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部落解放・人権研究所編『部落問題人権事典』より)
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【部落の歴史】

[前近代]

 近現代の*被差別部落の歴史は,一般に前近代の被差別部落の歴史と連続していると理解されている。ただし明治4年(1871)に発布された,いわゆる*<解放令>(賤民制廃止令,賤称廃止令)より以前の近世の被差別部落ないしは部落差別が,制度的・法制的であったのに対して,それ以降の近現代の被差別部落ないしは部落差別が,非制度的・非法制的であったことなどにみられるように,前近代と近現代との間には大きな差異がみられるので,この点をまず押さえておくことが重要である。

 ところで,前近代のどの時点に被差別部落ないし部落差別の起点を求めるかについても,さまざまな見解が出されていて一定していない。大きく分けても中世の初頭に求める意見と近世の前期に求める意見とが対立している。近世の前期説にも,豊臣期説,寛文・延宝期説あるいは豊臣期〜江戸前期説などがあって定まらない。

 中世起源説【ちゅうせいきげんせつ】の立場からみると,部落の歴史の中世の部分については、次のようである。延長5年(927)に完成した『延喜式』【えんぎしき】に<濫僧>や<屠者>が京都の鴨御祖社の南辺に居住することはできないとして,彼らを排除したことがみえる。さらに長和5年(1016)の記録には,京都・鴨川の河原に住みついていたと思われる<河原人>が死牛の皮を剥ぎ取っていたことが記されている(『左経記』同年正月2日の条)。鎌倉時代の文永・弘安年間(1264〜88)の著とされる*『塵袋』によれば,キヨメが<*エタ>とも称され,人交わりができない人とみられていた(ちなみにこれが<エタ>の初見とされている)。こうした記録などによって,このころにはすでに部落の歴史は始まっているとみるのである。このようにして始まった<*河原者>(<えた><キヨメ>もほぼ同じ階層の人々を指す言葉として使われていたようである)などの中世の被差別身分の人々は,法制的に制度化されたものではなかったが,中世後期の下剋上の社会においても,多少の流動性はあったものの最終的には解体されずに残存し,それらの人々が近世の<えた>(近世部落)にそのまま直結し,その被差別身分が近世の豊臣政権ないしは幕藩権力によって制度化されたとみるのである。

 一方,近世政治起源説【きんせいせいじきげんせつ】をとる立場からみると,中世の河原者などは,近世の<えた>身分の存在形態においても系譜においても差異とズレが認められるので,部落史の前史をなすものであっても,部落史そのものではないと理解するのである。中世起源論者が,中世の<河原者>などを,近世権力による追認・制度化・固定化と解釈するのに対して,近世政治起源論者は,単なる追認とはとらえずに,その制度化の過程こそ部落形成の過程と解し,その制度化ないしは固定化をもって部落史の起点とみなすのである。

 さて,近世政治起源論者のいうところの部落の形成過程を簡単にみておくと,戦国大名が,武具の材料として皮革が大量に必要になってきたことに対応してとった<*かわた>(皮革業者)統制政策によって<かわた>が皮革業という職業に固定化され,かつ一定の場所に定着させられたことを形成過程の起点として重視する。しかし,戦国時代の<かわた>はまだ被差別身分としては制度化ないしは固定化されていないとみる。やがて豊臣政権が天下を統一する過程で,検地政策などの支配政策を通して<かわた>を制度化・固定化し被差別身分として把握したとみて,部落の起源をここに求める(豊臣政権期成立説【とよとみせいけんきせいりつせつ】の場合)。とくに全国的に強行実施された太閤検地の際に作成された検地帳に<かわた>の肩書が広範に出てくることを重視する。しかし,この時点での<かわた>は,被差別身分ではなく,なお皮革業者として職人把握されていると評価して,江戸前期の寛文・延宝期,つまり17世紀後半にならないと部落は成立しないという見解も存在している。いずれにせよ,17世紀後半には,宗門改め制度の整備などに伴って,おおむね幕領・藩領・寺社領などにおいて近世の<えた>(かわた)身分,つまり近世部落が制度化されるに至る。

 近世の主要な制度的身分である武士・百姓・町人(百姓・町人をあわせて<平人【へいにん】>身分とみる考え方も出されている)にも,身分固有の職業と役負担【やくふたん】が決められていたように,<えた>身分には,身分固有の職業として*皮革業(おそらく中世のキヨメ役に由来すると考えられる*斃牛馬処理権=草場株・旦那株から派生する),身分固有の役負担として行刑・警察・掃除・皮革上納などが課せられた(当時,死牛馬の処理の仕事や*行刑役・掃除役などは*穢れ多い仕事・役務とみられていた)。

 近世部落の人々は,身分制度の最下層に位置づけられ,領主から種々の差別的規制を受けたうえ,不浄視され,<平人>社会から排除ないしは疎外されることが多かったが,そうした厳しい境遇にもめげず,皮革業およびそれとの関連業である*雪駄製造や*太鼓製造などにおいて優れた技術を発揮したばかりか,地域によって職種の違いはあるものの,農業・漁業・林業・医業・売薬業・獣医・筬製造業・*砥石製造業などさまざまな分野で活躍した。また,民間芸能や民衆文化の創造において,大きな足跡を残したことにも留意しなければならないだろう。

 江戸中・後期になると,部落の人々も,積極的に百姓や町人とも交流を深めたり,領主が打ち出す差別政策に反対して一揆や逃散を行ない抵抗の姿勢を示すようになる。安政3年(1856)6月に岡山藩の発した差別法令に反対して,その適用の凍結を勝ち取った*渋染一揆は,その抵抗闘争の最高峰をなすが,そのすそ野には全国各地の部落の人々によるさまざまな闘いがあった。

(寺木伸明)

[近代]

〈維新前後〉
 江戸時代末期,近畿から瀬戸内沿岸では軍・民とも,皮革の需要が増加していた。また,幕府と長州の戦争に,資金と労・軍役を課せられ,解放を約束された*弾左衛門らや長州の*維新団などの被差別民も参加している。一方,大都市でも*野非人の流入と居住があり,<人返し令>や<移住策>で対応したが失敗。浪人・乞食対策上,警刑役は重要さを増していたが,明治初期の官制改革のなかで廃止され,被差別民の役負担と特権は消滅した。肉食禁令の処罰も解かれ,牛馬捨場から〈と場制度〉へ転回、これらの産業には民間からの投資もあり、皮革・草履産業も技術導入をみながら発展の基礎をつくった。その後、生活習慣の変化や外国品の流入により産業構造が変化していくが、従来の賤視観念から部落民の生業として続いた。開港地,炭鉱,都市では新しい底辺労働者として人夫・炭鉱夫・土木・建設・マッチなど雑業者層が形成され,農村でも地主制の展開のなかで小作人・日雇い・雑業層が成立,一般貧民・貧農と競合しあった。

 維新政府は明治4年(1871)に*〈解放令〉を宣言,<穢多・非人・その他の雑賤民>の身分解放も行なった。翌年の芸・娼妓解放と相まって封建的諸身分の法的解放が整った。ここに,天皇は国(臣)民との近代的社会秩序を形成しうる根拠をもった。こうした改革により、部落民は結婚・職業・所有・経営・居(移)住などの自由を得るとともに、市町村合併により被差別部落は一般町村に編入されることもあったが、旧慣上,一般地域社会から排除と差別を受け続けた。また、これらの自由と権利は国民の三大義務と関連づけられ,とくに納税・教育など重い負担が課せられた。維新期の啓蒙・民権思想は,不十分であれ,ともに部落解放の視点をもっていたが,資本主義的思考や民族主義的思潮が強まるなかで,社会進化論・有機体論が啓蒙・民権思想を変質させていく。さらに伝統的・土着的な宗教・民俗的思考が加重された。これらが現在まで解放思想の課題とされる天皇制的融和思想の根拠となった。

〈大正民本主義前後〉
 日清・日露戦争は国民的高揚をよび,民族的自立と排外の思想・行動は部落の指導層にも影響をもたらした。*部落改善運動と海外渡航(移民)の夢である。改善運動は,差別の原因を内部の貧困,習俗,教育のあり方に求め,その反省と一般社会への同化を求めて組織化するものであった。渡航熱は個人をとらえ,その試みも始まった。この動向に転換をもたらすのは民本主義と民族独立の高揚であった。普通選挙運動には部落の中間層までが関心を寄せ,社会主義国家ソビエトの成立はインテリ層に衝撃を与え,民族独立の声は部落民を渡来民出自と考える内外の人々に動揺をもたらしたが,決定的な影響は*米騒動への部落大衆の多数の参加であった。

 有力な中央融和団体である*帝国公道会(1914)は,米騒動への部落民の参加に驚愕し,鎮撫のため各地を巡回したが,やがて部落民から反発をかった。しかし,*備作平民会(1902),*大和同志会(1912)などの幹部は中央への接近をはかった。*三好伊平次は岡山から上京,その後の融和運動の中枢を担い,奈良の*松井庄五郎は同志を求め,それまで以上に言論活動を拡大させ,地方での団体結成を促した。1910〜20年代にかけての20年間の融和団体結成は,官の助成があるとはいえ最盛期を迎えた。

〈全国水平社の成立と活動〉
 大和同志会の内部は村内指導者層と青年層で思想的対立があり,青年層は,従来の改善・融和の路線を否定,折から人間主義,民本主義,社会主義に根ざした思想を共有していた。それは宗教的来世観も否定することであった。1922年(大正11)3月3日,*全国水平社の結成には全国から数多くの青年層が集まった。*全国水平社創立宣言では,皮革産業にまつわる殺生・業観を否定,単なる職業の自由観では主張できない伝統的<生業>を通じて解放への回路をもつものであった。そして,解放を<人類最高>の目的とし,それに向かう歴史的使命を担う者を部落民とした。また,人間の本性を<性善説>的に積極的に把握し,*糾弾はその本性の質を問い,目的達成に至る方法として<*綱領>と<宣言>を連結させた。ここに,これまでの改善団体とは質的に異なる存在として成立したのである。

 水平社は糾弾を通して社会と人間の変革を試みたが,一方,朝鮮の<*白【ペク】丁【チョン】>解放団体である<*衡【ヒョン】平【ピョン】社【サ】>とも関係をもち,1920年代には米国の排日諸法案,1930年代にはナチスのユダヤ人政策反対など民族連帯の動向をみせたが,1930年代には,その伝統は戦争拡大とともに中断された。一方、全水内部には、部落解放を理念としながら、日本共産党を支持するグループ(左派)、のちに日本水平社として分出していくグループ(右派)、福岡や奈良を中心とした差別糾弾・人間尊重を基本とする社会民主主義的なグループ(中間派)、共産党反対に結束したアナキスト派など、当時の社会運動の諸派が存在した。

 1920年代後半から30年代にかけて、部落の産業や労働は、農村経済救済策の結果、山形表など一般農村による履物業への進出、また小作・賃労働層の増大など衰退・貧困化が進む一方、皮革・食肉産業の伸長など産業構造の変化に直面していた。そして、日中戦争が始まる36年前後、運動は組織防衛を選択、改良主義的方向へ向かう。差別事件も部外者をまじえての対話と解決による〈人民融和の道〉をめざす一方、地方改善費の獲得にも乗り出した。戦時産業統制網に入り、生活防衛のため経済更生会を組織。融和団体*同和奉公会との合体を試みたが、政府が強行した<言論・出版・集会・結社等臨時取締法>(1941)で自然消滅を決意,ここに水平社の歴史を閉じた。

〈中央融和事業協会の成立と活動〉
 全国水平社創立をみて,23年*内務省は*中央社会事業協会に地方改善部を設立。地区整理と*育英奨励に努め,地方改善講習会も開催,幹部育成を始めた。このころから<部落改善>を<地方改善>へと呼称変更。そして帝国公道会・*同愛会などが経営難となるや,地方改善部との合併工作にあたり,ここに*中央融和事業協会の成立をみた。協会は中央的組織として地方融和団体の予算と活動を統括した。中融は同和地区の改善と国民との融合につとめたが、その中心理念は天皇のもとでの臣民的平等にあった。

 1920年代から30年代の部落産業の動揺と恐慌に直面し失業や人口流動が進むなかで、中融は全水の革命的行動に対応して*部落経済更生運動――*融和事業完成10カ年計画を提起して地区の運動の掌握に乗りだし、部分的に成功した。次いで40年,戦時下の転・失業,統制経済,*満州移民策に協力,*資源調整事業計画を実施,部落の<人的資源>活用計画の実施に乗りだした。この前後,一部のメンバーは全水との合体的行動を試みるが,すぐに解消した。また,国民精神総動員体制にも協力,大政翼賛会参加をめざしたが失敗。独自に*同和奉公会を成立させた。そのイデオロギーは天皇制護持のもとアジア聖戦完遂にあり,国内の差別事件は黙視した。戦後,46年3月に解散したが,地方の幹部のなかには*同和事業に関与を続けた者も多かった。

(秋定嘉和)

[現代]

 戦後,GHQの主導のもとに民主化の改革が推し進められ,1946年(昭和21)2月に結成された*部落解放全国委員会もこの動きに期待をした部分もあったが,戦後の混乱も終息しはじめたころ,部落の現実は,劣悪な環境のまま,行政からも放置され,民衆の部落に対する差別意識も戦前と変わらない状況にあった。また教育面では,部落の児童・生徒の*長欠・不就学が大きな問題として取り上げられた。51年の*オール・ロマンス事件や翌52年の*西川県議事件をきっかけに,全国で差別糾弾闘争が展開された。一方,地方行政にあっては,近畿を中心にわずかではあったが,*同和行政が継続され,51年には,*全日本同和対策協議会が結成される。しかし,国のこの問題に対する対応は鈍く,53年に戦後初めての同和予算が組まれたものの,その後も部分的なものにとどまっていた。

 50年代後半になると,朝日新聞による「部落 三百万人の訴え」をはじめ,マスコミがこの問題を取り上げ,*日本社会党や*日本共産党も部落差別撤廃に向けた党の基本政策を発表,また解放運動も*国策樹立請願運動を展開。こうした動きに押され,政府・自民党も同和対策要綱に基づき,モデル地区事業などを実施したものの,基本的な問題解決にはほど遠いものであった。65年,国の答申としては画期的と評価される〈*同和対策審議会答申〉が出され,そのなかで,部落問題の解決を〈国の責務であり,同時に国民的課題〉と位置づけた。これに基づいて69年に*同和対策事業特別措置法が制定され,このころから,国および地方自治体の*同和対策事業がようやく本格的に行なわれる。

 一方,運動面では,69年の*矢田教育差別事件をきっかけに,*部落解放同盟と日本共産党の対立が表面化,同和行政や糾弾のあり方をめぐって,各地で訴訟となる。その後,75年に部落解放中央共闘会議が結成されたり,同年の*〈部落地名総鑑〉事件,79年の*世界宗教者平和会議差別発言事件を契機に,各地で*同和問題企業連絡会や*『同和問題』にとりくむ宗教教団連帯会議が結成されるなど,この問題が国民運動として展開されるようになる。

 同対法に続いて制定された*地域改善対策特別措置法が期限切れを迎える87年頃になると,部落の住環境などハード面に関しては,一定の成果を見せ始めるとともに,他方で,同和対策事業に関するねたみ差別意識や逆差別論などが登場,市民に対する啓発問題などソフト面が大きく浮上。90年代になると,部落差別意識の根源を問う,〈*穢れ〉意識や〈*イエ〉意識などが議論されるようになる。解放運動の面では,それまでも実践されてきた他の人権運動団体との共闘関係を深めるとともに,*反差別国際運動(IMADR)の設立(1988)に見られるように,国際人権の視点での活動が盛んになってきている。

(金井宏司)

参考文献=部落問題研究所編『部落の歴史と解放運動』(1965)/原田伴彦『被差別部落の歴史』(朝日新聞社,1973)/部落問題研究所編『部落の歴史と解放運動 前近代篇』(1985)/部落解放研究所編『部落解放史 熱と光を』上・中・下巻(解放出版社,1989)/秋定嘉和『近代と被差別部落』(同前,1993)