身元調査』(解放出版社,1985)