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ヒューマンライツ174号より
掲載日:2002.9.10
部落差別撤廃の視点から見た人権擁護法案の問題点

友永健三(部落解放・人権研究所所長)


1,はじめに

 人権擁護法案が、秋の臨時国会へ継続審議となった。この法案については、「メディア規制法案」であるとの批判が、とくにメディアによって強く報道されたので、そのように思っている人は少なくない。確かに、この法案は、メディアの取材活動を萎縮させる危険性をもった側面があり、この批判は当たっている。

 しかしながら、この法案が提案されるに至った経過をつぶさに調べれば明らかだが、部落差別をはじめとする日本に存在する差別の撤廃と人権侵害の効果的な救済のため、さらには差別撤廃と人権確立を求めた国連をはじめとした国際的な働きかけを受けて、この法案が提案されてきたのである。

 この経過を踏まえたとき、人権擁護法案の最大の問題点は、部落差別をはじめとする差別の撤廃と人権侵害の救済に真に役立つものとなっていないこと、国連をはじめとした国際的な潮流を踏まえたものとなっていないことにある。

去る7月5日から9日まで、国連人権高等弁務官事務所の特別顧問で、国内人権機関の専門家であるブライアン・バーデキンさんが来日されたが、7月6日、筆者は、バーデキンさんに「部落差別の視点から見た人権擁護法案の問題点」について説明した。その内容と、その後の意見交換を踏まえ、人権擁護法案の問題点を以下に指摘する。


2,部落差別事件の現実

 一般的にいって、新たな法律を制定する場合、その法律を制定しなければならないほどの現実があるかどうかが、まず問題となる。これを「立法事実」と呼ぶ。

 人権擁護法案の場合、部落差別の現実、とりわけ差別事件の現実としては、以下に紹介するような事件があった。

(1)部落地名総鑑差別事件と差別身元調査事件

 1975年11月、部落地名総鑑差別事件が発覚した。その後の究明活動の中で、少なくとも8種類もの地名総鑑が存在していたこと、作成・販売者は興信所・探偵社などの調査業者であったこと、購入者は220を超しており、大半は企業であったこと、企業は、主として就職差別のために地名総鑑を購入していたこと等が判明してきた。この事件を追及する運動の中から、地名総鑑の作成・販売や部落差別身元調査、さらには就職差別の禁止の必要性が明確に指摘されるところとなってきた。この結果、大阪府等では、調査業者による部落差別調査等を規制する条例が制定されたが、国のレベルでは、全くこの指摘を受けた法整備がなされなかった。

 1998年6月、差別身元調査事件が発覚した。この事件に対する究明活動の中から、1400社に上る企業が、大阪に本社がある経営コンサルタントの会員となっていたこと、少なくとも700社に及ぶ会社が採用にあたっての身元調査を依頼していたこと、依頼を受けた経営コンサルタントが子会社の調査会社を使って、部落差別はもとより、民族差別、思想・信条に基づく差別につながる調査を実施し報告していたことが判明してきた。

 もしも、部落地名総鑑差別事件が発覚した時点で、部落差別調査や就職差別を禁止する法整備を行っていたならば、差別身元調査事件は防げたかもしれなかったのである。政府と国会の不作為に対する批判は高まり、1999年6月、職業安定法が改正され、採用にあたって差別につながる情報を収集することが禁止されることとなった。しかしながら就職差別を明確に禁止したものではないという問題は残された。

(2)差別落書き事件とインターネットによる差別事件 

 1970年代後半から、全国的に「部落民を皆殺しにせよ」といった、大量殺戮を呼びかける差別落書き、差別投書等が多発してきた。ドイツにおけるナチスによるユダヤ人に対する大量虐殺は、落書きから始まったという歴史的な教訓を踏まえ、こうした差別宣伝、差別扇動については表現の自由だとして放置するのでなく、何らかの法的規制の必要性が部落解放運動の側から指摘された。けれども、この提起に対しても政府・国会は何らの対応もしなかったのである。

 このため、差別落書き、差別投書は、今日でも全国的に多発しているが、1990年代後半に入って、インターネットを使った差別宣伝、差別扇動が多発してきている。その内容としては、<1>「部落民を皆殺しにせよ」といった大量殺戮を呼びかけるもの、<2>部落の地名と所在地の一覧を流布するもの、<3>著名人を名指しで部落民であるとか在日コリアンであるとか決めつけているもの、<4>社会に衝撃を与えた殺人事件等が生起したとき容疑者を部落民であると決めつけた情報を流すもの、等がある。これまでの差別落書きや差別投書と比してインターネットは、情報伝達力が格段に大きいことから、部落解放運動の側から公的な苦情処理機関の設置、苦情処理機関による差別情報発信者に対する指導、指導に従わない場合の罰則の必要性等が指摘されているが、今日に至るまで、このための法整備はなされてきていない。

(3)説得してもやめない差別事件

 1983年6月、福岡県福岡市において、大蔵住宅差別ビラ配布事件が生起した。この事件の内容は、福岡市内で大蔵住宅からマイホームを購入した男性が、被差別部落内に建てられた住宅であることを知らされず住宅を買わされたといった差別的な内容が書かれたビラを大量に配布したという事件である。このビラで取り上げられた部落の住民代表が差別ビラの差し止め請求を福岡地裁に求めたところ、それが認められた。しかしながらビラを配布した当人は、これに従わなかったどころか、部落名を明記したビラを配布し、ついには行方をくらませたという事件である。

1993年10月以降、大阪府岸和田市の住民が、自らに不利益を及ぼした人物を、名指しで部落民であると決めつけ誹謗中傷した看板を自宅の敷地内に立てかけ、大阪法務局や、大阪府、岸和田市等関係行政の説得にも従わないという事件が続いている。

 大蔵住宅差別ビラ配布事件や岸和田市住民による差別看板掲示事件のように、差別事件を引き起こしながら、関係行政機関の説得に従おうとしない差別事件が、愛知県名古屋市、福岡県田川郡等でも生起しているが、部落解放運動の側からは、何らかの規制の必要性が指摘されているが、今日に至るまで、このための法整備はなされていない。


3,総務庁地対室による実態調査結果

 以上、現行の法制度では効果的な対応ができない差別事件の実態を紹介したが、政府が実施した実態調査によっても、現行の人権擁護制度が全くといって良いほど役立っていない実態が明らかになってきている。

 1993年11月、総務庁地域改善対策室は、かつてない規模で同和地区生活実態把握等調査を実施した。この調査結果によれば、結婚や就職、学校や職場、さらには地域社会などで直接的な被差別体験を持つ同和関係者はおよそ3人に1人であった。その直接的な被差別体験を持っていると回答した人に、そのときの対応を尋ねたところ「法務局や人権擁護委員に相談した」と回答した人は、わずか0.6%しかなかった。

 政府が行った調査によって、現行の人権擁護制度が全く機能していない実態が明らかになったという意味で、この調査結果は、人権擁護法案の提案に大きく影響したと言えよう。


4,内閣「同対審答申」の指摘

 新たな立法にあたっては、これまで紹介してきた「立法事実」とともに、専門家による分析と提言を踏まえることが必要である。この点で、人権擁護法案は、人権擁護推進審議会からの2つの提言ー「人権救済制度のあり方について」(2001年5月)と「人権擁護委員制度の改革について」(2001年12月)ーを受けたものであるとされている。 確かに、その面はあるが、実は、それよりも遙か以前の1965年8月に出された内閣同和対策審議会答申(「同対審答申」)の中に、差別に対する法的規制と効果的な救済の必要性についての指摘がなされていたのである。たとえば、差別に対する法的規制の必要性については、第3部「同和対策の具体案」の「5.人権問題に関する対策」のなかで「「差別事象」に対する法的規制が不十分であるため、「差別」の実態及びそれが被差別者に与える影響についての一般の認識も稀薄となり、「差別」それ自体が重大な社会悪であることを看過する結果となっている。」と問題点を指摘したうえで「差別に対する法的規制、差別から保護するために必要な立法措置を講じ、司法的に救済する道を拡大すること。」と提言していたのである。

 また、現行の人権擁護制度の問題点についても「基本的人権の擁護を法務省の一内局である人権擁護局の所管事務とし、しかも民事行政を主掌する法務局及び地方法務局に現場事務を取り扱わせている現在の機構は再検討する必要がある。戸籍や登記事務を扱っていたものが人権擁護の職務に配置されるという組織にも不適当なものがある。」と指摘し「人権擁護機関の活動を促進するため、根本的には人権擁護機関の位置、組織、構成、人権擁護委員に関する事項等、国家として研究考慮し、新たに機構の再編成をなすこと。」との提言を行っていたのである。


5,部落解放基本法案と差別規制法要綱案での提案

 本来なら「同対審答申」を踏まえ、部落問題を根本的に解決することに役立つ「基本法」が制定される必要があった。しかしながら、現実に制定された法律は、「基本法」ではなく、同和対策事業特別措置法であった。その後、名称の変更を伴いながら一連の特別措置法に基づく施策が実施されてきた。この結果、被差別部落の住環境面の改善を中心に部分的な成果を上げてはきたものの、差別意識の撤廃には見るべき成果を上げることができなかったし、差別事件に対しては全く無力であった。

 そこで、1985年5月、部落解放基本法制定要求国民運動中央実行委員会から「同対審答申」の精神等を踏まえた「部落解放基本法案」が提示されたのである。この中に、悪質な差別に対する法的規制と差別の被害者の効果的な救済を行うために人権委員会を設置するなど法整備の必要性が盛り込まれた。たとえば、法案の第7条には、「国は、部落差別事象を防止するため、部落差別を助長する身元調査活動の規制、雇用関係における部落差別の規制等必要な法制上の措置を講じなければならない。」と、差別に対する法的規制の必要性が盛り込まれた。また、第8条には、「国は、部落差別の被害者に対する救済制度を確立するため、人権委員会の設置等必要な法制上の措置を講じなければならない。」と、新たな救済機関の設置の必要性が盛り込まれた。

 なお、部落解放基本法案では、差別に対する法的規制や救済に関わった法整備の必要性が盛り込まれただけであったので、この基本法案を受けた「差別規制法要綱案」が、「部落解放基本法」検討委員会から同年1月に示されたが、この中には、「差別表現、差別扇動の禁止(集団に対するものも含む)」、「差別的な身元調査の禁止」、「雇用関係における差別の禁止」、「人権委員会」などに関する規定が盛り込まれた。


6,国際人権規約、人種差別撤廃条約の規定と委員会からの勧告  

 部落解放運動を中心に展開された批准促進運動を受けて、日本は、1979年6月に国際人権規約を批准し、95年12月に人種差別撤廃条約に加入した。これらの条約には、差別の禁止に関する条文や差別の被害者の救済に関する条文が盛り込まれていた。たとえば、国際人権規約の中の自由権規約の第20条2項には、「差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する。」と規定されている。また、人種差別撤廃条約の第2条1項(d)では、「各締約国は、すべての適当な方法(状況により必要とされるときは、立法を含む)により、いかなる個人、集団又は団体による人種差別をも禁止し、終了させる。」と規定されているし、第5条では、結婚や雇用、住居や一般公衆が利用する場所などにおける差別が禁止されている。

 また、国際人権規約や人種差別撤廃条約の場合、各締約国に対し、その実施状況を定期的に報告することを義務づけている。これらの報告書は、それぞれの条約に基づき設置された委員会で審査され、その結果は勧告を含んで公表されている。日本政府から出された報告書の審査の結果出された一連の勧告の中に、差別の禁止と独立性のある救済機関の設置の必要性が盛り込まれている。

 たとえば、1998年11月、自由権規約委員会から出された日本政府に対する勧告の中には、「委員会は、人権侵害を調査し、申し立ての是正措置をとることに役立つような制度的機構[訳注:国内人権機関]が存在していないことに関し懸念を表明する。当局が権力の濫用を伴わず、実際に個人の権利を尊重するということを保障する効果的な制度的機構が必要とされる。委員会の見解では、人権擁護委員はそのような機構ではない。なぜなら法務省によって監督され、その権限は勧告を出すことに厳密に限定されてしまっているからである。委員会は、人権侵害に関する苦情申し立てを調査する独立的な機構を締約国が設立することを強く勧告する。」と、真に人権救済に役立つ独立した国内人権機関設置の必要性が指摘されている。

また、2001年3月、人種差別撤廃委員会から出された日本政府に対する勧告の中には、「委員会は、締約国の法律においてこの条約に関する唯一の規定が憲法第14条であることを懸念する。この条約が自動執行性を有さないという事実を考慮し、委員会は、とくに条約第4条及び第5条の規定に従い、人種差別を禁止する特別法の制定が必要であると信ずる。」と、人種差別撤廃条約を受けた差別禁止法の制定が必要であることを指摘している。


7,国内人権機関の地位に関する原則(パリ原則)に盛り込まれたもの

 1948年12月、第3回国連総会で世界人権宣言が採択された。それ以降今日まで、国連は人種差別撤廃条約や国際人権規約等26にも及ぶ条約を採択してきている。そして、これらの条約を批准・加入する国も次第に増えてきている。にもかかわらず、いずれの国においても人権侵害は絶えず、差別もなくなっていない。ということは、締結された条約が国内で守られていないということである。

 一方、人権侵害や差別による被害の救済は、最終的には裁判所で行われることとなる。しかしながら、裁判には時間とお金がかかる。このため泣き寝入りになっている現状がある。さらに、裁判では個々の事件に対する判断は示せても、そうした問題を根絶するための方策を提言する機能はない。そこで、国連は、裁判ではなく、簡単に相談に行け、基本的には無料で、迅速に救済を図ることができるとともに、差別や人権侵害を根絶するための方策を提言することができる機関を各国内に整備することを奨励している。このための会議が1991年にフランスのパリで行われ、「国内人権機関の地位に関する原則」がまとめられ、パリ原則とも呼ばれている。その後、この原則は、93年12月、第48回国連総会で承認され、日本政府代表もこれに賛成している。

 パリ原則は、「権限と責任」、「構成と独立・多元性の保証」、「活動の方法」、「準司法的権限を持つ委員会の地位に関する追加的原則」から構成されている。この内、「権限と責任」では、国内人権機関は、人権の伸長と保護に関する可能な限り広範な権限を持つこと、このため政府や議会に対して、意見、勧告、提案ができることが必要なことなどが盛り込まれている。「構成の独立・多元性の保証」では、国内人権機関の構成員の任命は、当該社会の多元的な代表を確保するために必要な手続きに従うこと、国内人権機関は、政府から独立して財源、建物、職員等を確保できること等が必要であると指摘されている。「活動の方法」では、政府から独立して相談に応じ、文書を入手し、会合を開催し、その権限に属する問題を討議できること、人権の伸長と保護、人種主義と闘うNGO等との関係を発展させること等が盛り込まれている。「準司法的権限を持つ委員会の地位に関する追加的原則」では、国内人権機関は、個人、その代理人、NGO、労働組合等から苦情の申し立てを受けることができること、調停や法律で定められた制限内で拘束的決定を求めることができること等が盛り込まれている。


8,人権擁護法案の問題点<1>〜人権と差別禁止に関する規定について

 以上、少々長くなったが、人権擁護法案が提案されることとなった、「立法事実」、専門家やNGOの見解、国際的な潮流を紹介した。これらの事項を踏まえ、今回提案されてきた人権擁護法案(以下「法案」と略)の基本的な問題点を以下に指摘する。

第1番目の問題点は、「人権」に関する定義が欠落していること、「差別の事由」に欠落したものがあること、「禁止されていない差別」があることである。具体的に言うと、「法案」の第2条1項で、「この法律において「人権侵害」とは、不当な差別、虐待その他の人権を侵害する行為をいう。」と規定されているが、肝心の「人権」については、定義が欠落している。その点では、たとえば、「この法律において「人権」とは、日本国憲法及び日本が締結した人権に関する条約に規定されている権利をいう。」といった規定が盛り込まれる必要がある。

 次に、「差別の事由」に関していえば、「法案」で指摘されている事由は、第2条5項に規定されている「人種、民族、信条、社会的身分、門地、障害、疾病又は性的指向(「人種等」と略)」である。ここには、「国籍」による差別、「婚外子」に対する差別が欠落しており、これらの事由も盛り込む必要がある。

 さらに、「法案」の第3条で「人権侵害等の禁止」として、<1>不当な差別的取り扱い(公務員による人種等を理由とする不当な差別的取り扱い、物品、不動産、役務等を提供する立場での人種等による不当な差別的取り扱い、採用や労働条件について人種等による不当な差別的取り扱い)、<2>不当な差別的言動(特定の者に対し、人種等の属性を理由とする侮辱、嫌がらせその他の不当な差別的言動、特定の者に対し、職務上の地位を利用し、その者の意に反してする性的な言動)、<3>虐待、<4>部落地名総鑑の頒布、掲示、公然表示、<5>住宅入居者募集等で「外国人お断り」などの広告、掲示、公然表示、が盛り込まれた。第3条の規定によって、部落差別に基づく就職差別や部落地名総鑑差別事件などが明確に禁止されることとなってきた。これは、一歩前進である。しかしながら、部落差別に基づく身元調査や「部落民を皆殺しにせよ」といった集団に対する差別扇動は禁止されていない。これらも、第3条に盛り込む必要がある。


9,人権擁護法案の問題点<2>〜人権侵害等の禁止と救済の実効性について

 第2番目の問題は、「法案」によって人権侵害等が、果たして現実に禁止され、実効的な救済がなされるのかどうかという問題である。この点でもいくつかの問題がある。たとえば、第38条に「救済手続きの開始」に関する規定があるが、「当該申し出の行為の日(継続する行為にあっては、その終了した日)から一年を経過した事件に係るときは、この限りでない。」とされている。しかしながら、たとえば「差別身元調査事件」の場合、1993年当時行われていた差別調査の実態が98年に判明してきたという現実がある。したがって、人権委員会が取り上げる人権侵害等は少なくとも3年程度とする必要がある。

 次に「法案」では、第44条で不当な差別、虐待等については「特別調査」ができることとなっていて、具体的には、「出頭を求め、質問すること」、「文書の提出と留め置き」、「立ち入り検査」ができることとなっており、これに従わない場合、30万円以下の過料という罰則がある点は、一歩前進として評価できる。

 「差別助長行為等に対する救済措置」としては、第60条で「勧告」、第61条で「勧告の公表」ができることとされている。しかしながら、先に紹介した大蔵住宅差別ビラ配布事件、岸和田市住民による差別看板掲示事件などを見たとき、「勧告」や「勧告の公表」では、効果はないといわねばならない。この点に関し、「法案」では、第62、63条で、差別助長行為等による被害者が訴訟を起こした場合、人権委員会が資料の閲覧及び謄抄本の交付、訴訟参加によって訴訟援助ができるとされている。この規定によれば、結局差別ビラや差別看板に名前を書かれた当事者が訴訟を起こし、それに対して人権委員会が援助するということであるが、当事者の負担は少なくないので、訴訟まで提起する人はなかなか出てこないことが予想される。その点では、「勧告」に従わなかった場合の罰則が必要である。

 部落地名総鑑の頒布、掲示、公然表示や住宅入居者募集等で「外国人お断り」などの広告、掲示、公然表示の場合、「法案」第64条で、人権委員会は、これらの行為の停止又は将来同様の行為を行わないことを勧告することができる。さらに、第65条で、この勧告に従わなかった場合、人権委員会は、これらの行為の停止又は将来同様の行為を行わないことを請求する訴訟を提起することができる。第65条の規定によって、被害者ではなく、人権委員会自体が訴訟を提起できるとした点は、一歩前進として評価できる。しかしながら、日本の法体系では、裁判所が、これらの行為の停止又は将来同様の行為を行わないことを命じた場合でも、これに従わないことに対する罰則はないという問題がある。


10,人権擁護法案の問題点<3>〜人権委員の多元性について

 第3番目の問題は、新しく設置される人権委員の多元性が保証されるかどうかという問題である。「法案」の第8条で、人権委員会の組織についての規定があり、「委員長及び4人の委員」、「委員のうち3人は、非常勤」と規定されている。また、第9条で、人権委員の任命について、「人格が高潔で人権に関する高い識見を有する者であって、法律又は社会に関する学識経験のあるもののうちから、両院の同意を得て、内閣総理大臣が任命する。」とされている。

 これらの規定を見たとき、5名では多元性の保証は困難であるという問題がある。先に紹介した「パリ原則」を踏まえるならば、人権委員には、法律に関する学識経験者のみでなく、被差別部落出身者、アイヌ民族、女性、障害者、在日外国人、HIV感染者、同性愛者等の代表者が選ばれる必要がある。ちなみに、韓国やタイの場合、人権委員の人数は、11名である。日本の場合も、この程度の人数にする必要がある。

 また、人権委員の任命の方式が「両院の同意を得て、内閣総理大臣が任命する」というものでは、パリ原則に盛り込まれている、「人権NGOや労働組合、専門家の意見を反映する仕組み」が欠落しているという問題がある。その点では、タイの場合、人権NGOも参加した組織で22名の人権委員候補を選び、この中から11名の委員を上院が選ぶという方式を採用していることが参考になろう。


11,人権擁護法案の問題<4>〜人権委員会の独立性について

 第4番目の問題として、人権委員会の独立性に関する問題がある。「法案」では、第5条で、「国家行政組織法第3条2項に基づいて人権委員会を設置する。」「人権委員会は、法務大臣の所管に属する。」と、規定されている。

 しかしながら、法務省は、政府各府省庁の中でも、最も権力性の強い機関である。たとえば、刑務所や入国管理施設は法務省の管轄下にある。これらの施設の中で深刻な人権侵害が生起しているが、法務省の外局として設置される人権委員会が、果たしてこれらの問題を取り上げることができるであろうかという問題がある。また、人権委員会が法務省の外局とされているため、「法案」第5章では、労働関係特別人権侵害は人権委員会ではなく厚生労働大臣が、船員労働関係特別人権侵害は人権委員会ではなく国土交通大臣が所管するとされている。こうした問題点を克服するためには、人権委員会は内閣府の外局、又は人事院のように内閣に属するとした方がよい。

 人権委員会の独立性を検討する際、事務局職員がどのように採用されるかが決定的に重要である。この点に関して、「法案」では、第15条で「人権委員会に事務局を置く」、「事務局には弁護士となる資格を有する者を加えなければならない。」との規定しかない。けれども、「人権委事務局と法務省本体とで人事交流はするのか。」との質問に対して、法務省の幹部は、「する。現在の法務省の人権部門には中央と地方を合わせて240人ぐらいしか専従職員がいない。法務省や他省庁との人事交流なしでは組織が成り立たない。」との回答をしている。(2002年4月11日付け 朝日新聞)これでは、人権委員会事務局の独立性は、全くないといわねばならない。なぜなら、人権委員会事務局に出向してきた法務省の職員は、次には法務省に戻ることになるため、法務省に都合の悪いことはしたくないという意識を持ってしまうからである。この点を克服するためには、人権委員会を立ち上げる際、法務省から事務局に入る職員がいるとしても人数は限定的なものとし法務省には戻れないようにすること、人権委員会自体が、独自に人権問題に精通し熱意のある職員(被差別の当事者や人権後での活動経験のある人など)を採用することが重要である。


12,人権擁護法案の問題点<5>〜人権委員会のアクセスの容易さについて

 第5番目の問題としては、人権委員会のアクセスの容易さに関する問題がある。「法案」では、人権委員は全国レベルで5名任命されるだけで、たとえば都道府県単位に見た場合、人権委員は任命されず、第16条で「地方事務所等」が設置されることとされている。それによれば、「人権委員会の事務局の地方機関として、所要の地に地方事務所を置く。」、「地方事務所は政令で定める。」、「地方法務局長に委任することができる。」等と定められている。この規定によれば、都道府県レベルで見た場合、現行の法務局及び地方法務局での対応と基本的には変わらないことになっている。人権侵害等が地域で生起していること、人権侵害等の被害者が、無料で簡単に相談に行けることが最も重要な点であることを考慮したとき、少なくとも都道府県・政令市でも人権委員を選任し、都道府県・政令市人権委員会が独自の事務所を設置する必要がある。その際、労働委員会が中央労働委員会とともに都道府県単位の労働委員会持っていることが参考になろう。


13,人権擁護法案の問題点<6>〜人権委員会の機能について

 「パリ原則」によれば、国内人権機関は、<1>人権侵害の規制・救済機能、<2>人権教育機能(注・国際的には、人権教育と人権啓発は分けられておらず、人権教育に啓発を含むものとされている。)、<3>政府や国会等への勧告・提言機能、の3つの機能を持つものとされている。この内、<1>の機能に関する問題点についてはすでに述べた。

 <2>については、「法案」では、人権委員会の所掌事務を定めた第6条2項で「人権啓発および民間における人権擁護運動の支援に関すること。」という規程があるだけで、「人権教育」が欠落している。なぜこうなったかというと、人権委員会が法務省の外局とされたため、文部科学省が所掌する「人権教育」を含むことができなかったのである。なお、日本においては、人権教育に関わって「人権教育および人権啓発の推進に関する法律」が2000年12月から施行されている。この法律に基づきあらゆる場で、あらゆる機会に人権教育・啓発が推進されることとなっている。その上で、人権委員会によって実施されるべき人権教育としては、<1>人権侵害等の被害者に対する救済に関わった教育と加害者に対する反省を促す教育、<2>人権との関わりの深い特定職業従事者に対する人権教育、<3>人権侵害等の分析を踏まえた人権教育の在り方に関する提言等が考えられる。

 <3>の政府や国会に対する提言・勧告については、「法案」の第20条で、「人権委員会は、内閣総理大臣若しくは関係行政機関の長に対し、又は内閣総理大臣を経由して国会に対し、この法律の目的を達成するために必要な事項に関し、意見を提出することができる。」と規定されている。この規定では、人権委員会の権限はあいまいで弱いという問題がある。ちなみに「パリ原則」では、人権委員会は、<1>既存の法律や施策の改廃や修正、<2>新たな法律や施策制定の必要性の提言、<3>すでに締結している国際人権条約の実施に関する提言、<4>未批准の国際人権条約の批准の奨励、等ができるものとする必要があるとされている。したがって「法案」でも、人権委員会ができる事項を具体的に記述する必要がある。さらに「法案」では、委員会は「意見の提出」しかできないことになっているが、「パリ原則」にもあるように、「勧告」や「提言」もできるものとする必要がある。


14,人権擁護法案の問題点<7>〜人権擁護委員の改変について

「法案」の第3章では、人権擁護委員会に関する規程がある。これを見ると、現行の人権擁護委員会制度を若干手直ししただけで、基本的には変化のないものにとどまっている。現行の人権擁護委員会がほとんど機能していない状況を反省したとき、思い切って、人権擁護委員を有給化し、被差別の当事者や人権NGOの経験者等を積極的に採用する必要がある。そして、人権や相談に関する研修を義務づけ、都道府県の人権委員会と連携を持った文字通り地域に密着した「人権相談員」(仮称)として位置づけていく必要がある。


15,人権擁護法案の問題点<8>〜メディア規制について

 「法案」第42条4項では、メディアよる人権侵害も特別救済の対象とされている。その中には、犯罪被害者や犯罪行為を行った少年、さらには犯罪被害者や加害者の親族に対する取材に際し、取材を拒んでいるにもかかわらず、継続反復して「(1)つきまとい、待ち伏せ、進路に立ちふさがり、住居、勤務先、学校その他その通常所在する場所の付近において見張りをし、又はこれらの場所押し掛けること。(2)電話かけ、又はファクシミリ装置を用いて送信すること。」などによって、生活の平穏を著しく害した場合が含まれている。この規程はきわめてあいまいな規程で、このままでは、メディアの正当な取材まで萎縮させてしまうおそれが多い。このため、「法案」がメディア規制法だとの批判があがっているのである。従って、メディアによる人権侵害は特別救済ではなく一般救済にとどめる必要がある。とは言え、メディアによる過剰な取材やメディアの報道によって差別が拡大したり、人権侵害が生じている現実は存在している。これに対しては、メディア関係者の中での人権教育を系統的に実施するとともに、個々のメディアを越えた第3者による苦情処理機関を設置し、メディア自身が人権侵害だとする苦情に誠実に対応する必要がある。



16,おわりに

 「同対審答申」で、差別に対する法的規制と抜本的な人権侵害救済機関設置の必要性が指摘されて37年、差別宣伝・差別扇動に対する法的規制と効果的な救済の必要性を盛り込んだ国際人権規約を批准して23年、部落解放基本法案や差別規制法要綱案が公表されて17年、国内人権機関の独立性と多元制等の原則を定めたパリ原則が国連総会で承認されて9年、団体や個人によって行われる差別をも禁止し、終了させることを締約国に義務づけた人種差別撤廃条約に加入して7年という歴史的な時点にあって、ようやくにして「人権擁護法案」が、国会に上程されてきた。日本の歴史上、この法案は、差別や人権侵害を規制・救済するための初めての本格的な法律となる可能性を持っている。「同対審答申」や部落解放基本法案、国際人権規約や「パリ原則」等をしっかりと踏まえ、被差別の当事者や人権NGOを交えた大々的な討議を繰り広げ、与・野党協議を積み上げることによって「法案」を抜本的に修正し、部落差別をはじめとするいっさいの差別と人権侵害を根絶することに役立つとともに、国際社会においても名誉ある地位を占めることができる法律の制定が実現することを期待したい。 

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